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奥さん入院、亭主大変

1998.09.29. 掲載
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結婚して30年間、お産以外では入院したことのない妻が、手術のために入院することになった。これは我が家にとって重大事件である。

ことのあらまし

妻は83年から、右の耳の中に水が溜まる滲出性中耳炎になり、星ケ丘厚生年金病院で1年間、鼓膜を穿刺して、水を抜いてもらっていた。翌年、阪大病院を受診し、S耳鼻咽喉科を紹介され、ここで鼓膜にチューブを、年1〜2回入れていただき、ほとんど、正常に近い聴力で生活することができて喜んでいた。

しかし、4〜5年前から聴力が落ち、3年前にはチューブから、絶えず濁った液体が垂れて出るようになり、最後は、チューブを入れることもできなくなった。右耳が聞こえ難くなり、そのことに苦痛を感じ始めたため、今年の2月には手術をしていただくことに決まった。S先生のお話では、2〜3日の入院で済むが、5月の連休明けまでは多忙なので待って欲しいと言われ、待つことになった。ところが、7月に入って「手術ができなくなったので、他の先生を紹介をする」と言われ、後輩のA先生宛ての名刺を下さった。

2〜3週間の入院

紹介していただいたA先生の診察を受けて、帰宅した妻はすごく落ち込んでいた。手術には2〜3週間の入院が必要と言われたからである。S先生の「手術した後、2〜3日は入院してもらいます」という話とは大違いなのに私も驚いたが「手術を慎重にしてくれはるんやろ、この際徹底的に治してもらう方が、いいのと違うか」と慰めた。

3月にS先生にお目にかかった時、手術について伺ったら、耳の中から手術をすると言われたが、A先生はやはり耳介(耳たぶ)の後を切開する方法でされるのだなと思った。今から35年ばかり前の、医師になりたての頃、何度か耳鼻科の全身麻酔をかけたことがあり、その時は、何時もこの切開法だったからである。

全身麻酔で耳の手術を受けると聞いた妻の親兄弟は、非常に心配した。昔、妻の兄の親友のKさんが、東京の会社に就職をして、そこのある病院で耳の手術を受けたところ、麻酔が覚めず死んでしまった。そのことを誰もが良く覚えていたのである。「大丈夫?Kさんのようにならへん?」と、何度も同じ質問を受けた。

もちろん、一番心配しているのは手術を受ける本人で、心配しいファミリーの中でも、飛び抜けて心配性だから「生きて帰って来れへんわ」と何回も言い、手術を止めかねない状態である。挿管して行う全身麻酔が一番安全であることをくりかえし、くりかえし説明し、たまに帰って来た愚息にも説得を頼み、何とか予定通り手術を受けることになった。

手術日は9月10日と決まり、その1ヶ月以内に検査を済ませて置かなければならないので、夏季休診の期間を検査に当てることにし、海外旅行は取り止めにした。また、18年間放置してきた家の中の壁紙やカーペットを、今年は取り替えるつもりで、銘柄の選択も終わっていたが、これもキャンセルした。

手術前の小さな幸せ

手術の後で臨時休診をすることにして、夏季休診は8月13日から17日と短くした。A先生は開業されていて、手術は大阪市内のOK病院でして下さるので、術前の検査もこの病院で受けるのだが、この総合病院は午後からも診療があり、夏季休診の前に検査を済ませることができた。

そうなると、「この休みを無駄にすることはない、どこかへ行こう!」とJTBを訪れ、翌日から「鎌倉、横浜1泊2日の旅」を楽しんだ。天候も、その他何もかもうまく行き、小さな幸せを味わうことができた。

世界漫遊旅行にでも行きはるのですか?

