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旅をして考えたこと

旧ユーゴスラビア連邦4カ国の旅

2012.07.05. 掲載
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目次
1.古代ローマ帝国の遺跡と関連することがら
2.キリスト教の浸透
3.バルカン半島がヨーロッパの火薬庫と言われた理由
4.激しい独立戦争が起きたわけ
5.スラブ人の気質
6.民族主義と民族共存
7.クロアチア人の美意識
8.地理と歴史(場所と時間)
9.年表


先月、これまでの海外旅行で最も美しいと感じた景色に出会い、「美しき国スロベニア・クロアチア」のタイトルで掲載をした。

しかし、それ以外にも、今回は思うこと、考えることがいろいろあった。それらを忘れてしまわない間にまとめ、記事として掲載する。


1.古代ローマ帝国の遺跡と関連することがら

クロアチア第二の都市スプリットには、ローマ皇帝ディオクレティアヌス(244〜311)が引退後の余生を過ごしたディオクレティアヌス宮殿がある。ローマの衰退でここは廃墟になっていたが、7世紀になって、この地に避難してきたスラブ人たちは、宮殿の上に住居を建てて住み着き、街を築いていった。これが旧市街で、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。

ディオクレティアヌスは民族移動時代が始まるころに生きたローマ皇帝であった。民族移動時代(Great Barbarian Invasion)とは、西暦300年から700年代にかけて、ヨーロッパで起こった人類の移住の時代のことである。この移住が古代を終わらせ、中世が始まったと考えられる。この移住はゲルマン系及びスラブ系の移住、更に東方系の諸民族の侵略を主体としている。

ディオクレティアヌス帝は、広大なローマ帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難と考え、マクシミアヌスを共同皇帝として西方を担当させ、自分は東方を治めた。その防衛とは、蛮族のローマ帝国内への侵入に対するもので、蛮族とは、東方系民族のフン族とそれに追われたゲルマン民族である。

375年にゲルマンの一派の西ゴート族がローマ帝国領内に侵入し、476年にゲルマンの傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国は滅亡した。

また、ディオクレティアヌスが治めていた時代には、政府・軍内部にもキリスト教徒が増加した。その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に警戒感を抱いた彼は、303年キリスト教徒に対する令を発し大迫害を加えた。

そのため、彼はキリスト教徒から憎まれ、ディオクレティアヌス宮殿内の遺品や肖像はことごとく破壊され、石棺の行方も分からない。しかし、住民はこれをちゃっかりキリスト教の大聖堂に改造して利用している。

彼のあとで皇帝となったコスタンティヌスは、キリスト教を抑えきれないと考え、313年に「ミラノ勅令」でキリスト教を公認した。392年には、テオドシウス帝がキリスト教を国教とした。以来キリスト教はヨーロッパ全土に広まっていくのである。

今回の旅行で、このディオクレティアヌス宮殿を観光し、1700年前の遺跡が現在も支障なく使われている石造建築の技術に驚くと同時に、築後50年も満たない鉄筋コンクリートのビルが、次々建て替えられる日本の建築を思った。エンパイア・ステート・ビルディングは、1931年に立てられ、81年が経過しているが、建替えの話を聞かない。


2.キリスト教の浸透

コスタンティヌスが313年「ミラノ勅令」でキリスト教を公認し、392年にはテオドシウス帝により国教となった。それ以来キリスト教がヨーロッパ全域に広まっていく。現在世界における信者数は20億人を超え、すべての宗教の中で最も多い。

なぜ、これほど広まったかを知ることは難しいが、キリスト教には、大きく分けてカトリック教会(ローマ・カトリック)と正教会(ギリシャ正教)、カトリック教会から派生したプロテスタントと英国国教会があることは知っている。

今回の旅行で、クロアチアのドブロブニクにあるセルビア正教会に入場した。これまでの海外旅行でカトリックの寺院は数え切れないほど見学してきたが、正教会は初めてなので、見学できてありがたかった。この正教の寺院には、カトリックの寺院にある偶像(聖像)がまったくなく、イコン(板絵)ばかりだった。それはそれで、シンプルな美しさがあるが、重厚さは少ない感じがした。

正教に偶像がないのは、イスラム教に批判されたからで、ビザンツ皇帝が聖像禁止令を出したという話を聞いたことがある。確かに、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルで見学したイスラム寺院には偶像はなく、イコンさえもなかった。

