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2001.09.01. 掲載
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朝目を覚ますと、船はロードス島に接岸していた。クルーズが嬉しいのは眠っている間に次の移動地へ着いていることだ。船内新聞では歩いて10分で旧市街に行けると書いてあるが、実際に接岸したのは予定の港ではなくて、バスで20分くらいかかる遠く離れた港だった。これまで一番乗りで他の2隻のクルーズ船を出し抜き、テンダー・ボートによる上陸を免れて来たのだから、市街に近い港を他の船に譲るのは当然だと現地ガイドが話していた。
ロードス島はドデカニサ諸島の中の最南端にある一番大きな島で、昨日訪れたパトモス島はこの諸島の一番北にある。ドデカニサというのはギリシャ語で12の島という意味で、1908年に当時の支配国オスマン・トルコ帝国に対して団結して反旗をひるがえしたことから名付けられたと言う。
この島について観光案内の本には「薔薇の島」と書かれているが、どこにもそれらしい気配はない。現地ガイドに尋ねると、ヨーロッパ人がロードスをローズと聞き間違えたために、そのような話が広まってしまったが、島にはバラは咲いていないと言う。島の名前の由来は太陽神ヘリオスの恋人「ロドス」からとったという説が有力のようだ。島の名前も Rhodes とも Rodos とも Rhodos とも書かれていてややこしい。
BC12世紀のころ、この島にドリス人が住みつき、ホメロスの詩にもうたわれているリンドス、イアリンソス、カミロスの古代3大都市を築いた。そのうちのリンドスは現存している。その後、BC5世紀になってロードス市が誕生し、この頃がこの島の最も繁栄した時期だと言う。
その後はローマ人、サラセン人、ベネチア人とこの島の支配者はめまぐるしく変わり、AD14世紀にエルサレムを逃れてきた聖ヨハネ騎士団が現存するロードス・シティーの旧市街を作った。その騎士団もAD16世紀にトルコ軍に追い払われ、今世紀初頭にはイタリア人、次いでドイツ人の支配下に入り、1947年にギリシャに統合されたと言う。
ながながと書いてしまったが、この島の歴史を知って観光すると、BC12世紀の古代都市、AD14世紀のヨーロッパ風の中世都市、その中にはトルコのモスクもあり、そして現在の欧米諸国の一大リゾート地としての新市街が共存するという今までに見たことのない珍しい島であることが分かる。
AD14世紀に聖ヨハネ騎士団が建設した旧市街を取り巻く海沿いの城壁は全長4kmもあるという。カウンテス号を下船してバスに乗り、降ろされたところがこの城壁の前の海岸に突き出た駐車場だった。城壁の中がロードス・シティーの旧市街で、この旧市街全体がユネスコの「世界遺産リスト」に登録された「中世都市ロードス」である
駐車場のすぐ目の前にあるマリン門から城壁内に入り、騎士団通り(イポトン通り)を登った。通りは玉石で舗装されていて、両側には中世の面影を色濃く残した建物が立ち並ぶ。約200m続くこの通りを歩きながら、ここは今まで見てきたギリシャの風景と全く違っていることを感じていた。例えば、イタリアのフィレンツェとかスペインのトレドの街中を歩いた時に近い感じだ。
聖ヨハネ騎士団はイタリア、フランス、スペイン、イギリスなどの混成部隊で、それぞれが分かれて宿舎に住んでいた。各国騎士団の宿舎だった館には、イタリアやフランスの国旗を掲げたものもある。ほとんどが14〜15世紀の建造当初のままだと言う。
騎士団通りが始まる左手に考古学博物館がある。ここはAD15世紀に騎士団によって建てられた病院で、今は考古学博物館として公開されている。
そのほかの旧市街のあちこちの様子をスナップ写真でご紹介しよう。
旧市街の北側にマンドラキ港があり、この突堤の中間地点に3連の風車、突堤の先端にはセント・ニコラス要塞がある。この要塞から左に進むとマンドラキ港の入り口に2頭の鹿が海を向いて立っている。鹿はロードス・シティーの象徴で、このあたりが新市街で一番ポピュラーな景観と言われている。
私たち4人のうち、奥方たちは風車のところで休憩、Dr賢三は要塞まで、結局鹿の像をこの目で見たのは私だけである。この鹿の像のある場所に、BC3世紀まで世界の7不思議に数えられるコロッソス(ロードスの巨像)が立っていた。それは30mに達する太陽神ヘリオスが仁王立ちした青銅像だったと伝えられている。
そのようないわれのあるこの鹿の像を見たくて、他の3人に構わず独りどんどん歩き、この鹿の像を見つけると、デジカメとビデオの撮影に夢中になった。その時、海から強い風が吹き、かぶっていた帽子は海中に飛んで行ってしまった。私はためらわず靴を脱ぎ、滑り落ちないように注意をしながら、岩づたいに帽子の漂う場所に行き、なんとかこれを拾い上げることができた。もちろん帽子はずぶぬれだ。(ドジ#8)
撮影を終えて皆のところへ戻り、帽子の話をしたら「あんな古い帽子捨てたら良いのに、海に落ちたらどうするの」が妻のことば。私が古いものを大切に思う性分であることを長年連れ添っていながら分かっていない。「自分だって古女房だから大事にされているのを分かっているのか」と言いたいところだが、人前だからぐっとこらえた。
私は帽子が好きではない。この帽子も初めての海外旅行の時に、しかたなく買わされたのだが、それから二人で6回海外旅行をしてみると、あのタイプのペアルックの帽子を着けた夫婦には一度も出会わなかった。そうなると、むしろあの帽子を自慢に思うようになってきた。それを何だ! 自分はクルクルと巻き込んでしまえるつば広の帽子をこの旅行の前に買ったので、あんな古びた日よけに役立たぬ帽子はお払い箱だと言うのか!