9月10日から15日まで、臨時休診することにして、その2週間前から、休診の日程表を患者さんにお渡しして行った。すると、間もなく「野村先生とこ、えらい長ごう休みはるそうやで」と、人から聞いたと言って、何人かが予定日よりも早く来院された。

しばらく経つと、「15日間も休みはるそうやから、早よ行っとき」と言われて来られた人があり、「1ヶ月も休んで、先生、世界漫遊旅行でもしやはるんですか?」と、受け付けで尋ねている大きな声が診察室にまで聞こえてくる。

人の噂は、ことほど左様にいい加減なものである。そのことを、今回つくづく実感した。そういう訳で、休診の理由を話した患者さんは、わずか2〜3名で終わった。耳の手術が脳腫瘍の手術に変わり、最後は危篤と伝えられる恐怖を感じたからである。

義母脳梗塞で緊急入院

8月30日、日曜日の午後10時10分に、義父から電話があり、義母が突然倒れ、自分で布団まで這って行ったと知らせてきた。私は悪い予感がしたので、とりあえず自分が様子を見てくると言う妻を制して同行した。大腿頚部骨折でなければ良いがと思いながら家に着くと、右上肢がほとんど動かず、右下肢は動かせるが、体を支える力はなく、話す言葉がほとんど分からない。明らかに脳卒中で、症状の軽さから考えて、脳梗塞の可能性が強い。義兄と連絡をとり、星ケ丘厚生年金病院に緊急入院させて頂いた。入院後の検査では、予想通り脳梗塞であった。

妻はそのまま付き添って病院に残り、私は午前2時過ぎに帰宅した。全く思いがけないことのため、明日からの診療の準備を私がしなければならない。そういう訳で、妻が入院してからするはずの仕事を、10日早く始めることになった。おまけに、妻の入院日まで、検査の予約を全部取ってしまっていたので、8時15分から胃透視などをしなければならず、これには参ったが、致し方ない。妻は開業以来、看護婦・レントゲン技師・薬剤師・受付事務員・雑役婦の仕事を受け持ってきた。その仕事を引き受けてみて、野村医院は二人で作ってきたのだ、ということを改めて思った。

天が与えてくれた予行演習

妻は、入院するまでの10日間のうち、4夜病院に泊まり込み、そうでない日も、ほとんど病院に出かけていた。当然、その分こちらの負担も増えるわけだが、義母が倒れた時から、これは「天が私たちのために与えてくれた、妻の入院の予行演習だ」と思ってきた。予期していないことが起こった時、困惑はするが、それに対処する過程を、どこか楽しむ習性が、昔から自分にはあるように思う。

25本のバラの花束

手術間近に、予期せぬ義母の入院が重なり、いささか暗い気持ちになっていた9月1日の朝早く、バラの花束が届けられた。開業以来の患者さんで、飲み友達、最近ではメール友達でもある I さんからの贈り物である。同時に開院25周年を祝う彼からのメッセージも、Eメールで届いていた。 気の重いことが続いていた私ども夫婦にとって、この25本のバラの花束は、例えようもなく嬉しく、ありがたかった。早速、花束を待合室に飾り、デジカメで撮影した画像を、お礼のメールに添付した上、ホームページにも掲載して、その喜びを表した。

翌日は水道が水漏れ

バラの花束で喜んだ翌朝、水道使用量の異常増加を指摘され、水道屋さんに調べてもらったが、漏水個所は不明。結局、水道管の通っているコンクリートやタイルの部分を、はつらなければ分からないということになった。

前回の使用量80立米、今回250立米と3倍以上である。余りにも大量なので、使わない時は元栓を止めることにした。寝る前に門の近くにある止水栓を止め、朝起きると同時にこれを開く余計な仕事が増えてしまった。

妻が、母親の看病のため病院に泊り込んでいる状況での、この追い討ちだ。二度あることは三度ある、悪いことは重なるというが、本当である。しかし、四度ということは聞いたことがない、これからは、逆に良い方に転じるのだろうと思うことにした。

Windows パソコンの使い方 版下完了

交野市医師会のパソコン同好会は毎月第2土曜日の午後に例会を開いている。9月の例会で、ちょうど満2周年を迎えるため、2年間の例会で使ったテキストをまとめることにした。義母が脳梗塞で緊急入院したため、妻の居ない時間が大幅に増えたのを活用して突貫作業を行い、9月4日午後に版下の印刷を完了した。

そこで、印刷所に電話を入れ、例会に間に合わせてもらうことになった。私はこれから良いことが始まると喜んだが、OK病院で麻酔のための検査を受けて帰ってきた妻は、すっかりしょげている。手術のために、耳の上を3cmの幅で剃毛しなければならないと告げられた、それは困ると言うのだ。