十字の切り方の順は、正教会では、額→胸→右肩→左肩、カトリックでは、額→胸→左肩→右肩と左右が反対であることも初めて知った。クロアチア人を装っていても、この十字の切り方を見て、「セルビア人がいる」と叫び声が上がるとクロアチアの現地ガイドは話していた。クロアチアではセルビア人は嫌われているようだ。

クロアチア人がセルビア人を嫌うのは、クロアチア独立戦争で受けた被害からであって、カトリックと正教という宗派の違いではないのだろうが、異教徒よりも異端の宗派を嫌うということは、かなりよく知られている。北アイルランドのカトリックとプロテスタント、イスラム教でもスンニ派とシーア派との抗争などが記憶に残っている。


3.バルカン半島がヨーロッパの火薬庫と言われた理由

19世紀末〜20世紀初頭のバルカン半島には、スラブ系(セルビア人、クロアチア人、ブルガリア人など)、非スラブ系(ルーマニア人、ギリシア人、ハンガリー人、アルバニア人など)の諸民族が混在していた。

この地を支配するのは14世紀以来、オスマン・トルコとハプスブルク両帝国だったが、ロシアなどがこの地の支配を狙って介入してきて、暴発の危険が高まり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。

1914年、オーストリアの皇太子と皇太子妃が、6年前に併合したボスニアの首都サラエヴォを訪れた際、ボスニア併合にうらみを抱くセルビアの青年に暗殺され、これが第一次世界大戦の引き金となった。

1991年以降、旧ユーゴスラビア連邦構成国が独立をしようとした際には紛争が発生し、紛争が終わった後も宗教・民族問題を多く抱えている。


4.激しい独立戦争が起きたわけ

多民族国家であるユーゴスラビアは、第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていたが、戦後、パルチザン勢力を率いる指導者のチトーによって独立を達成し、ユーゴスラビア連邦を作った。連邦の大統領はクロアチア人のチトーだが、そのメンバーの多くはセルビア人で、国の中枢をセルビア人が独占していた。

この国は後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」といわれるほどの多様性を内包していた。

チトーはソ連のスターリンと対立し、ユーゴスラビア連邦は独自の共産主義国家であった。西欧諸国は、反ソ連のユーゴスラビアに好意的で、経済援助も行ってきた。チトーのカリスマによって、連邦内の民族主義者の活動が抑えられ、ユーゴスラビアは統一を保たれてきたが、1980年のチトーの死後、民族主義が復活して勢力を増し、ユーゴスラビア構成国は次々と独立を宣言を行った。

今回の旅行記美しき国スロベニア・クロアチアの中で、ユーゴスラビア連邦から独立する際に、同じ南スラブ人同士が激しく戦った理由が、この旅行で少しは理解できるかもしれないと書いた。

今回、旧ユーゴスラビア連邦の構成国6ヶ国のうちの4カ国を旅行したが、その間に見聞きしたり、調べたことから、これら4カ国の独立について感想程度のまとめを書いておく。



図1.旧ユーゴスラビアを構成していた国は、今回旅行したスロベニア、クロアチア、
ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの4カ国と、セルビア、マケドニアの6ヶ国であった。


●セルビア

今回の旅行にセルビアは含まれていないが、ユーゴスラビア連邦の構成国が独立しようとした際に、それを阻止しようとしたのは、常にセルビアであった。そこで、セルビアについて、まず調べた。

国土:北海道程度 
国境:1.クロアチア、2.ハンガリー、3.ルーマニア、4.ブルガリア、5.マケドニア、6.(コソボ)、7.モンテネグロ、8.ボスニア・ヘルツェゴビナ
国民:セルビア人が約83%(コソボではアルバニア人が92%)
宗教:セルビア正教
独立:2006年

セルビアと国境を接する国は、図1で分かるように、独立を認めていないコソボを含めると8ヶ国となり、バルカン半島で最多である。

セルビアは、かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。首都ベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にモンテネグロが独立するまで、連邦の首都であった。モンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。

ユーゴスラビア連邦の中心勢力はセルビア人で、権力の中枢を握っていた。だから、構成国が離れていくことに耐えられなかったのだろう。

歴史を見ると、第一次世界大戦後、ユーゴスラビア王国が作られたが、それを構成する民族の間に不和、不満が続いた。

第二次世界大戦でナチス・ドイツがユーゴスラビアに侵攻する。ナチス・ドイツは、クロアチアの民族主義組織ウスタシャを使って、セルビア人を虐殺し、これに対してセルビアの民族主義組織チェトニックは、ナチス・ドイツとではなく、クロアチア人と戦い、これを虐殺した。

