新明解国語辞典。私は好きだ。「字引」だけでしかない、あるいは〈Aを引くと「Bのこと」と書いてあり、Bを引くと「Aのこと」と書いてある〉だけの辞書にあきたらず、いわばそのアンチテーゼとして大胆な語釈を行う。辞書は複数引くのが当たり前の、言葉に携わる人間としては、どんどん慫慂すべきものだろう。

山田忠雄「国語辞書の個性」『三省堂ぶっくれっと』100(1992.9.1)で「離れ業」の用例を列挙し、意味を考えた後、

ハナレワザには、十目の見る所 無謀と受け取られかねない側面があり、……成功の暁にはプラスの評価を受けるが、……辞書に於ても然り。語釈におけるハナレワザの積み重ねこそが読むに堪える辞書としての声価を継ぐことになるのである。

と結ぶ。ものすごいエネルギーである。

この山田忠雄氏が今1996年の二月に逝去され、新明解の今後がどのようになるのか、平凡な辞書になってしまうのではと不安に思っている。

 赤瀬川原平氏が1992年に『文藝春秋』に書いたものは読んでいたが、この度の『新解さんの謎』(文藝春秋19967.10)も購入した。以前読んだ時にも思ったのだが、辞書の「用例」に対する理解が不十分な気がした。あるいはわざと気づかぬふりをしているのか。実は「用例」には2つ意味があると言っていい。1つは新明解も書く「その言葉が実際に使われた例」である。しかしもう一つ、「その言葉をどう使うかを示したもの」という意味もある。むしろ一般の辞書ではそのような意味で使われている。国語学の世界ではこれを区別して「作例」とよぶことがある。
 新明解では出典こそ示さぬものの用例は、あくまでも「実際に使われた例」であるらしい。凡例にも「原典」と見える。この用例収集には見坊豪紀氏の力に拠るところも大きいであろう。
 赤瀬川氏のものは、新明解の用例中に見える人物の跡を追っているようで、どうもその冗談に付き合う気になれぬ。 『辞書がこんなに面白くていいかしら』(西山里見とQQQの会、JICC出版局1992.6.1)というのは、まともに新明解を批判した書でこれは面白い。赤瀬川氏(に新明解の面白さを教えた人)に言わせると「ただ間違いを指摘しただけの本でぜんぜんつまらない」そうであるが、「蹴る」のところなどは親子でボールを蹴りあう様子を茶化していて面白い。



今の版には載っていない面白いもの。古本屋、図書館でお捜し下さい。
芋辞書 「芋」の小見出しです。
親亀  普通こんな項目立てますか。


んとす この項の用例、明らかに作例なのだが、後書きの様で面白い。
(これは最新版にも載っていました)

 しかし、「定本」の用例「代々の学者は−のつもりでそれぞれ新たな異本を作ってきた」なんてなんの為の用例で、しかも出典は何なのだろうか。これは初版以来四版でも載っています。

用例を示して出典を示さぬ新明解に対して、出典のみを示して用例を示さないのが『新潮国語辞典』なのですが、この編者の一人が山田忠雄氏の弟である山田俊雄氏なのです。面白いですね。そしてこの二人の父君が山田孝雄です。ああ、あの演歌の作詞者? ちがうちがう、それはヤマダタカオでしょ(多分)。この人はヤマダヨシオです。ああ「おじゃまんが山田くん」に出てくる? はい、それはそうですけれども別人でしょう。国語学者で、主に文法学者として知られています。井上ひさし氏の本などにもよく顔を出しますよ。