そは誰ぞ

翌日5日、妻は美容室に出かけた。手術のあとは髪を下ろし、耳の後ろの剃毛された部分を隠すことに決めたようだが、そのためには、パーマを当てておく方がうまく行くらしい。それから2時間ばかり経った頃に、電話があり、買い物をしたから迎えに来て欲しいというので、駐車場で待っていた。まもなく、女性が出てきて、立ち止まってこちらを向いているのに気が付いたが、見覚えはない。誰かを待っているのだろう、と思っていると、手を振り出した。慌てて車を近づけ、「何で来ないのよ!」 「プードルみたいな頭して、分かるわけわけないやろ!」、で一件落着した。

思えば、妻の髪を下ろした姿は新婚の頃に限るようで、その他は、全て髪を束ねている。開業した頃は、患者さんに、「奥さんの気持ち良う分かるわ、忙しいから、髪なんか構う暇ないもんね」と、よく言われていた。たてがみを振り回し、慌ただしく買い物をしては、疾風の如く消え去るのを見ての、同情の声だった。それが何時まで経っても変わらないのを知ってか、近頃は、誰も何も言わないようだ。

妻の名誉のために言っておくが、彼女も何度か、ヘアスタイルを変えようと試みてきた。しかし、その度に、「何やその髪、似合わん、いつもの方がええ」と、即座に言われるので、その内に、自分でも他のヘアスタイルは駄目だと思い込んだのかもしれない。だから、妻のヘアスタイルは、「亭主の好きなポニーテール」というところだが、55歳でポニーテールは可笑しいし、佐々木小次郎スタイルも変だ、何と呼べば良いのだろう?

不在者投票を初体験

9月6日、日曜日は、市長選挙の公示日である。今回はじめて、不在者投票なるものを夫婦そろって経験した。昼前に、市役所へ出かけてみると、手続きはあっけないほど簡単で、知った人と顔を合わすこともなく、これから後も利用したいという気持ちになるほどである。その日までは、面倒そうな気がして、不在者投票をするくらいなら棄権しようと思っていたのだから、妻の入院は、こんな効用も与えてくれたことになる。

水漏れ個所判明

9月7日、月曜日の朝から水漏れ個所を調べるため、コンクリート部分をはつり始めた。とりあえず、医院の部分でなく、居宅の部分からの漏水であることは分かった。これで、タイル部分をはつる必要がなくなったのは良いが、それから先がなかなか進まない。騒音だけが喧しく、水道屋さんも、暑い中で苦労している。私も気が気ではない。

午後6時になって、ようやく漏水個所が突き止められた。バンザ−イ! 勝手口の土間の部分もはつられているので、台所内は何やら土臭く、かび臭い空気が充満している。床も壁も白い粉が一杯だ。しかし、今夜から止水栓の開閉作業をしなくても済むのだから、これでも、「御の字」である。

最後の気がかりも解決

入院を控えて、懸案が次々と解決されて行く中で、91歳の老女のことだけが最後まで残った。この方は、8月末から食事をほとんど摂らなくなり、ずっと往診をしてきた。高齢のため、家族は、このまま自宅で死なせてあげたいと言われるが、もっともなことなので、最後まで診させていただくつもりだった。しかし、もう余り長くは生きられない、と愚診したのが外れ、入院の日が近づいてきた。そうなると、入院以後まで生きておられたらどうしよう、という不安が日増しに募ってきた。

9月7日の早朝、様子が変だから診て欲しいと電話があった時には、不謹慎にも助かった!、と思って駆けつけた。しかし、医師が人の死を願うという、この罰当たりな思いは、すぐさま、打ち砕かれた。水も少し飲めるし、血圧も110/64ある、そんなに悪い状態ではない。困った、今さら入院というわけには行かないし、枚方市春日という隣村なので、他の先生に往診をお願いするのも申し訳ない。行けるところまで行くしか仕方あるまい。

患者に一番近い場所で開業されているM先生に、最後はお願いしなければならないだろうから、紹介状も書いておいた。入院する直前に、携帯電話の番号を患者の家族に伝えておこう、しかし、妻が入院するOK病院の入院案内には、携帯電話の使用はご遠慮下さいと書いてある、どうしよう。そのようなことで頭が一杯だった。