ナチス・ドイツこ対して戦ったのは、チトーを代表とするパルチザンだった。パルチザンは他民族混成の抵抗運動で、多くの市民が加わり、自力でナチス・ドイツを駆逐し、ユーゴスラビア民主連邦を成立させた。その後、ソ連との路線対立から、独自の社会主義国となり、西側諸国との関係は良好となった。

1980年にチトーが死去すると、ユーゴスラビア連邦を構成する国々が独立を求めるようになり、1991年にはクロアチア、スロベニア、マケドニア共和国がユーゴスラビアから独立、1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立したが、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの独立に際しては、激しい戦闘が行われた。

2006年にモンテネグロが独立すると、セルビア1国となり、自動的に独立となった。その後、2008年にセルビア内の自治領のコソボが独立を宣言した。世界の多くの国はコソボの独立を承認したが、セルビア、ロシア、中国などは独立を承認していない。

以上、セルビア-Wikipediaと、 コソボ紛争-Wikipediaを参考にした。


●スロベニア独立時の紛争

国土:四国程度
国境:1.イタリア、2.オーストリア、3.ハンガリー、4.クロアチア
国民:スロベニア人が約90% 宗教:ローマ・カトリックが約60% 
独立:1991年

スロベニアが1991年に独立宣言をすると、これを阻止しようとユーゴスラビア連邦政府は軍事介入をしてきたが、わずか10日間の戦闘ののち撤退し、スロベニアは簡単に独立することができた。これは十日戦争とも呼ばれる。

以上、十日間戦争-Wikipediaを参考にした。


スロベニアが簡単に独立できた理由として、1)ユーゴスラビアを牛耳っていたセルビアとは国境を接していなかった、2)国民の約90%がスロベニア人である、3)国民の約60%がローマ・カトリックを信仰している、4)スロベニアがイタリア、オーストリア、ハンガリーに国境を接していて、それらの文化・経済が浸透していたので、セルビアも独立は仕方がないとあきらめた、などが考えられる。


●クロアチア独立時の紛争

国土:九州の約1.5倍
国境:1.スロベニア、2.ハンガリー、3.セルビア、4.ボスニア・ヘルツゴビナ、
国民:クロアチア人が約90%
宗教:ローマ・カトリックが約90%
独立:1991年

歴史的背景として、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗れ、その支配がなくなったクロアチアは、セルビアとスロベニアの3国で連邦国家を作ったが、それを牛耳るセルビア人に対してクロアチア人は強く反発し、クロアチア独立を目指す民族主義組織ウスタシャができた。

この民族主義組織が、第2次世界大戦中、ナチスの支援を受けて、セルビアの民族主義組織チェトニックとの間で凄惨な戦闘を繰り返した。この闘争の中で、相手の民族集団を強制的にその地域から排除する「民族浄化」が行われた。

70万人のセルビア人が強制収容所などで虐殺されたとセルビア側は主張し、クロアチア側は、その数はオーバーで、ほぼ同数のクロアチア人が、セルビア人によって虐殺されたと主張している。

第二次世界大戦が終わり、チトーのもとでユーゴスラビア連邦が作られ、チトーのカリスマによって、連邦内の民族主義者の活動が抑えられ、ユーゴスラビアは統一を保たれてきた。しかし、1980年のチトーの死後、民族主義が復活して勢力を増し、ユーゴスラビア構成国は次々と独立を宣言を行っていった。

以上、クロアチア紛争-Wikipediaを参考にした。


クロアチアは、1)セルビアと国境を接している、2)国民の約90%がクロアチア人である、3)国民の約90%がローマ・カトリックを信仰している。

クロアチアが激しい戦争を経て独立した理由は、1)2)3)も関係しているかも分からないが、それよりも、4)両国に民族主義組織があり、民族主義意識が強い、5)第二次世界大戦時の虐殺に対する憎悪の気持ちが強いことが考えられる。


●ボスニア・ヘルツェゴビナ独立時の紛争

国土:北海道の5分の3
国境:1.クロアチア、2.セルビア、3.モンテネグロ
国民:ムスリム人約44%、セルビア人約31%、クロアチア人約17%
宗教:イスラム教、セルビア正教、ローマ・カトリック
独立:1992年

ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立したが、国内のセルビア人がボスニアからの独立を目指して戦争を繰り返した。

以上、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争-Wikipediaを参考にした。


ボスニア・ヘルツェゴビナは、1)セルビアと国境を接している、2)国民がムスリム人約44%、セルビア人約31%、クロアチア人約17%で、過半数を占める人種がいない、3)宗教も、イスラム教、セルビア正教、ローマ・カトリックで、過半数を占める宗教はない。

