さよならの向う側

 Lucと僕の出会いと別れは梅雨のあとさきのようにきらめいていたけど、人に出会いと別れにはそうでない場合もある。その辺のところを、南俊子さんという方が映画「道」を評してこう語っている。
 「なんて豊かな日本。みんなが中流意識を持つという結構な時代。だが、そうだろうか。だれもが陽のさす道にいるとは信じたがっていて、けれど実は今もみな“しがない人々”にすぎないのではなかろうか。いえ、でもたとえ“重要でない人々”であろうとも、人はそれぞれ、誰かにとって掛け替えのない大切な人なのである。そうでなくして、どうして生きていかれよう。  あなたには、大切な人がお有り?あなたは、誰にとって大切な人?
時代や場所は変わっても、愛の本質は変わりないのではなかろうか。
 人はなぜ、こんなふうに誰かを愛してしまうのだろう。人はなぜ人生の道で、こんあふうに誰かとめぐりあってしまうのだろう。
 もし逢わなければ、苦しくはなかったかもしれない。でも逢わなければ、虚しすぎたはずである。その出会いと愛と別れに、誰も罪はありはしない。だからせつないのである。 だれも悪意の人間はいない。みんな寂しく愛と安らぎを求めて、だからそれそれに、ちょっぴりエゴイストであるのがいとおしい。
 人が誰かを愛してしまうことは、他の誰かを傷つけて、その愛を失わせることになる。それでも、人は誰かを愛さずにはいられない。悲しみと優しさと残酷さが迫って、私達の内なる孤独をもう一度みつめさせるのである。
 少しづつわかりはじめてきた、心にもピントがあるってことが。自動焦点カメラ全盛の今日、心のピントだけは自分で合わせたい。どこにそのピントを合わせるかで、心に映るものがまるっきり変わってくる。心には、いつだって少しでもいいものを映しておいたほうが、精神衛生上いいに決まっている。創造し続けていたい、自分の心象風景だけは。


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