9月8日午前10時50分、診察をしている最中に、呼吸が止まったとの電話があり、診察を中断して駆けつけた。老女は安らかな顔をされ、大往生を遂げられていた。苦しまれることは全くなく、自然のままにこの世を去って行かれたのである。亡くなられた方に手を合わせながら、このような別れかたのできる人は、本当に幸せだと思った。 往診からの帰り道で「天は我を見捨て給わず」という、いつもの、自分に都合の良い考えが頭に浮かび、心軽く車を走らせた。人の死を喜ぶとは、何という医師だ! この罰当たりめが! しかし、これは「タイトロープを何とか渡らせてもらった」という感謝の気持ちであると、お受け取り願えないだろうか?

準備完了

9月9日、いよいよ入院の日である。入院の日が決まった時、験を人一倍担ぐ妻は、苦が二つも重なることを非常に嫌がった。それを伝え聞いたある先生は暦を調べて、その日は「先勝」だから朝の間に入院すれば良いことがある、と教えて下さった。お陰で妻はそれを喜び、苦苦を忘れてしまったようである。

JRの河内磐船駅まで送る車の中での会話、「荷物が重い、こんなの持って歩いたら、痔が出そう」 「そんなら、後で痔の坐薬を持って行ったろか?」 「それはいらない。それやったら、ここんとこ便が出てないから、テレミンソフトを持って来て」30年も連れそうと、何とも色気のない話になるものだ。入院の日の朝は、一波乱も二波乱もあるものと覚悟していたが、義母が入院し「入院の予行演習」で疲れた妻には、そんな余裕もなかったのか、あるいは覚悟ができたのだろう。いずれにしても、良かった、助かった。

工務店の人が、先日のはつった個所を補修してくれた。漏水騒ぎも落着し、新しい止水栓が二個所増え、前より状態は良くなった。準備完了である。さい先は良さそうだ。

手術前夜はソファーで眠った

夜の診療を終えて、大急ぎで片づけをしているところへ電話が入り、愚息が病室に来ているから、即刻来るようにと厳命された。我が家の力関係は巴になっていて、妻>私、私>愚息、愚息>妻である。愚息に弱い妻は、愚息が来ているのだから、私が来て当然だと思考回路が働くようだ。手術前夜の気持ちの昂ぶりを、これ以上増やすのはまずいので、ここは素直に従った。

病室に入ると、妻は意外と落ち着いて、愚息と談笑している。これなら安心と、愚息が帰るとすぐに寝ることにした。入院申込の時に、バス、トイレ、ソファーベッド付きの部屋を頼んだようで、確かにソファーはある。しかし、背もたれが倒れない。これではソファーであってソファーベッドではないと思ったが、面倒くさいので、そのまま寝てしまった。大学にいた頃は、よく詰め所の椅子を並べて寝たし、ストレッチャーの上で寝たこともある、地下の実験室でイヌの手術をした後、手術台でも寝たことなどを思い出した。それと比べれば、このソファーは格段に寝心地がよさそうだ。

この病室に入った時、「ああこれで、しんどいことから暫く解放される」という喜び、安堵感がこみ上げてきて、正直ほっとした。そして、手術の前夜でありながら、すぐに眠ってしまった。後で聞くと、妻も入院した時には同じような気持ちになったようだが、心配性だからレンドルミンを1錠投与されても、よく眠れなかったようである。

翌朝ナースに尋ねると、やはりこれはソファーベッドであることを、実技で教えてくれた。背もたれを後ろに倒すには、一旦前に倒してロックを外してから、後ろへ倒せば良いというのだ。ごもっとも、浅はかでした。

それを見ていた妻も言った。「ディスポの注射器の針のキャップと同じやね、引いて駄目なら押してみな」昔、私が教えたことを、ここに来て教えられた。情けない。

手術は終わった

9月10日の朝が来た。午前8時に、妻はストレッチャーに移され、9時から手術は始まった。12時5分に手術終了との連絡が入り、12時10分に帰室してきた。帰るなり、着がえや導尿をするからと、部屋の外に追い出され、それが終わると、今度は、何か話してあげて下さいと部屋に呼び入れられた。

