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かつて摂津国有馬郡と呼ばれた地域の各町村には、有間皇子の足跡が残されている。郡制廃止を期に編纂着手され、昭和4年に発行された「有馬郡誌」にはその足跡についての記述がみられる。有馬郡誌の記述を中心に各町村の有間皇子の足跡を辿った。 | |
![]() ![]() 【孝徳天皇】大化3年(647年)に孝徳天皇が有馬温泉に行幸されたことが日本書紀に記述されている。この行幸が左右大臣以下の大勢の随行者を伴った3カ月に及ぶ滞在だったことから、大規模な行在所が建設されたとされる。山口町史は、行在所が起伏の多い狭隘な地形の有馬には広大な敷地を要する行在所建設は不向きで、有馬川流域で平地が広がり始める山口に建設された可能性を指摘する。公智神社のお旅所には「孝徳天皇行在所址」の石碑が建っている。 【小足媛】有間皇子の生母・小足媛は、大化改新後に左大臣となった阿倍倉梯麻呂の娘である。古代の春木郷(現在の山口、有馬地域)を支配した豪族・久々智氏は阿倍氏と同族である。古代では、皇子の名を生母の出身地などそのゆかりの地名に求める例が多く、皇子の名前が生母ゆかりの地・有馬に因んだと思われる。皇子が有馬の湯で幼児期を過ごされた可能性は高く、生母と同族の久々智氏が養育に関与した可能性も考えられる(山下忠男著・町名の話)。 また「有馬郡誌」の上巻第5篇第2章「各町村伝説」には「千足村(名来)」の項に「名来村は元・千足村といへり。千足はチアシといふは、孝徳天皇の皇妃小足媛は、大臣阿倍倉梯麿の女にして、有馬(まま)皇子の御生母なり。此の皇妃の御由緒地たりしより、千足の名の起これるものならんか」という記述がある。小足媛が山口町名来の生れであったことを窺わせる伝承を伝えている。 |
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![]() ![]() ![]() 【有間神社】有野町の有間皇子のゆかりの史跡も有間神社の次の由緒に求められる。「当社は往古山口庄名来村(現在西宮市山口町名来)で創建され、舒明天皇、孝徳天皇が有馬温泉行幸の際、再三にわたって参拝される等、皇室とはゆかりの深い式内社である。霊亀年間(西暦715年)に有馬川の洪水で流失し、御神託によって現在地に遷座された。古くは、摂津国有馬郡一の宮有間総社と称され、有馬郡16ケ町村の総氏神としてあがめられた由緒深い神社である」。 【有馬郡誌(有野村誌)】有馬郡誌には有野村関連の項で有間皇子の記述がみられる。 上巻の「神社」の章の「有間神社」には有間皇子の記述はなかったが、下巻の「有野村誌」には次のような記述がある。 「孝徳天皇の皇子を有馬(間)皇子と称し奉る。天皇の崩後、御母阿部倉橋小足姫と、佗しく御宮居あり。それより有野荘となり、山一帯(湯山の上麻呂山をも)荘山となし、茲に皇子田(五社に在り)佛餉田(西尾に在り)神社の圭田(結場に在り)献上畑 ![]() 【有間神社誌】平成8年発行の「有間神社誌」に有間皇子についての注目すべき記述がある。「(有間皇子の)生誕地は定かでないが、有間神社周辺の地が有力とされている。(略)孝徳帝が難波の宮で痛恨の死を遂げる迄の十年余は(有馬)郡で育ったものと思われる」と、皇子の生誕と成長の地を有野周辺とする説が披露されている。 |
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![]() ![]() 【定慧】「藤原定慧は、鎌足の子とあれど実は孝徳天皇の妃・小足媛が、有間皇子を生み給いて五年の後、孕妃を鎌足に賜い、所生の兒を子とすべく詔ありて生まれしが、定慧なり。(略)九歳にして遣唐使の一行に加わり渡唐す」。孝徳帝が妃小足媛を鎌足に下賜した時、既に媛は身ごもっており、それが定慧だったという説である。この説では、定慧は有間皇子と父母を同じくする5歳下の実弟ということになる。 【金心寺創建】「郡の中部・三田町に如意山金心寺あり。(略)寺は有間皇子の領地に在り。(略)寺祉よりは、奈良朝以前の古瓦出せり。(略)定慧の唐に留る二十年、帰朝する ![]() 上記のように、郡誌によれば、金心寺開基は皇子の実弟であり、寺領もまた皇子の領地内にあったということになる。 過日、金心寺を訪ねた。住職から藤白神社に寄贈された有間皇子の木像と対をなす木像があると聞かされた。内陣裏の部屋にに安置された彩色された有間皇子像と定慧上人座像を拝顔した。 |
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