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エーゲ海クルーズ

アムステルダム


2001.09.01. 掲載
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二組で旅行することになったわけ

明石夫妻と私たち夫婦が、同じ時に、同じところへ行こうとしているのが分かったのは、4月14日のことだった。T某の講演会に動員されて梅田に出た帰り、JR北新地駅のエスカレータに乗っている時のことである。

「今年の夏はどこへ行かれますか」 『エーゲ海に行く予定です』 「そうですか、私たちもエーゲ海へ行くつもりです」 『おどろいた! それじゃ一緒に行きませんか?』 「行きましょう」 『楽しくなりそうですね(笑)』 「きっとハプニング続きになるでしょう(笑)」

かくして亭主たちは意気投合し、即座に、エーゲ海旅行を共にすることに決めた。帰宅してその話を聞いた奥方連は、どちらも一瞬悲鳴をあげた。気を使うからしんどいと言うのだ。しかし、少し時間が経つと、二組旅行も面白そうだと乗り気になってきた。やれやれ。

キャンセル待ち

5月の連休のハワイ旅行から帰ってJTBを訪れると、予定していたお盆休みのエーゲ海クルージングは既に満杯である。仕方なく、予定より1週間早い日の出発のツアーを予約し、キャンセル待ちをすることになった。明石夫妻に旅行のことをまかされていながら、この始末では心が重く、キャンセルが出たとの知らせを受けた時には、思わず小躍りをしてしまった。

出発前にハプニング

出発の2週間前の日曜日、Dr賢三はテニスをしていて、右下腿筋の部分断裂で出血。みるみる脚は腫れあがり、受傷直後は全く歩けなかったそうである。さあ、大変、旅行をどうするのか? 一番下のお嬢様は絶好の機会とエーゲ海クルーズを狙われ、父娘でエーゲ海争奪戦を演じているようだと漏れ聞くと、私も気が気ではない。

口では「お嬢さんに替わってあげたら?」とは言ってみるものの、そうなれば、女性3人のお供をしなければならないわけで、苦労は目に見えている。美しいお嬢さんと一緒に旅行できるのは嬉しいが、それ以上にしんどい目をしなければならないのだから、Dr賢三の脚が治ることを切に願った。彼が出席予定の会合を欠席したのを知ると、脚の回復がはかばかしくないのではないかと心配になり、メールで回復状況を問い合わせたりもした。

彼が海外旅行の行く先として一番望んだのはエーゲ海だったらしく、それには若い頃魅せられたソフィア・ローレン主演の映画「島の女」の舞台がここであったことも関係しているようだが、兎に角、何が何でもエーゲ海に行くのだと、外科医として必死で自己治療を行なったようだ。その甲斐あって娘に譲らなくて済ませることができたのは、まことご同慶の至りである。(ハプニング#1)

最初のドジは関空から始まった

出発の直前、忙しく空港の免税店の通りを往復する明石夫妻の姿を目にしたが、この時Dr賢三は腰に巻いていた上着をどこかに落としたらしい。ハプニングだけでなく、最初のドジという名誉もまたDr賢三が獲得することになったのである。賢明なる読者は、この旅がこれからどのような展開を見せるか予想できるだろう。その予想は裏切られないことをここで保証しておく。(ドジ#1)

アムステルダムは運河の街

日本からギリシャへ行くには、直航便がないため、ヨーロッパの何処かの国の空港で乗り継がなければならない。往きの飛行機はKLMで、オランダの首都アムステルダムのスキポール空港で降り、この地で一泊することになった。最初の予定では一時乗り継ぎだったのが、観光できるように変わったのだからラッキーだ。

オランダが海面下の国であることは知っていたが、アムステルダムにこれほど運河が多いとは全く知らず、たまげてしまった。何と165本の運河と1292の橋をもつ「水の都」なのだ。北のヴェニスと言われるのがよく理解できた。


アムステルダム中央駅周辺の地図 右下に飾り窓地区、左下にアンネ・フランクの家


1)運河の橋の上から見たアムステルダム中央駅 この駅が東京駅のモデルになった


2)市街の至るところにある運河 運河には水上生活者の船も見られる by KENZO

オランダ人は巨人族?