妻は酸素マスクをつけ、これ以上の苦痛はないという顔を続けている。「経子、目を開けて」と呼びかけると、ゆっくり瞼を開けたが、死んだ魚のようなうつろな目をして、すぐ目を閉じた。

12時20分に、執刀してくださったA先生と、この病院のS部長先生が一緒に来られ、手術の説明を約15分かけてして下さった。予想以上に病状は進んでいて、手術は困難で、たっぷり3時間かかったとのお話だった。

12時45分頃から「おしっこ、のどが痛い、頭が痛い、セデス」を繰り返すようになった。相変わらず、苦痛の顔を続けている。こんな顔を続けていれば、皺に刻み込まれてしまうのではないかと心配になってきた。

13時を過ぎる頃から、私の居ることが分かって、「パパ痛ーい」「おしっこ」と言うので、「導尿して、ちゃんとおしっこは出てるから大丈夫」と言うと、「いやーん」と、まるで子供だ。そのうちに、酸素マスクをしているので、薬が飲めないことを理解したのだろう、「痛いー、坐薬!、坐薬を入れて!」に変わった。13時15分に、ナースが挿入しようとすると、「何ミリ?」と聞く。ナースは苦笑しながら、「25ミリですけど、何時もは何ミリをお使いですか?」と尋ねている。「25ミリでは効かへん」と言っているが、ナースに目配せをして、そのまま挿入してもらった。

それが終われば、頭を上げろと言い、寒いと言うので手を握ってやると、「暖かーい」と言って強く握りかえされた。2〜30分くらい握られていたら、手がしびれてきた。見ると手の色が変わっている。妻は職員の中でも一番握力がないのに、この時は、馬鹿力が出たようだ。手を放すと、「寒い、寒い!」と訴え続ける。クーラーを止め、掛けてていた電気毛布の温度を上げた。

14時20分には、いびきをかき始めた。坐薬の効果が出てきたのかもしれない。少しおとなしくなり、痛みを訴える回数も減ってきた。50分からは、手を傷口に持っていこうとするのを、何回か抑えなければならなかった。

そして、15時40分、「暑い!」と叫んで、妻は目を覚ました。毛布を取り除き、クーラーを入れると、この時から、まともな会話が始まった。30分ほど過ぎた16時10分に、義弟の妻の三知子さんと娘の祐子ちゃんが見舞いに来てくれた。グッドタイミングというのは、このことを言うのだろう。15分には、導尿のカテーテルと点滴が取り除かれ、楽そうになった。「お義兄さん、お義姉さんを見てますから、お食事をしてきて下さい」の言葉で、急に空腹を思い出し、大急ぎで食堂に行ってカレーを食べて駆け戻ってきた。その間10分足らず。早食いは、私の特技中の特技である。

妻は、二人が来てくれてから、見違えるほど元気になった。彼女たちは、20分ばかりおしゃべりをして、帰っていったが、ハム、ツナ、エッグの3種類の、手作り一口サンドイッチを持ってきてくれていた。この時の嬉しかった気持ちを、今も思い出す。

18時には酸素吸入、吸引装置、心電図モニター、点滴も全て取り外された。坐薬挿入以来、痛みも余り訴えない。声もそれほどかすれていない。「生きて帰れて良かったな」 「うん、そやけど麻酔の後がこんなに苦しいとは思わなかったわ」 「鼓膜の中は、ゴムみたいなものが一杯詰まっていたと言うてはった。そやから、手術は3時間ばっちりかかったそうやで」 「そう思うわ、ずーと耳、聞こえんかったもん

手術の説明メモ

ここで、A先生から伺った手術の説明をまとめておく。専門外のことなので、聞き違えているところもあるかもしれない。チュービングができなかったのは残念だが、それは病状がそれほど進んでいたのだから致し方なく、非常にていねいな手術をして下さったと感じて、ありがたく思った。

