『殺気』

 ピークトラムに乗ってビクトリアピークヘでも行こうと山手に向かって歩いたが、それらしい看板が見当たらない。どうせ頂上は一つ、どの道を選んでも行けるだろうと構わず進んでも分からない。それにしても、香港島は坂の街。突然道が途切れて階段が始まったりする。サイドブレ一キの効かない車はこの街では生きて行けない。
 やーめた。諦めて街を放浪する。7elevenあり。「可口可楽」=コカコーラ。腹が減ってきたので食料調達の為に地下にあるスーパーに入る。流石に物が豊富に並んでいる。それも国際色豊かに。牛乳1L$9.60卵はサイズ色々のバラ売り。鶏一羽$26.20缶詰はどれも錆びている。水1.5L$4.90サッポロ生樽3L$41.30香港ビール生加卑酒$2.30・・・etc。何にしようかと迷っていると、おばさんが「林檎がうまい」と手に取ってしきりに薦めるので、コーラと林檎を一つ買って$3.30也。
 坂の街、香港。坂の一つ一つが裁縫道具の坂、果物の坂と特徴がある。長い石段の途中に腰を下ろして林檎を噛っていると、上の方か黒紫色のすももみたいなのが、おむすびころりんよろしく落ちてきて車道を横切った。と、今度はクーラーの水がポタリと頭の上に落ちてきた。林檎を噛りながら、行き交う人々のピープル・ウォッチング。全体的な人の流れは日本と変わりないのに、一人一人の表情を良く観察すると、みんな目がきらめいている。日本人の様に服が歩いているのではなく、香港の人達は目が歩いている。目の瞳と白目のコントラストが非常にはっきりしている。そして、別にキョロキョロしてるのではないが、物事に対して目が機敏に反応している。生きの悪い鯖の様な僕の目とは違う。
 郵便局ではがきと切手を買う。官製はがきが欲しかったのに絵はがきを出されてしまった。1校1$。切手も普通のが欲しかったのにセットになった記念切手を出されてしまった。それを換えてもらう勇気と言葉がなくて、胸の内では二人の自分が葛藤する。〔お前は誰だ。自分の意志を持たないのか?〕vs[まぁええか、また買えば!〕旅の途中ではとりわけ一人旅の場合は、一瞬のタイミンダを逃すとその瞬間から路地裏の迷路に迷い込み、果てし無く遠回りを始める。自分の望むものは目の前に見えているのに、表情はこわばり、思いはことばに出来ず、自ら遠のいて行く。
 賑やかな通りを横切って、海岸通りへと坂を下っていく。すると、なんだか高い塀が続く建物が現れた。手の届かないような高い所に鉄格子の窓がある。いったい、何だろう?何処からとなく動物の匂いがする。中の方から鶏の鳴き声も聞こえてくる。中ほどに大きな人口があった。中を覗いてみると、鶏・鶏・鶏。そこはなんと鶏の屠殺場だった。一段と臭い匂いが鼻を突いてきた。気持ち悪いなぁ〜、でも入ってみたいし。こんな街中に屠殺場、香港では何もかもが同居しているのか?怖そる怖そる中へと入って行く。両側には竹で作った籠が積み上げられ、その中で数種類もの鶏がやがて迫り来る死を知ってか知らずか、鳴きわめいている。このまま入って行ってもいいのだろうか?入口には別に立ち入り禁止の表示もなかったけど、でも観光客の来る所じゃないし。また、二人の自分が葛藤する。〔どうしてお前はこんな恐ろしい気味悪い所に入りたいんだ?〕vs〔そう言うお前だって見てみたいくせに!〕10人余りの人達が半ズボンにランニング、いや肩切りと言った方がそれらしいか、の恰好で無言のまま作業している。熱湯に浸けた鶏の羽を大きな桶の中でむしっている人。首の無い丸裸の鶏を両手にいっぱい持って運んでいる人。大きなまな板の上で手際良く鶏を裂ばく人。時おり鋭そうなナイフが鈍く光っている。僕の恰好は一見して観光客、イエロー・ブルー・霜降りの余りにも派手なポロシャツに真赤なデイパを背負って。余りにも場違い、余りにも興味本意、余りにも軽率。今にも止まりそうに心臓は凍りつき、吸い込んだ息が吐き出せない。その恐怖に脅えた表情をカモフラージュするため周囲の動きに細心の注意を払いつつ、作業している人達には無関心を装って鶏籠の方をキョロキョロと。その振り向きぎまに出会う視線のなんと冷たいことか、日焼けした顔から突き刺さる白い目・目・目。〔此処はお前なんかの来る所じゃにぇ〜。さっさと出て行け!〕と言わんばかりに鋭い視線。鶏のギャーギャーと鳴き叫ぶ声など僕との間の空気はその潜んだ殺気に凍りつき、僕の耳には何も届かない。今にも鶏の血が付いた鋭いナイフをもって走り寄られそうな気配さえ感じる。
 御免なさい。作業しているあなた方は何も悪くないのは充分わかってます。あなた方が人殺しとは全然思っていません。悪いのは僕です。余りにも軽率に興味本意でこんな場違いな所へ無断で入って来て、そのあげくに一方的に他人を人殺しに仕立て上げ、勝手に殺気を感じて怖がっているのは僕です、僕が悪いのです。それでもすぐ出て行けば良いのにキョロキョロと長居して。お願いです、もうすぐ出て行きますからもう少しそのままじっとしていて下さい。
 出口の所まで戻って、徐に(内心ひやひや)カメラを構える。フラッシュが皆さんを刺激してしまうだろうか、でも此処ならすぐ外に逃げられる。すぐ走り出されるよう心づもりして、息を殺してシャッターを押す。ジーピカッ!「撮ってしまった!」鳥肌が立つとはこういう場合を言うのだろう。まったく僕は最低の男です。けっしてタペ御馳走になった北京ダックの味を忘れていた訳ではありません。皆さんのお蔭で美味しく頂きました。本当に御免なさい。もしかして、突然の「招かれざる客」に驚いたのは皆さんの方かも?
 屠殺場の外では、あいかわらず人々が行き交っている。交差点で信号待ちをしていると向うから一団の女学生が歩いて来た。香港の女学生は白いワンピースに紺のネクタイとなんと清楚なことか。さっきの後だけに、僕の目には余りにもピースフルに映った。これはもう、正統派?ロリコンに成りそう!
 看板の多さには驚くが、ここ香港島では街角の貼り紙とジュースの自動販売機が全く見当たらない。海岸通りにはタバコの吸殻も無く、とても奇麗な街。


<<トップページへ>>   <<もくじへ>>   <<次の章へ>>