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有馬郡誌に記されたお天上山ゆかりの伝承の紹介 

・有馬郡誌は大正12年(1923)の郡制廃止に伴い有馬郡会が編纂した
・有馬郡誌は昭和4年(1929)に刊行された
 



・功地山の南麓、枯木谷にある圓塚
・根周り五十間、高さ六間あり
・塚の位置、封土の形状より大化以前の築造か
・上古に於ける貴族の墳墓と思はる



・権現坊の遺址は、功地山の西南麓高塚との間に在り
・今尚ほ石垣等残れり、社坊の地を明らかに認む


 


大化三年(647)冬十月孝徳帝、有馬温泉に行幸
・行在所御仮殿建築に当たり材木を此の山より伐出
・良材が叡慮に叶い、功徳ある地なりと仰せらる
・功徳山と称すべきを、徳は御諱字なるを憚り功地山と唱う
・後に公智山とも称するに至る 


 


・名来村は元千足村といえり
・孝徳天皇の皇妃小足姫は大臣阿部倉梯麿の女にして有間皇子のご生母なり
・皇妃の御由緒地たりしより千足の名の起これるものならんか 
・公智神社は功地山に在り、名来村より詣ずるを本道とせり
・功地山をお天上と呼ぶは、山の神がこの地を去り、天上せられしより
・里民悲しみ泣きたるよりナキ村といえり