ボスニア・ヘルツェゴビナ独立時に紛争があったのは、2)3)も関係しているかもしれないが、独立しようとするまでは、国民は、近隣仲良く暮らし、家族内でも、夫婦、親子、兄弟、親戚が人種や宗教の違いを認めて、平和に暮らしてきたと聞く。それが、4)民族主義意識の高まりで、人種や宗教の共存を認めず排他的になり、紛争となったのだと思う。


●モンテネグロ

国土:福島県程度
国境:1.ボスニア・ヘルツゴビナ、2.セルビア、3.(コソボ)、4.アルバニア
国民:モンテネグロ人約40%、セルビア人約30%、モスレム人約9%
宗教:セルビア正教が約70%
独立:2006年  

モンテネグロ人は言語的、文化的にはセルビア人との違いはほとんどない。宗教も同じ正教会である。2006年にセルビアからの分離独立の可否を問う国民投票が行われ、投票率86.5%、賛成55.5%で、その結果に基づき独立宣言をした。セルビアもモンテネグロの独立を承認し、EUも承認した。これにより、ユーゴスラビア連邦は完全に解体し、セルビアも独立することとなった。

以上、モンテネグロ-Wikipediaを参考にした。


モンテネグロは、1)セルビアと国境を接している、2)モンテネグロ人は言語的、文化的にはセルビア人との違いはほとんどなく、両者合わせて約70%になる、3)宗教も正教が約70%である。

モンテネグロの独立が紛争無く行われたのは、2)3)が大きく関係しているのだろう。その上、国民投票まで行って、独立の民意にしたがったのだから、紛争を起す余地がなかったと考えられる。


5.スラブ人の気質

民族大移動で、ゲルマン民族の移動をみると、図2で見るように、移動先はヨーロッパの広範囲におよび、北アフリカにまで移動した部族もいる。その移動先では次々と王国を建設していった。その王国は、その地域に吸収されたり、滅亡したりで、結局最後まで残ったのはフランク王国だけだったが、ゲルマン民族は活動的、戦闘的な印象を受ける。


図2.ゲルマン民族移動

ゲルマン民族の移動のあと、スラブ民族の移動が始まるが、スラブ民族の移動はゲルマン民族と比べると、図3で見るように範囲が狭く、攻撃的ではなかった印象を受ける。また、Slave がスラブに由来するという説もあるようだが、多くは支配される側で、強くても独立であり、他民族を征服することは少なかったようだ。

そのスラブ人が、独立に際して凄惨な戦闘を繰り広げたというところに、人間の特質の一つが表れているという気がする。つまり、人間は、集団で興奮状態に陥った際には、正気では考えられない行動をとることがあるということで、それは民族の問題ではなく、人間の問題である。


図3.民族移動のあとのスラブ民族の国 南スラブの赤丸をつけたのが、今回旅行した国


6.民族主義と民族共存

民族主義とは、民族の存在・独立や利益または優越性を、確保または増進しようとする思想および運動。その極端な形は国家主義と呼ばれる(大辞泉)。ユーゴスラビア連邦構成国の独立に際しての紛争の一番の要因は、民族主義であることを知った。

民族主義は、支配され続けてきた民族が独立するのには有用な思想であるが、通常は紛争をもたらす。その紛争は、想像を超える凄惨なものになりやすいことを今回の旅行で学んだ。

007年に世界一周クルーズで、少なくとも過去2000年間で、現在の文明国はすべて他国に征服され、その植民地となった歴史を持っていること、その唯一の例外が日本であることを知った。

また、ニューヨークとサン・フランシスコを訪れて、ここは人類の叡智の一つの形態だと思った。多くの人種が混在し、混血し、共生する、まさに人類の大実験場である。そこから、これまでと違った文明が生まれる可能性があり、現に生まれている。アメリカ合衆国、その中でも、ニューヨークは、その最たるものであるが、多くの文明国は、現在その方向に向っていると言えよう。

民族主義は、非人道的な行動に突っ走りやすい。悲しいことだが、これは人間という種の持つ特質であり、どの民族にも起こりうることと考えるべきであろう。

将来も人類が存在し続けるためには、民族共存は欠かせないと思う。もちろん、それが困難であることは分かるが、民族主義だけでは人類は滅亡するのではなかろうか?


