第三部 マハティールの挑戦『金融鎖国』
■グローバル資本主義のもとでの生き残りに向けた様々の試みが始まっている。マレーシア首相マハティールの挑戦もそのひとつだ。
■通貨危機がマレーシアに飛び火したのはタイの危機からわずか2週間後だった。海外投資がマレーシアから次々に引上げられた。マレーシア通過リンギは40%余りも暴落した。マハティールは原因が海外の投機筋にあるとして1998年9月に大胆な市場規制に踏み切った。「@リンギ固定相場Aリンギの海外取引き禁止B資本持出し規制」を柱とする『金融鎖国』である。
国際世論は「グローバル市場への脅し」として非難した。なぜマレーシアは市場経済に敢えて背を向けたのか。インタビューにダイム・マレーシア特別任務大臣が答える。「何百万人もの人々が市場経済のせいで悲惨な思いをした。我々を非難する前に市場に新しい秩序をつくることが先ではないか。」
■IMF(国際通貨基金)は、アメリカとともに市場経済のグローバル化を積極的に進めてきた。アジア危機に際してIMFは市場経済を守るためタイやインドネシアの支援に乗り出した。そしてその見返りとして厳しい経済改革を求めた。通貨危機の後、マレーシアも当初はIMFの指導を受けることにした。IMFは「通貨安定のためには市場の信頼が欠かせない。そのためには財政再建と金融引締めが必要。」と強調した。それを受けて「国家予算の2割カット」「金利の大幅引上げ」といった一連の政策が打ち出された。その直後、株安とリンギ安はいったん収まった。
■しかし金利引上げは国内製造業の足を引っ張ることになった。資金繰りが苦しくなり、部品が調達できなくなり、生産ラインの稼働率が下がったのだ。ダイム大臣は言う。「悲惨な結果に終わった。大失敗だった。」 企業業績が落込み、通貨と株価が再び下がり始めた。
■1998年3月、事態打開のために集めた側近の前で、マハティール首相は主張した。「IMFの処方箋は失敗した。このままでは投機筋の餌食になるだけだ。」と初めて金融鎖国の構想を明らかにした。側近たちは、反対し、慎重論を唱え、そしてとまどった。議論は平行線のまま5ヶ月におよんだ。その間マレーシア経済は失速していった。失業率は2倍に跳ね上がり、13年ぶりに成長率がマイナスになることが確実になった。マハティール政権への国民の不満が高まる。
■この頃、隣国インドネシアでは経済危機をきっかけに暴動が頻発していた。国民の怒りは政権に向けられ、32年間君臨していたスハルト大統領は退陣に追込まれた。マハティール政権に緊張が走る。残された道は金融鎖国しかない。首相は決断した。9月、政府は金融鎖国に踏み切り、緊縮政策を拡大路線に転換させた。景気回復を最優先に、公共事業等の財政支出を大幅に増やした。更に思い切った金利引下げを実行した。首相は国民に向かって「危機は去った」と宣言した。
しかし海外からの投資が途絶えるのではないかという懸念は現実のものとなった。投機の締め出しを狙った規制の影響は、直接投資にまで及んでしまった。アメリカを中心とする投資家はマレーシアに対する不信を露にする。
■金融鎖国から2ヶ月後の1998年11月、マレーシアのクアラルンプールにアジア、アメリカの首脳が集まった。APEC(アジア太平洋経済協力会議)だ。会議は市場規制の是非をめぐって議論が交わされた。
・アメリカは市場規制に踏み切ったアレーシアに不快感をあらわにし、マレーシアはこれに反発する。
・インドネシアやタイなどIMFから支援を受けている国々は、アメリカ支援の立場を取る。
・中国の江沢民主席は、「投機資金に影響力を行使できる大国には短期資金を規制する責任がある。」とアメリカを牽制する。
日本の小渕首相は、マレーシアの立場に一定の理解を示す。
■マレーシアの金融鎖国は、アメリカ中心の市場経済のグローバル化に異議を唱えるものだった。自由か規制か、市場経済の在り方を問い直す議論が、今世界に広がっている。

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