不老不死は人間の願いなの?

誰もが一度は夢見る、永遠の若さと命...

太古の昔から人は「不老不死」を願ってきたようですが、それは何故なんでしょうか。もしもこれが実現したとしたなら本当の地獄だと思うのですが。

「不老不死」つまり、老いない・死なないと言うことですが、その為にはもっと重要な項目が抜け落ちていますよね。

それは、病気にならない・怪我をしない・事故に遭わないなどです。

例えば、
乗っていた飛行機が墜落してぐちゃぐちゃの身体になっても、死なないのです。
事故で両足を切断しても、死なないのです。
病気にかかり苦しくても、死なないのです。

いじめなどで精神的な苦痛がピークになり自殺しても、死なないのです。

身体が若くても苦痛がなくなるわけではありません。だって肉体なのですから。

しかも、「不老不死」では上記のような状況になってもそれを復旧・回復する機能・手段が存在しないのでからね。
つまりは、事故前・病気前の状態に戻ることはありませんと言うことです。

「不老不死」ってそおゆうことでしょう?、まさに地獄そのものですが、それが人間の願いなのでしょうか。

その苦痛が永遠に続くのです、何しろ死なないのですから。

そもそも生命は肉体だと言う考え方から「不老不死」の思想が出てきているのでしょうね。これがもし生命とは肉体ではなく霊だとしたらどうでしょうか、そうすると上に上げた不自然な状況が全て解決すると思うのですがね。

肉体と言う鈍重な体で生きるのは仮の世界で本来はもっと素晴らしい世界が存在していると考える方が自然な気がしますが、どうでしょうか?


 古代霊の霊訓に基づくと、肉体を持った人間が地上で「永遠の若さと命」を保ち続けるという願望は、霊的な視点からは「本来の自然な摂理に反するもの」であり、むしろ魂にとっては不自由を強いることになると説明されています。
 肉体的な「不老不死」という概念について、ソースの中にある印象的な比喩や説明を交えてお答えします。

1. 肉体は「不老不死」のために作られていない
 古代霊は、肉体というものはそもそも「永遠に生き続けるようには意図されていない」と断言しています。
 肉体は「機械」である: 人体は地上で最も複雑で精妙な機械ですが、使い続ければいつかは摩耗し、機能が停止するようにできています。
 肉体は「一時的な衣服」: 霊(真実の自分)が地上という過酷な環境で自己を表現するためにまとう「一時的な衣服」や「外殻」にすぎません。

2. 「熟した果実」の比喩
 古代霊が好んで用いる比喩に、「木から落ちる果実」があります。
 肉体生活の終わり(死)は、「リンゴが熟すと自然に木から落ちる」のと同じプロセスです。

 霊が地上での教訓を学び終え、次の世界へ進む準備が整ったとき、肉体は役目を終えて崩壊し、元の土へと戻ります。もし肉体で生き続けようとすることは、熟しきった果実がいつまでも枝にしがみつこうとするような不自然な状態を意味します。

3. 肉体は「牢獄」であり、死は「解放」である
 人間が肉体の「永遠の命」を夢見るのは、死を「消滅」や「恐怖」と考えているからですが、霊界の視点は真逆です。
 「牢獄からの解放」: 肉体は霊にとって、その表現を著しく制限する「牢獄」や「監獄」のようなものです。
 「鳥かごから放たれた小鳥」: 死とは、小鳥がカゴの扉を開けてもらい、大空へ自由に羽ばたいていくような「大いなる解放」です。 もし肉体が不老不死であれば、魂は永遠にその不自由な「カゴ」の中に閉じ込められ、霊本来の自由や輝き、広大な世界を味わう機会を失ってしまうことになります。

4. 霊界における「永遠の若さ」の真実
 地上で願われる「永遠の若さ」は、霊界において「成熟」という形で実現されます。
 若返りのプロセス: 地上で老いて病んだ肉体を捨てて霊界へ行くと、霊体は老化の束縛から解き放たれます。
 霊的成熟: 霊界では、年齢を数えることはなく、霊的な成長の度合い(霊格)によってその容姿が決まります。地上で老衰して亡くなった人も、霊界では生気あふれる最も理想的な姿へと戻ります。
 衰えぬ光輝: 霊は年月とともに衰えるどころか、内部の神性が開発されるにつれて、ますます光輝と威厳を増していく存在です。

----------------------------------
 結論:古代霊は、肉体の不老不死を求めることは「影」を追いかけ、「実在」を忘れることであると説いています。
 人間が地上に生まれてくる唯一の目的は、死後に始まる「本来の霊的生活」に備えるための身支度をすることです。
 したがって、「永遠の若さと命」は、朽ちゆく肉体の中ではなく、肉体を脱ぎ捨てた後の「霊としての自己」の中にこそ、すでに完璧な形で約束されているというのが霊的真理の答えです。