それ急げ!

 時計を見ると9時40分近い。やばい、時間が無い。今日、香港を脱出するためには$120の空港税を香港ドルで払わなければいけない。銀行で両替をしなければ、その金が無かった。さぁ次は銀行だ。トラベラーズ・チェックのUS$60を替えるには大きい銀行の方がいいだろうと、東京銀行かBank of Americaを目指すが、肝心な時に頼りに成らない僕。いつも街を歩く時の道しるべにしていたその銀行を見失ってしまった。急ぐ時に限って迷子になるなんて、自分に腹が立って仕方ない。
 「しょうがなー、どこでめぇや!」と広東銀行に駆け込んで、トラベラーズ・チェックとパスポートを出して「Please change」一昨日の失敗だけは繰り返すまいと、今日はしっかりパスポートを携えていた。お姉さん行員は何も言わず、まずトラベラーズ・チェックを裏表チェックして、続いてパスポートをペラペラとめくりながら念入りにチェック。これでお金を出してもらえるかと思えば、後ろの先輩行員に何やら広東語で尋ねて再びパスポートをめくり始める。時間が無いというのに、まったくかったるい。なんだか英語が通じない雰囲気なので、気の焦る僕も何も言えなかった。日本の出国スタンプと香港の入国スタンプを何度も見比べている。もしかして、彼女は新米行員なのだろうか。銀行に入ってから、既に3分が経過している。「いい加減にしてくれ!」と喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。その時、自分の仕事振りを思い出していた。テニスコートや体育館の受け付けをいつも手際良くやっているだろうか。「No」来客の対応はスムースだろうか。「No」彼女に僕の仕事振りを見るような気がした。ただ異なることが一つだけあった。投げやりで正確性に欠く僕に比べて、彼女は余りにも丁寧すぎた。
 やっとHK$456貰って銀行を出た時には、既に50分を過ぎていた。10時までに部屋の荷物をまとめてロビーに集合しなければ。とにかく走った。出来ることならもう少しのんびり香港でジョギングを楽しみたかった。行き交う人々を避けるため、ボクサーがパンチの練習をしながら走るように、ジグザグにとび跳ねながら僕はホテルを目指した。街の人々には、そんな僕がさぞ異様に見えたことだろう。旅も「知力・体力・時の運」と言うけれど、こんなにまで体力が重要なウェートを占めることを僕は香港で痛感した。結局、要領の悪さをカバーするのに、僕は体力しか持ち合わせていないのである。ガクッ! 息を切らせながら急行エレベーターに駆け込んで部屋へと帰る。旅慣れず用心深く荷物をタランクに詰め込んだままだったのが幸いして、パッキングするのに2分とかからなかった。$10で買ったノーカットのエロ本は、次に泊まる殿方へのプレゼントにと電話台の仏教本の下にそっと忍ばせて。なんと優しい心遣い。そんな物で税関に引っ掛かってたまるか!山でテントを畳んで旅立つ時と同じように「ありがとう。あばヨッ!」と三晩お世話になった1119号室に言葉を掛けてそっとドアを閉める。山では「男は背中に大地を感じて眠る」という言葉に憧れていたけど、こんな国際都市香港のそれも11階という僕の寝床史上最も大地から離れた部屋でも、一夜を共にした女性と同じように忘れ得ぬ思い出がある。山にしろ街にしろ、旅先で世話になった場所には、そこを旅立つ時どんなに見回しても見つからない「過ぎ去った思い出」と言う忘れ物があるようで去り難い。
 10時ギリギリにロビーに下りてみると、まだ集まっていない人達がいた。殿ではなくブービー賞いただき!大阪空港で出会った時から嫌ダナーと思っていたいかにも一昔前のアン・ノン族といった感じのお姉さん二人が「すみませ〜ん」と言いながら、エレベーターに乗って部屋へ上がっていった。「やっぱりこの姉ちゃん達か?」と香港に着いた時の自分を忘れて非難轟々。  フロントで$40の追加料金を払ってチェックアウトの手続き完了。みんなと一緒にマイクロバスに乗り込んでニューワールドホテルを後にした。


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