1)予想以上に鼓室内はゴム用の分泌物で充填されていて、その剥離除去のために、手術は正味3時間かかった。粘膜をかなり傷つけたので再生にかなり時間がかかるだろう。
2)耳小骨は融解されず残っていた。
3)神経に損傷を与えていない。
4)炎症による鼓膜の肥厚が強かった。シートを入れておいた。
5)聴力の回復の経過がよければ、シートを残して置いても良い。耳管の入り口の塊を除いたので耳管は機能するかも知れない。もしも機能しなければ、チューブを入れないなら、また水が溜まるとか鼓膜が陥没するだろう。
6)鼓室内に、チューブを入れる余地は無かった。鼓室にスペースができるようなら、チュービングも可能。その場合は、シートを抜いてからチュービングを行うことになる。
7)鼓膜の約半分に筋膜を移植した。移植が完了するまで3週間要する。
8)抜糸をして耳栓を取るまでは、耳に水を入れなければ入浴可能。耳栓を抜いてからは通院も可能。
9)聴力の回復には、移植した鼓膜が薄くなるまで最低3ヶ月はかかるだろう。

処置の後で何回も嘔吐

昨夜はソファーベッドで寝たので熟睡できた。ただ、6時に検温があると思うと、5時過ぎには目が覚めてしまう。妻も良く眠れたようだ。少しふらつくが歩けるので、10時頃ガーゼ交換に来るようにとの指示があり、私が付き添って処置室まで歩いて行った。ところが、処置の途中で顔面蒼白となり、嘔気を訴え、車椅子で病室に帰る羽目になった。

病室に戻っても、数回胆汁様の液体を吐き続け苦しんだ。S部長先生が外来診療を中断して病室に来られ、眼球振盪の有無を検査され、耳からの吐き気でないと言われた。妻は、手術した耳に影響しないかと心配するが、それも大丈夫と言って下さった。思うに、これは初めて少し長く歩いたので、いわゆる脳貧血を起こしたのだろう。しばらくして眠ってしまい、目が覚めたら、すっかり元気になった。

パソコンなしでは生きて行けない?

今回の入院の記録をメモ書きしてきたが、普段はパソコンで書いたり、整理したりしているので、不便なことおびただしい。無ければ余計に欲しくなるもので、妻が落ち着いたのを幸い、ノート・パソコンを家から持って来ることにした。パソコンだけでは帰る理由が弱いので、ついでに洗濯もしてくると言って許可をもらい、喜び勇んで帰宅の途中、携帯電話が鳴った。電話はKA先生からだった。パソコンを取りに帰る途中の車の中で、電話を受けていることを告げると、苦笑されている気配が伝わって来る。病室にはエレクトロニクス機器はないので、携帯は常時使えるから、連絡はこれにして欲しいと頼んでおいた。

洗濯なんて簡単だ!

妻が入院するまでは、干してある洗濯物を取り込むくらいが私のできることだった。しかし、今度は自分が洗濯しなければならない。ちょっと面倒かなと思っていたが、調べてみると、洗濯機に洗濯物を放り込み、洗剤を加えて蓋をして、スタートボタンを押すだけのこと。我が家の男どもは、「洗濯気違い」「掃除気違い」にずいぶん閉口してきたが、掃除はともかく、洗濯なんて簡単!簡単! これなら「洗濯気違い」にもなれるだろうと納得した。そして、以後毎日自宅に下着やタオル類を持ち帰り、苦もなく洗濯をし、それを病院に運んだ。

ドレーン抜去

術後2日目の12日土曜日になると、妻もかなり落ち着き、処置が済んでも吐くことはなくなった。経過が良いのか、ドレーンを抜いて下さったとのこと。私はと言えば、昨日家から持ってきたノート・パソコンがあるので、退屈せずに過ごしている。これまで専らデスクトップのパソコンを触ってきたので、いろいろな違いが新鮮で面白い。その様子を見ていた配膳の女性に、「旦那さん、ここでお仕事ですか? 大変ですね」と言われたのにはちょっと驚いた。

留置針詰まり抜去

27年前の大学病院にいた頃と、術後管理のツールに違いは余りないようだが、心電図をテレメーターでモニターしていることと、点滴用に静脈留置針を使っていることは進歩だと思った。点滴の度に、静脈に針を刺される苦痛がないのは、患者にとって非常にありがたい。その留置針が本日凝血して詰まってしまった。これからは、旧来の方法に戻るわけである。

美味いそば屋発見!

