1997年10月、私は妻と初めての海外旅行(「マレーシア・シンガポール縦断の旅」)に向かうJALの機内にいた。
関空からシンガポールへ向かう退屈なフライトのさなか、時間潰しに読んでいた機内誌のとある頁から突然ハートに響く写真が目に飛び込んできた。下の写真である。学生時代に夢中になったジョン・コルトレーンの肖像であった。
しかしかって目にしたコルトレーンの写真の中でもこれほど感動を覚えたものは記憶にない。
演奏前のステージ横での
神への祈りのひとときなのだろうか。
言い知れぬ哀しみの影が全身を包んでいるように見えるのはなぜだろうか。
切り取って持ち帰った頁をようやく蘇らせる機会がやってきた。音楽評論家「青木 啓」氏の文章をそのまま引用させていただいてアップすることにした。
モダンジャズイラスト集も併せてご覧ください。

文■ 青木 啓(音楽評論家)

ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、、チャーリーパーカー、バド・パウエル、マイルス・デイヴィス・・・・、ジャズの歴史に画期的な業績を残した偉大なミュージシャンたちの中で、特別の関心を寄せられているのが、テナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンだ。ジャズ界における彼の実質的な活動期間は、1955年から67年までの12年間しかなかった。しかしその短い期間に彼は常に前進し、自分の音楽を発展・変化させ、前人未到のコルトレーン・ジャズを創造した。それは1960年代の世界のジャズメンとファンに強烈な衝撃を与え、コルトレーンを範とするジャズメンも相次いで現れた。このコルトレーンの影響は今もなお続いている。

ジョン・ウィリアム・コルトレーンは、1926年9月23日、ノースカロライナ州ハムレットに生まれた。父は洋服仕立て職人で音楽好き、ジョンに音楽の手ほどきをしたという。12才の時にこの父が他界。ジョンはハイスクールのバンドであると・サックスを学ぶ。1943年、一家はフィラデルフィアに移住し、ジョンは製糖工場で働きながら音楽学校に通っている。45年、海軍に入り、ハワイで音楽隊のクラリネット奏者になった。46年の除隊後、いくつかのリズム&ブルース・バンドどでアルト・サックスを吹き、47年、エディ・ウインソン楽団に入ってテナーに持ち替える。ディジー・ガレスピー、アール・ボスティック、ジョニー・ホッジスの楽団を経て、1995年、マイルス・デイヴィスに認められ、クインテットのメンバーになった。ここからコルトレーンの活動が始まる。

マイルスのもとで急成長し、自身のスタイルを持った彼は、56年秋に退団したが、57年、セロニアス・モンクのコンボに短期間参加したあと、マイルスのグループに再加入。モード(旋法)という音の配列による新しいアドリブの手法に取り組んでいたマイルスの影響を受けながら、ビートを細かくした速いテンポノ激しいフレージングでエモーションを表出する手法を創造。音を敷きつめる、シーツで覆うような感じからシーツ・オブ・サウンドと形容された。1960年3月にマイルスから離れ、自身のグループを結成。ジャズ界に影響を及ぼす新たな活動に入る。ほとんど使われなくなっていたソプラノ・サックスに文字どおり新生命を吹き込んだことも注目された。やがて彼はインド音楽を研究し、神と宇宙を思考する。そして1964年には神への感謝と賛美を表現した4部からなる名作『至上の愛』を録音。それから独自のフリー・ジャズで盛んな意欲を示したが、1967年7月17日、肝臓炎のため40才の働き盛りで世を去った。

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