学名のススメ(1)-5

ふじもり@えりー


学名の適用範囲

学名の適用範囲という言葉はこれまた問題があるが、言いたいことは

ある目の前にいる虫が命名されている(分類学的研究の結果)として、この虫は果たして何と呼べばよいのか?どこまでその名前で呼んでよいのか?

ということである。
具体的な例で考えてみることにしよう。

(例1)
うちの近所のクヌギの樹液ポイントでは毎年たくさんのノコギリクワガタが採れる。
個々のノコギリクワガタはサイズによって大あごの形状は大きく変化していて(小歯型、中歯型、大歯型)、色やつやはともかく、大あごだけ見ていたら、とても同じ虫とは思えないだろう。
しかし、それぞれの歯型には固有の学名はなく、ノコギリクワガタはノコギリクワガタである。
なにをあたりまえのことを・・・というかもしれないが、それはノコギリクワガタにサイズにより変化する型があるということをあなたが知っているからなのである。
その事実を知らない場合は、はたと「この虫はなんと言う名前だろうか?」と悩むはずである。

(例2)
冬に近所の河原にいって朽ち果てたヤナギの切り株の根を掘ってみるとヒラタクワガタの幼虫が採れる。
クワガタの幼虫は成虫とは似ても似つかない格好をしているが、これはなんと呼べばよいのだろうか?
ばかばかしいと思うかもしれないが、頭を真っ白にして考えてみてほしい。
分類学は見た目(形態)から入るのである。
目の前に何か良く分からないが虫がいて、その虫に名前を与えようとするとはたと悩んでしまうのである。
この虫はなんと呼べばよいのだろうか?
答えは簡単で、学名としてはこれはヒラタクワガタ(の幼虫)である。

(例3)
天然あるいは飼育下でオオクワガタとコクワガタの種間雑種が知られている。
これはオオクワガタとコクワガタが近縁であることを示している一つの事例であるが、この種間雑種個体はなんと呼べばよいだろうか?
チュウクワガタ?
そんな学名は残念ながら存在しない。
あくまでオオクワガタとコクワガタの雑種といわなくてはならない。
雑種には固有の学名は存在しないのである。
しかし、ちょっと考えてみてほしい。
あなたはある夜にいつものようにクヌギの樹液ポイントにやってきて、そっとライトで照らしてみたら、黒いクワガタがいた。
それがクワガタであることはわかるが、オオクワガタ・・・のようであり、コクワガタのようでもあるこれまで見たことの無い形態をしたクワガタだ。
飼育下で無理やり交配して羽化した種間雑種ではなく、天然の種間雑種が存在する場合、それが種間雑種であるということは誰も知らない。
形態的に明らかにこれまで知られている種とは異なるということであれば、この雑種個体を記載することは可能である。
すなわち、学名を与えることが可能になる。
もちろん、慎重な分類学者は近縁と思われるオオクワガタ、コクワガタとこの新種の形態を比較し、この個体が中間形質を持っていること、種を維持するに足ると思われる個体が他に得られないこと、同所的にオオクワガタ、コクワガタが生息していることなどから種間雑種である可能性があると結論づけるだろう。
雑種と解釈可能な個体については新たな学名を与えることはできないのである。
世の中には突然変異型と思われる個体にその元となる種とは別の学名が与えられているケースが多々あるが、これはその当時は新種として記載されるが、後になって、詳細な分類学的検討によって解決されうるのである。
したがって、雑種と分からないで記載された虫の学名はその時点で有効であるが、あとになって雑種ということが判明すればその時点で無効になる。

(例4)
オオクワガタは相変わらず人気なのかどうか知らないが(私にはもうどうでもいいことである)、どうも世間ではカッコイイオオクワガタが存在するようである。
カッコイイかどうかは主観であり何ら種名に影響を及ぼさない。
もし、典型的な個体とは異なる個体が飼育下で生まれたにせよ、野外で採集されたにせよ、大あごが長く、内歯が前を向いていようが、ノコギリクワガタの歯型のように個体群内変異であるならば、それらは奇形あるいは遺伝的多型のうちの1つであり、そのカッコイイ個体に特別な学名が与えられることは決してない。
現在のところ日本に産するオオクワガタは1種類に分類されており、 カッコイイオオクワガタというものに学名は存在しない。
もちろん、愛称としては何をつけようが個人の自由である。
これはあくまで学名の話である。

(例5)
ペットとして輸入された外国産オオクワガタの近縁種が日本産のオオクワガタと交雑した場合には、それらには名前がつかないことになるのであるが、飼育下でなく、もし野外で日本産オオクワガタが複数の外国産と交配し、万が一子孫が定常的に生き残っていったとしたら、それらはやっぱり名前がつかないのである。
しかし、その交雑が広範囲で複雑に進み、すべて交雑種となった場合に、それらの名前がどう取り扱われるだろうか・・・少なくともこれまで使われてきた名前=オオクワガタは使えない。
オオクワガタという名前は、すでにある特徴をもったクワガタにすでに固定されているからである。
幅広い中間形状が蔓延し、外見だけではそれが純粋に日本産クワガタの子孫であるかどうかが判断できない場合はなおさら混乱を引き起こすであろう。
ヒラタクワガタの場合はこれまで固有の種として認められているものがかなり広範に交雑可能であり、それらの子孫が野外で生育可能であるためもっと深刻かもしれない。
でも、長い歴史の中で、東南アジアから流木にのって、あるいは日本列島が大陸と陸続きであったときに渡ってきたヒラタクワガタが日本の各地で散発的にコロニーを形成し、さらにそれぞれが生息範囲を広げコロニー間で交雑していって現在ヒラタクワガタと呼ばれている種群が形成されたと考えてみれば、浅はかな人間の所業によってもたらされた意図する意図しないに関わらず人為的交雑の結果もいつかは自然のものとして受け止められる時がくるかもしれない。
少なくとも現在の命名規約ではこのようなケースは想定されていない。
しかし、人間の所業の結果としておこる、放虫を含む故意あるいは故意によらず起こる交雑は、自然発生的に長い年月をかけて起こる種の交雑(あるいは進化)よりはかなり早い速度で進むことは間違いないだろう。
実際、すでに日本に生息しているヒラタクワガタの数%はすでに遺伝的には東南アジア産の血が混在していることが知られている。
これが人為によるものか、あるいは自然現象の結果として起こったものか判断することは非常に難しい。

目の前いるこの虫は果たして何と呼べばよいのだろうか?
種とはいったい何なのであろうか?
種はどうやって区別されるのだろうか?

まじめに考えると、虫には名前がある、などとさらりというほど簡単ではないのである。


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