氾濫する『物』と廃れる『心』
どやどやとバスを降りてみんなの後に続く。緩い坂を下って行くと、土産物屋の軒が目に入ってきた。ここは一大ショッピングセンターだったのか。それにしても、こんな田舎にどうして?近くのリゾートホテルのお客さんをあてこんでいるのだろうか。
けっして立派な店構えではない。間口は狭く奥の長い店がずら〜と軒を連ねている。靴・ネクタイ・ハンドバッグ・ベルト・宝石類・アクセサリー・掛け軸・絵画・焼物・ズボン・シャツ等々、ありとあらゆる『物』か溢れてい。特に衣類は桁外れ、こんなに余っているのなら、当分作らなくてもいいのでは、とさえ思えてくる。
観光客はあれでもない、これでもないと衣類の山を掘り起こす。流石に高級品は無いようで、質より量そして値段で勝負らしい。余りの量に目移りして、なかなか品定め出来ない。店は海岸の複雑な地形に沿って坂あり谷あり。
いったいこれらの品は何処で誰が作ってここに運んでくるのだろう。ここに並んでいる服も、うちのお母さんか働いてるような田舎の小さな縫製工場で作られてるに違いない。作っている人は、自力の縫った服がこんな所でこうして売られているとは、きっと想像もつかないだろう。そして世界の人々がそれを買って行くなんて。店先で売られている物にも、人の一生と同じように、それぞれに様々なドラマがあり、人生があることだろう。
時に、『物』に囲まれて生活している我々は、質素と貧困の識別が出来ず、慎ましく暮らしている人たちを、つい自分たちの感覚で貧しいと見てしまってはないだろうか。必要に応じて作り、それを有効に使うという物に対する『心』を、『物』という洪水の中で忘れてしまっている。何も作り出さない僕は、地球上の資源を喰い潰す寄生虫にすぎない。
何を買うでもなく歩き回ったので腹が減った。僕らは、土産物長屋を抜け出し、海辺の通りに出てみた。小舟の留めてある浜にパシャーッ、パシャーッと静かに波が寄せては返す。そんな光景を老婆が一人、ベンチに座って眺めている。年老いて何を思うのだろう? 潮の香る通りを歩いて行くと、小さなカフェがあった。イギリス人らしい二人のおばさんがカウンターの中に立っている。まるで、今いくよ・くるよのようにドップリ太ったおばさんとガリガリのおばさん。席は空いていたが、あえてカウンターに座る。流石にこの店は英語オンリ−で、中国語(広東語)は何処からも聞こえてこない。ここはLucに任して事を運んでもらう。カウンターの奥の棚にはスコッチの瓶がずら〜っと並んでいるが僕らはコーラとピザパイを注文する。太ったおばさんは愛想よく話しかけてくる。だけと余りの早口に僕は理解出来ず、Lucが僕の分まで対応してくれる。トイレの中も英語の落書がびっしり。タバコをきらしたので、隣りのタバコ屋へ買い出しに。小さなパイーつでは余り腹の足しにならなかったけど、「Have a nice trip!」とおばさんに見送られて店を出た。
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