高層ビルの悲劇
バスの中でも買物は続いている。「タイガーバーム・ガーデンに行った方で、あの有名はハッカ入りの“万金油”を買い忘れた人はいませんか」という係員の声に、千円札が飛び交っている。記念のお土産にという気持ちが分からなくもないが、その辺の神経が僕には良く理解出来なかった。
係員が面白い話を聞かせてくれた。「高層ビルやアパートの建ち並ぶ香港で、一番怖いのは火事なんです。ですけど水の無い香港では、すぐに消防車が駆けつけて消し止めてくれるという訳にはいきません。火事が起こったら、まずビルの所有者と消防署長とが消火に使う水の値段を交渉するんです。“百万でどうだ”“だめ”“じゃぁ二百万でどうだ”“まだまだ”“え〜ぃ三百万では”“もう一声”しかし、やっと値段の折り合いがついた頃には、既にビルは焼け落ちているんです。」その話を笑いながら聞いていた僕も、バスの窓から今にも崩れ落ちそうな老朽アパートに垂れ下がる洗濯物を見つけた時、笑いは恐怖へと一変した。あそこにも同じように人が暮らしているんだし、そしてなによりホゲーッと遊んでいる僕にも、日本に帰ったみたら家が無かったという悲劇が待ち受けているかもしれないのだから。
このバスの運転手の例をあげて香港の人々の暮らし振りについて話が続く。「彼には三人の子供さんいます。こうして毎日バスを運転しても給料は月に8万円です。けっして暮らしは楽ではありません。食べていくのがやっとです。だから、お客さん達の重い荷物を運んだりして、そのチップで生活しているんです。香港は高層ビルの建ち並ぶ国際都市という表向きの顔を持っていますが、そこに働く人々の生活は、けっして華やいだものではありません」バスの中は急にセンチメンタルになった。旅をしていつも思うことだけれど嫌なことから逃げるように享楽を求め歩いても、行った先々でも必ず働いている人達に出会う。その土地にしっかり根を下ろしてたくましく働く人達を見て、逃げ腰の自分を恥じるそのショックに打ちひしがれて帰るのである。だから、旅はいつも刺激に満ちている。
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