アムステルダムの街を歩いて感じたのは2メートル近い大男、大女がたくさんいることで、思わずヘーシングの名前が頭に浮かんだ。もちろん、アムステルダムには200以上の人種が暮らしているので、背の高さはいろいろだが、とにかく、巨人が目立つのである。目的地ギリシャに着くと、ここでは人々の背の高さは日本人に近い。ラテン系の国の人たちはどこでも小柄だが、ゲルマン系の国の人たちは大柄で、特にオランダには巨人が多いという印象を持った。

飾り窓

今度の旅行でご一緒する、明石夫人の瞳さまは画家である。今年の6月に、画家仲間とオランダへ旅行されているので、短時間で観光するのに適した場所を教えてもらうことにした。その最初が、彼の有名な「飾り窓」だった。添乗員や現地ガイドに話してみると、あそこは危険だから行かない方が良いと言う。しかし、瞳夫人は、前回の旅行で男性たちが「飾り窓」を見に行ったが、それほど危なくはなかったと聞いていたので、この機会に4人で行ってみようということになった。

明るいうちに行くようにと、現地ガイドからアドバイスを受け、ホテルまでタクシーを呼んでもらい、行く先もガイドに説明をしてもらって「飾り窓」を目指した。乗り込んだタクシーは右のサイドミラーのガラスが無い何ともスゴイ車である。Dr賢三が、私のBMWも同じ姿になったことがあると指さすと、自転車が飛び出してきてぶつかったのだと運転手は言った。オランダもドイツと同じように自転車天国で、しかもこの自転車には、手動のブレーキがついていないらしい。自転車にはくれぐれも気をつけるようにと、現地ガイドに注意されたのを思い出した。

「飾り窓」のある地区は、東京駅のモデルになったというアムステルダム中央駅の直ぐ近くの、運河沿いの一角にあった。最初に目にした「飾り窓」(ショー・ウインドウ)は、ガラス窓の中にビキニ・スタイル風の下着をつけた女が、マネキン人形のように立ち、通る人に微笑みかけていた。ブロンドの若い女の子で、妻が「きれい!可愛い」というくらいだから、不潔な感じはしなかった。しかし、そのあとは、やはりどこか崩れた感じの女が多く、白人以外にも黒人、東南アジア、中東アジアなどのいろいろな人種が混じっていた。

普通なら、この「飾り窓」を見ることは一生なかったに違いないが、いろいろなチャンスが重なり、思いがけずも得がたい経験をさせてもらった。

この地区のはずれで記念撮影をしようと、Dr賢三が私たちにデジカメを向けた途端、遠くで数名の女の怒声がわき起こり、私たちは慌てて逃げるようにその場を離れた。この地区での撮影は厳禁だったのだ。この危険な場所で、この時もしもフラッシュを光らせていたら、その後どうなっていたかと考えると今でも背筋が寒くなる。(ドジ#2)

アンネ・フランクの家

瞳夫人は前回のオランダ旅行でアンネ・フランクの家を見損ねたので、次はそちらへ行くことにした。地図を見ると、ここから西の方へ運河4個渡って2kmばかり行くとアンネの家に到達できるようなので、見物を兼ねて歩いて行った。ここにたどり着いたら、入館を待つ人が長蛇の列で45分待ってようやく中に入れた。


3)アンネ・フランクの家の前の明石瞳と野村経子


4)アンネ・フランク博物館の入り口には長蛇の列


ここは、「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクとその家族が、第二次世界大戦下、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害から逃れるために隠れ住んだ家で、中は当時の雰囲気をそのままにした博物館となっている。

この建物は「前の家」と「後ろの家」に別れていて「前の家」はオットー・フランク商会が入り(ここで働いていた人たちは、アンネ達の存在を知らされていなかった)、隠れ家の住人たちは、「後ろの家」の上部の階で暮らしていた。隠れ家の入り口を隠すために「回転式書棚」が設けられ、その本棚の向こうに、隠れ家へ通じるドアと階段がある。階段は狭く傾斜は非常に急だ。アンネは2年余りをここで暮らし、密告により強制収容所に移送され、チフスと栄養失調のため15歳でこの世を去ることになる。

この二つの建物全部を使って資料の展示、ビデオ放映などが行われていた。この博物館を一巡する間、心は次第に重くなり、何とも言えない陰鬱な気分に襲われた。地下の出口から表に出ると7時を回り、半袖の身には風が冷たく感じられた。

ただし、私には「アンネの日記」を感動して読んだという記憶はない。この英訳本と独訳本の二つを持っていたが、それは二つを平行して読んでドイツ語の勉強をしようと実利的に考えたためだった。しかし、結局それは計画倒れに終ってしまった。

ホテルでディナー

私たちの泊まるホテルの料理は美味いとガイドが教えてくれたので、このレストランで9時半から11時過ぎまで、4人でのんびりとオランダの夜を楽しんだ。ビールはハイネッケン。知らなかったがハイネッケンは世界のビールのシェアの第2位だということだ。アムステルダム泊まりに変更となったお陰で、オランダの「運河」、「飾り窓」、「アンネ・フランクの家」を見ることができたので、何か大きなおまけをもらった気持になっている。

翌日は雨だった

翌朝早くホテルを出て、スキポール空港に向かう道中は雨だった。オランダは雨の多い国だと添乗員の説明が入ると、昨日アムステルダム市内、特に「飾り窓」地区を散策できた幸運を感謝した。幸先良し!我々はついてるぞ!

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