聖ヨハネ騎士団が城壁を築いた時、自分たちが知っているヨーロッパの城を手本にしたので、外側の城壁と内側の市街の間に堀を作った。もちろん外敵に備えるためだ。その堀を雨水で満たす積りだった。ところが、この島にはほとんど雨が降らない。待てども待てども、堀に水を張ることはできなかった。この話はギリシャの現地ガイドから聞き出したのだが、観光案内書にはそのような記事は載っていないので真偽の程は分からない。しかし、はなはだ説得力のある話だと思う。
マンドラキ港を見終えたので食事をすることにした。もう、正午はとっくに過ぎている。昼食は旧市街のソクラツース通りで見かけたハイカラな「ソクラテス・ガーデン」でしようということになった。マンドラキ港から一番近くにあるエレフテリアス門から再び旧市街に入ったが、入り口をよく確かめなかったので、旧市街の中ではなく、外側の城壁と内側の市街との間にある堀の中に入ってしまっていた。
この時先頭を切ったのがDr賢三で「ちょっとおかしいのと違う?」という声を聞かず、「そのうち市街の入り口が出てくるやろ」とどんどん先に行くのだ。しかし、行けども行けども外周を巡るだけ、「太陽の国」と言われるロードス島の日光は半端なものではない。おそらく、ここでも45度を越えていただろう。あそこに非常用の出入り口があると喜び勇んで近づくと、そこは閉鎖されたガラス戸で、あざ笑うような人魚の絵が描かれていたりした。しかたなく、現地ガイドが笑って教えてくれた水無き堀の中を懸命に歩き続けた。そして、城壁を4分の1周(それでも約1kmはある)したところで、やっと市街に入れる登り口に遭遇できたのである。
市街に入っても今度はソクラツース通りが見つからない。あちこちうろうろして、ようやく目指す「ソクラテス・ガーデン」にたどり着いた時には誰もが疲労困憊。この時の写真は人様にお見せするには失礼過ぎるので、午前中に撮っておいたもので代用することにした。
以上のドジについては、もちろん私とDr賢三が責任を折半するべきところだが、この日は明石デーを予定しているので、Dr賢三に全幅の責任ありとさせていただいた。明石家の皆さま、お許しあれ。(ドジ#9)
昼食を済ませたあと、5時半の最終帰船時間までの間、瞳夫人はスケッチをする、男たちはインターネット・カフェでE−メールやBBSの書き込みをすることになった。妻は瞳夫人の邪魔にならないように男たちと行動をともにすることにした。
地図で見ると、新市街の中央部プラザ・ホテルの近くにインターネット・カフェの店があるようだ。距離にして300mくらいだろう。そこで歩いて行くことにしたのだが、また道に迷ってしまい、暑い目をして結局はタクシーのお世話にならざるを得なかった。
インターネット・カフェに入ると10台くらいパソコンは置かれていたが、どれも若者たちが占拠していて、尋ねてみても何時空くか分からないと言う。船に帰るまでに残っている時間は1時間足らずだから、空くのを待つわけにはいかない。「骨折り損のくたびれもうけ」とはこんな時に使うのだろう。だいたい、インターネット・カフェがどんなものか知らず、名前だけから判断してインターネットがすぐ使えると思ったのがドジだし、最初からタクシーに乗らなかったのもドジだ。今日は明石デーだから、この責任もDr賢三に負ってもらうことにした。(ドジ#10)
瞳夫人とは4時半にバス乗り場で待ち合わせることにしていた。私たちは目的が果たせなかったので少し早目にバス乗り場にやってきた。ところが、時間が来ても瞳夫人の姿はない。こうなると、妻はだんだん心配になり出し、そのうちにパニック状態になってしまった。何か事故に巻き込まれはったのでは?と、あっちへ行ったりこっちへ来たり、せわしなくウロウロ動き回っている。こんな風に妻はしばしばパニック状態になるので、私や息子などはまた始まったと気にしないが、Dr賢三はかなり驚かれたようだ。妻の反応パターンを知らないのだから無理もない。
5時の最終バスが出たので待つことを止め、タクシーで船に戻った。乗船口には瞳夫人が疲れた表情で待っておられた。道に迷って約束の時間に少し遅れ、焦ってふと前を見るとオリンピック・カウンテス号が停泊している。こんな近くに船が泊まっていたのかと歩いて行くと、この船ではないと言われた。それからは教えられた方へ歩いて、30分以上かかってようやくこの船にたどり着いたそうだ。
妻は大喜び、瞳夫人が何度も何度も謝られるので困ってしまった。妻が「心配しい」で、すぐパニクルから大騒ぎになったが、私もDr賢三もほとんど心配などしていなかったのだ。しかし、今日は明石デー、これも瞳夫人のドジにさせて頂くのをお許し願いたい。(ドジ#11)
考えてみると、このようなことが起こった遠因は、オリンピック・カウンテス号の船長が常に一番乗りをして、接岸を独占したことにあると言えないこともない。本当なら歩いて10分の港に停泊できたのだから、、、
今夜はガラ・ナイト。船長主催のガラ・カクテル・パーティーに始まり、ガラ・ディナー、ガラ・ショーが行われた。「ガラ(Gala)」とはイタリア語で「祝典」「お祭り」のことである。
オリンピック・カウンテス号は午後5時30分にロードス島を出航し、クレタ島に向けて167海里(142km)を航海中である。