決断はひとりで下せ!

 夜のスターフェリーは圧巻である。「100万ドルの夜景」が揺れる波間に映るその様は、無骨な山男をもロマンチストに変えてしまう。もしも、隣に彼女でもいたら、妖しい世界へと誘うことだろう。それにしても目に付くのは、日本企業のネオンである。「経済大国日本」の名をここ香港でも欲しいままにしている。街を歩いていても、見慣れたブランドに心強い。日本では「エコノミック・アニマル」と言う言葉に肩身が狭いが、異国では誇りにさえ思える。僕のような怠け者が、肩で風を切って歩けるのも、そう呼ばれる人達のお蔭である。「虎の威を借る」とは正にこの事である。僕にはいったいどれだけの力があるのだろう?
 昼間には見なかった人力タクシーが客待ちをして並んでいる。Johnに連れられて山手の方へと通りを横切って行く。これまた龍の踊る派手に飾った中華レストランに入る。既に11時を回っていて、店は少々閑散としている。ボーイさんに椅子を引いてもらってテーブルに着く。丸いテーブル自体はそんなに立派じゃないけれど、その上のテーブルクロスには目を見張る。一人一品づつ肉、魚、野菜とメインディッシュを注文する。二階からは食事をし終えたグループが賑やかに降りてくる。テーブルの上には数々の食器が並べられていく。この中華模様がまたエキゾチック。もしかして、景徳鎮で作られた食器だったりして?料理が運ばれてくる。正式名はさっぱり分からないけど、とにかく出て来る。洋食はメインが盛ってある皿一枚で終わりだけれど、中華は色々な調味料を従えて出て来るので、テーブルは一段と賑やかになる。3人でそれぞれ分けあって食べる。調味料の辛し味噌に人気が集まり、Lucがお代わりする。
 ところが、そんな豪華な料理とは裏腹に、僕の体調は次第におかしくなって来た。料理を半分平らげた辺りから、さっぱり胃が料理を受け付けなくなった。Johnは野菜いためをレタスにくるんでムシャムシャ食べているが、僕は箸を置いてお茶を飲む回数が増えてきた。空きっ腹にいきなり御馳走をびち込んだからか、いやそんな具合ではなかった。一人だけ箸を持たないのも場を白けさせてしまうと無理して口に運んではみるものの、次第に顔から血の気が引いて顔面温度が急降下して行くのが分かる。煮豆を摘むように箸先で料理をつっつくのがやっと。2人は満足顔で口の周りをナプキンで拭いている。
 良く聞き取れないけど、彼等は食後のプランを練っているようだ。腹減らしにディスコで踊って酒でも飲むらしい。2人の会話は耳鳴りの彼方に掻き消され、僕はますます孤立して行った。なんだか意識ももうろうとして、平らげたテーブルの食器がぐるぐると渦を巻いて回りはじめ、僕は椅子に座っているのが精一杯だった。旅の疲れが出たのだろうか?いや、僕にははっきり分かっていた。それがJohnと会ってからのカルチャーショック症候群だということを。
 割り勘で店を出る頃には0時近かった。お客は僕達だけとなり、ボーイさん達も店仕舞に追われていた。僕はふらふらしながら裏口から店を出た。外気に触れて多少気分は良くなったけど、この後ディスコへ行く元気はまるで無かった。
 僕は決断を迫られていた。せっかく、3人の出会いを祝し、また明日日本に帰るという僕の別れを惜しんで楽しもうという晩なのに、ここで別れては二人に悪い。だけど、僕はもう限界だ。とても踊ったりなんか出来ない。もしこのままついて行って、僕が倒れたらそれこそ彼等に迷惑を掛けてします。
 僕は大学一回生の槍ケ岳事件を思い出していた。先輩に連れられて初めての北アルプス。アルプス三大急登の一つの合戦尾根では、「大丈夫か?」という先輩に「楽勝ですよ!」とはしゃいでいた僕が、憧れていた穂高が積雪の為行けなくなると、ショックで槍の頂上で39度近い熱を出して寝込んでしまった。1回生の僕がテントの一番奥に寝かせてもらい御飯まで先輩に作ってもらった。そして熱も少々下がった翌日、耳鳴りと幻聴に襲われながら先輩に荷物を抜いてもらった軽いザックを背って、長い道程をふらふらしながら下山した。新穂高温泉にたどりついたのは、日もどっぷり暮れた6時を過ぎていた。そんな苦い記憶を思い出していた。一人旅、それは気ままで自由だけれど、すべてが自分の責任という十字架を背負っている。そして、旅のアクシデントを他人に責任転嫁した瞬間からそれは自分の旅ではなくなる。
 実は、もう一つ僕の心に引っ掛かるものがあった。ディスコが恐かった。僕はディスコという所に行ったことが無かった。学生時代から僕は、人が集まるところにもたっぷり魅力はあったけど、一人山に入るほうが好きだった。一人自然の中にいる時こそ、僕の心は解き放たれていた。人の中に入りたくなかったし、それ以上に、僕の心の中に他人が入り込むことをひどく嫌って避けていた。ディスコなんて軟弱な!とも思った。長い山行の前には倉本聡のテレビドラマ「北の国から」に涙して、アサヒビールのCM「流した汗でしか本当のことは語れない!」というその言葉をただひたすら信じて、夕暮の鴨川べりをランニングしていた。友達は「また発作を起こして!」と呆れていた。人はよく僕に「一人で山に登って寂しくないですか?」と聞く。確かに寂しい、堪らなく寂しい。だけど、少しくらい寂しくても虚しさだけは味わいたくない。その頃の僕は人間不信に陥っていた時期かも知れない。人間か自然かの物差しでしか判断出来なかった時、自然の中にいたほうが楽だった。
 二人には本当に申し訳ないけどホテルに帰ることにしよう。やっぱり一番可愛いのは自分自身である。訳を話せばきっと分かってくれるだろう。もし分かってくれなくても帰ればいい。自分を殺してまで他人の世界に近付こうとか、入り込もうとかする必要は無い。そんな人間には初めから付き合う価値など無いのだから。
 路地の曲がり角で、二人を信じてLucに話した。「I am very sorry. I have a headache, and very tired. So I want to go back to my hotel. Sorry!」一度は引き止めたけど、僕を気遣って「それじゃ気を付けて!」という意味の優しい言葉を掛けてくれた。僕はもう一度「Sorry!」と頭を下げながら手を振って二人を別れた。堪らなく嬉しかった。やっと、自分の意志を伝えられたこと以上に、二人が嫌な顔一つせずに僕を理解してくれたことがしみじみ嬉しかった。


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