7.クロアチア人の美意識

今回の旅行で観光したアドリア海沿岸の街は限りなく美しかったが、バスの移動中に見た車窓からの景色も、それに劣らず美しく、しかも、それが途切れることがなかった。アドリア海の対岸にあるイタリアの海岸沿いの街を思い浮かべると、同じタイプの美しさはなく、訪れたヴェネチア、ピサ、リボルノ、ナポリ、アマルフィなどの街は、それぞれが個性を持っていたのを思い出す。

紺碧の空、コバルトブルーの海、山の緑の中で、明るいレンガ色の屋根、白っぽい壁はたまらなく美しい。クロアチアのアドリア海沿岸ではどこでも見られるこの光景は、クロアチア人の美意識によるものか、この地で手に入る建築素材を使っただけなのかは分からない。

しかし、個性的な美しさよりも、調和のとれた美しさを好む傾向にあるのは確かなようだ。赤と白を好むのは、ラグビーのユニフォームだけでなく、青空市場のテントなどでもよく見られた。これらの色が街の光景にアクセントとして映えることをよく知り、それを好むのだろう。


8.地理と歴史

今回の旅行で、地理と歴史の重要性を改めて知った。すべての存在は時間と場所によって規定されているという当たり前のことがらを再認識した。それは、ディオクレティアヌス宮殿とユーゴスラビア連邦構成国の独立に際しての紛争がきっかけとなったと思う。

西ローマ帝国の滅亡をもたらすことになったゲルマン民族の大移動は、アジア系遊牧民であるフン族の侵入によって始まったのであり、そのころ我が国は大和朝廷が成立したばかりであった。

ゲルマン民族はヨーロッパの広範囲に移動し、その後スラブ民族が移動し、これらの民族大移動が現在のヨーロッパの国々の成立に関与している。


9.年表

今回の旅行で関心を持ったことがらを理解するための歴史年表を、アジア、日本と関連づけて作った。


表1.ヨーロッパ・アジア・日本歴史年表

ヨーロッパ アジア 日本
紀元前5000   黄河文明  
紀元前3000 エーゲ文明 メソポタミア文明
エジプト文明
 
紀元前2500   インダス文明  
紀元前1200 ギリシャでポリスが成立    
紀元前563   仏陀誕生
紀元前509 共和制ローマ開始    
紀元前334 アレクサンドロス大王の東方遠征    
紀元前221   秦の始皇帝中国統一  
紀元前202   漢 中国統一  
紀元前27 帝政ローマ(ローマ帝国)    
紀元前4 イエス誕生    
25   後漢成立  
30 イエス処刑 キリスト教成立    
57     後漢に遺使
239     卑弥呼が魏に遣使
284 ディオクレティアヌス帝が帝国を4分割    
3〜4C     大和朝廷成立
303 ディオクレティアヌス帝がキリスト教徒を大迫害
313 ミラノ勅令(キリスト教の公認)    
375 ゲルマン民族大移動(西ゴート族が南下し、
ローマ帝国内に侵入)
   
392 テオドシウス帝がキリスト教を国教化    
395 ローマ帝国東西に分裂    
476 西ローマ帝国滅亡    
5C後半 フランク王国成立    
538     仏教伝来
570   ムハンマド誕生  
574     聖徳太子誕生
581   隋 中国統一  
600     遣隋使
610   イスラム教成立  
618   唐 中国統一  
630     遣唐使
661   ウマイア朝成立
最初のイスラム国家
 
 
 
 
 
     
1902 日英同盟   日英同盟
1904 日露戦争   日露戦争
1912   中華民国成立  
1914 サラエボ事件、第一次世界大戦   第一次世界大戦
1917 ロシア革命    
1939 第二次世界大戦 ノモンハン事件
1940 日独伊三国同盟   日独伊三国同盟
1941 独ソ戦争、太平洋戦争   太平洋戦争
1945 ドイツ無条件降伏 日本無条件降伏
1949 ドイツ東西に分立 中華人民共和国成立  
1950   朝鮮戦争  
1951     サンフランシスコ平和条約締結
1956     国連加盟
1965   ヴェトナム戦争  
1968 プラハの春    
1972     沖縄復帰
日中国交正常化
1980 チトー死去    
1984 サラエボで冬季オリンピック    
1990 東西ドイツ統一    
1991 ソ連邦崩壊、スロベニア、クロアチア、マケドニア独立 湾岸戦争  
1992 ボスニア・ヘルツゴビナ独立    
1993 EU発足    
 
 
2006 モンテネグロ、セルビア独立    


<2012.7.5.>

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