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風のごとく去られた小菓先生


2000.09.21. 掲載
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野村 望

五月の連休の医師会の旅行で、あれほど元気に韓国を楽しんでおられた小菓先生が、お亡くなりになったとの知らせを受けた時には耳を疑った。しかし、しばらくすると、先生らしいこの世の去り方だと思えるようになってきた。

医師会長を辞められた時もそうだった。前日まで、その気配は全くなく、私が「約束通り今期一杯で医師会の役員を辞めさせて頂きたい」と申し上げると、「それは良いが、パソコンの方は続けてもらいたい」と話された。ところが、その翌日の理事会が終る間際になって、突然辞意を表明され、数多の慰留の声を聞き入れられず、さっさと会長の座を去られたのだった。しかも、それから後、そのわけを決して誰にも話されることはなかった。今度も突然、他の者が納得できる理由を示すことなく、この世を去られたのである。

「先生らしいこの世の去り方」と書いたのは、今振り返ってみると、ご自分がしたいと思われたことの大部分を成し遂げ、しかも後顧の憂いのない状態で、苦しむこともなく終わりの美学を完成し、疾風のようにこの世を去られたからである。

現在の交野市医師会会員の中で、小菓先生のことを古くから存じ上げている人は、残念ながら少なくなって来ている。私も開業して20年以上の間、特別に親しくして頂いたということはなかった。しかし、医師会独立の際に、総務として当時会長をされていた小菓先生のもとで苦労をともにしたことから、現在の医師会会員の中では小菓先生に一番親しかったのかもしれないという気がしている。そこで、私の知っている小菓先生を思い出し、小菓先生への追悼としたい。

小菓先生の功績の最大のものは、枚方市医師会から独立して交野市医師会を設立されたことであろう。もちろん、先生一人の力で独立できたわけではないが、もしも、あの時小菓先生が居られなかったなら、当時の交野支部の会員の誰もが独立に反対したであろうし、また、もしも、独立する破目に陥った場合、非常な困難を覚悟しなければならなかったことは、誰しも認めることだと思う。

当時交野支部の会員で、小菓先生ほど医師会の役職を長年に亘って経験して来た者は一人もなく、独立しようという熱意のある会員は、小菓先生を除いて、皆無に近かった。できれば、枚方市医師会という大樹の元で安住したいと願う会員が大部分だったのである。

小菓先生が長く医師会の役職に従事されたのは、おそらく、ご自分の適性をよくご存知だったことが大きく関係していると思われる。しかし、医師会だけではなく、交野市をはじめ、もろもろの役職を兼務され、それを立派に果たされたことを、適性だけで理解するのは難しい。これは、自分しかやれないという強い使命感をお持ちだったがために、成し遂げることができたのではないかと、私は推量している。

また、その使命感を支えたのは、「人の助けがなく、頼るのが自分独りになったとしても、何とかできるだけのことを達成しよう」とする、生き方ではなかったかと思う。このような生きかたのできる人は、本当に強い。これらの要素が重なり合い、交野市医師会を独立に導き、初代会長、名誉会長を務められ、これまでの業績の集大成をなし遂げられたのだと思う。

交野市医師会が独立する前には、将来への不安と医師会業務の負担増を危惧する会員も多かったが、独立してから後は、多くの会員がこれを喜び、会員間の親睦と交流は、以前とは比較にならぬほど高まり、医師会活動も非常に活発となった。やはり、独立して良かった、小菓先生のお考えは、間違っていなかったのである。

また、医師会独立と時をほぼ同じくして、「訪問看護ステーションかたの」を設立し、訪問看護事業を始められたことは、当時、大阪府下で、医師会立の訪問看護センターが数個所しかなかったことを考えると、その先見の明に、感服するばかりである。「先見の明」と言えば、全国の医師会のホームページが、僅か30数箇所だった平成8年に、交野市医師会のホームページを開設し、市民への医療情報の提供を始めたこともその表れであろう。

小菓先生は、これまでの医師会の役職経験を生かされ、枚方市医師会の規範などを参考にして、交野市医師会独自の規範作りに努められ、新生医師会でありながら、他の医師会のそれと比べて、遜色のないものを作って来られた。現在の交野市医師会の基礎は、先生によって作られたと言っても過言ではあるまい。

「独りでもやる」という生き方は素晴らしく、先に述べたように見事な成果を上げてこられたが、会員と意思の疎通を欠く場合があり、「孤高の人」の感、なきにしもあらずであったことを、惜しむ会員もいると思う。しかし、誰もが一国一城の主を任じている、開業医集団にあって、多数の会員の理解を得ることは、至難のことがらであり、止むを得なかったと考えるべきであろう。

奥様への財産分与は既に済ましていると、先生から何度か伺ったことがある。そう話される先生の言葉の中に、公務多忙で迷惑をかけ続けてきた奥様への感謝の気持と、深い愛情を感じることができた。ご子息の裕成先生も、立派な医師となっておられ、ご家庭についても、後顧の憂いは全くなかったと思われる。これから後は、好きなビデオ編集などを楽しみたいと思われた可能性はあるが、それとて、成し遂げられた偉業とは、比べるべくもない些細なことがらである。

充分な達成感を抱いて、苦しむことなく、ほんのわずかな時間のうちに、この世を去られた先生を羨ましく思うのは私一人ではあるまい。

「孤高の人」であった小菓先生が、韓国旅行で、はじめて、皆と24時間の生活をともにされ、旅行の楽しさを満喫されていたことは、この会報の別の稿に書いた通りである。深夜まで、小菓先生と一緒にアルコールを飲んだのは、誰もが最初で、そして最後になってしまった。こう言うのを、「虫が知らせる」というのだろうか? 私たちにとってはもちろん、小菓先生にとっても、この酒宴は、非常に大事なできごとだった気がしてならない。

最後に、小菓先生と私だけが知っている、FAX交信について書いておきたい。交野市医師会の独立の準備から、公益法人として大阪府の認可を受けるまでの期間(平成6年1月から8月まで)に、私が送受信したFAXは183通で、B4ファイル9冊に収まっている。その大部分が、小菓先生と私との交信だった。

その時、私は大阪府医療対策課との交渉を任せられていたが、小菓先生への経過報告や問合せ、承認を求めることなどをほとんどFAXで行っていた。最終報告が深夜になり、承認を頂いてから、一日の終る日が多かった。それに対して、先生は必ず自宅で待機して、私からのFAXの報告に、即刻返事を下さるのだった。追い込みにかかった7月のFAX送受信回数は62回にもなり、私もいささか疲労気味であったが、その時に頂いたFAXの文章ほど、元気づけてくれたものはなかったと覚えている。

「先生のご苦労は小生しか理解出来ないと思います。頑張って下さい。よろしくお願いいたします。」タイムスタンプは、平成6年7月24日(日)22:58 となっている。

「分ってくれている人がこの世に一人はいる」と知るだけで、これほど気持が和らぎ、やるぞという意欲が高まることを、私はこの時はじめて知った。しかし、その先生も今はいない。私に残された時間も長くはないであろうが、先生のように達成感を抱いて、この世を去りたく思う。

小菓先生、ありがとうございました。さようなら。


この「小菓先生追悼文」は、本年6月18日に、突然ご逝去された交野市医師会初代会長小菓照三先生に捧げる文で、今年の医師会会報に投稿するため、明日9月22日に医師会の広報委員会へ原稿を届ける予定です。


<2000.9.21.>

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