奥さんが入院で、あの食いしん坊は困ったのと違うか? そんな興味を持たれた方もいらっしゃるかもしれない。義母入院以来、まともな食事にありついていないのは確かだが、もともと、食欲の塊のような人間だから、ある程度以上の食べ物なら苦にはならない。インスタント食品にこれほど美味しいものがあるのかと驚いたり、ほかほか弁当の中には、思いもよらぬ美味いものがあることも知った。しかし、つくづく思ったのは、独りでたべる食事の味気無さだった。

それがアルコールとなると、味気ないを通り越して、独りで飲みたいとは絶対に思わないことを知った。あの好きなスーパードライが、冷蔵庫の中に横たわっているのを何度見ても、触れてみる気も起こらなかった。私には、独り酒、悲しい酒は無縁である。ともに飲む酒、楽しい酒こそが酒なのだ。

妻が入院中は、病院の食堂、売店、周辺の食べ物屋、ほかほか弁当屋などを回って、そこそこの満足は得られた。しかし、そのような中途半端な満足ではなく、たまらなく美味くて嬉しさ一杯で食べた店が一軒ある。「大淀信州そば」という店だ。病院の近くで偶然見つけて入ったこの店は、土曜日の夜8時近くだったためか、客はだれも居なかった。

若いきびきびしたお兄ちゃんが運んで来た「ざるそば」は、正真正銘のそば。そばつゆも全部飲み干し「ここのそば、美味しいですね!」と思わず感想がもれて出た。お代を聞くと490円の返事に「安い!」と叫んでしまった。月曜日の正午前にもう一度出かけたら、店はすでに中年の男性で満員に近かった。今度はもちろん「大盛り」にした。

退院日決まる

私がそばを食べていた頃、S部長先生が来室され、16日に抜糸をするので17日に退院してもらっても良いと言われたそうだ。21日から毎日通院し、耳に水を入れないように、洗髪はパーマ屋でしてもらうことなどの条件はついているが、最初は2、3週間入院と聞いていたので、大幅な短縮に、二人とも大喜びである。

携帯電話でEメール

14日月曜日に梅田に出かけて、携帯電話に接続するモデム付きのPCカードを購入し、ノート・パソコンに接続した。愚息が前日、携帯電話をパソコンにつなぐことができると教えてくれたので、早速実行した次第。さすがに若い者は、このような情報を良く知っている。彼らは、いろいろなコミュニケーション・ツールを活用する天才だ。

インターネットに接続し、ホームページを眺めた後、Eメールを送ることにした。メールアドレスを持って来ていなかったが、覚えやすい名前の3名に送信したところ、2名から返信があった。これからは、携帯電話の使えるところなら、全国どこに居てもインターネットを活用することができる。このことを知ったのも、妻の入院の効用の一つとなった。

まとめ

15日の敬老の日、妻と二人で今回の入院のことを話していた。大騒ぎをし、心配したり焦ったりもしたが、今は何か楽しかった気がする。特に、入院してからは、義母の看護や診療から離れてほっとしたこと、将来二人が暮らすには、この病室くらいの部屋で充分であることも同じ思いだった。私は幼かった頃、近所の女の子としていた「ままごと遊び」をなぜか思い出していた。もう一つ思い出したのは、私たちが婚約した頃、義母が二人がいて、黙っていても良いのは夫婦だけと話してくれた言葉である。

その義母も、今は脳梗塞で入院している。退院すれば義母の看病が待っている。鼓膜の移植の成果が分かるのも2週間先、聴力の回復が分かるのは3ヶ月後である、再手術があるかもしれない。しかし、私たちは良い経験をさせて頂いた。たとえ、聴力の回復がかんばしくなくても、今回手術を受けたことを感謝し続けるだろう。

この「入院顛末記」は、家内が入院して手術を受けると知った医師会の先生方から、今年の医師会会報に載せるように指示され、それも面白いかと引き受けたために、書く羽目になった代物です。9月30日に広報委員会へ原稿を届けました。


<1998.9.29.>

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