目についたことば

岡島昭浩
なんだか、ここにも書くようにしてから、どうも書けなくなっています。後期が始まるまでに、あることを済ませようとしているせいもあります。
97.9.1 【吉岡郷甫】
 『日本口語法』(明治39.1)、『文語口語対照語法』(明治45.7)の吉岡郷甫は、昭和12.10.10の没。『国語と国文学』の昭和12.11月号に死亡記事が載っていて享年62歳とある。ということは明治9年の生まれか。『日本口語法』の時が31歳で、『文語口語対照語法』の時が37歳でしょうか(かぞえで)。
 電子ブックの『30万人よみ方書き方辞典』(日外アソシエーツ)で亡くなった日が分ったので、その頃の『国と国』を見て確認を取った次第。翌月に上田萬年が亡くなっています。
 以上、殆ど私信です。メールは使えないがwebは見られる或る方への調査報告でした。
97.9.2 【用心・要鎮・要慎、おまけ「鴨東」】
 NHK総合の19:40-20:00のドラマ新銀河『ママだって夏休み』(8/28まで放送)は山梨県が舞台だが、その中で壁に「火廼要鎮」という札が貼ってあるのが見えた。「ひのようじん」である。
 「ようじん」は「用心」であって、「要鎮」は宛字である。尾崎雄二郎『漢字の年輪』(角川書店1989.4.10)の「火の用心」(P113-121)にも書いてあるように、「用」には後続音を濁らせる力が有るが、「要」には後を濁らせる力は無いのである(韻尾が鼻音か否かによる)。「心・鎮」自身にもジンという音はない。
 『漢字の年輪』では、昭和初期の大阪を舞台にしたNHKの朝ドラで「火迺要慎」を目にしたとあり、東京出身の尾崎氏は、昭和初期の東京では見なかったと書いておられる。
 地域差、というよりは御札を出している神社仏閣の関係も有りそうである。私が初めてこれに類する物を目にしたのは箱根の関所に於いてであった。これもたしか「要」だったと思ったのだが、尾崎氏の「要」を見て、記憶違いだったかな、と思ったのであった。その後、確かに関西に於いて時折目にしたのであるが、たしかに「要慎」であった。なお、「慎」にもジンの音はない。
 この度、山梨県を舞台にしたテレビドラマで「要鎮」を目にして、やはりあの箱根の関所(の売店だったかな)に有ったのは「要鎮」だったかもしれないな、と思っているところである。これは「鎮火」という言葉が思い出される表記である。

 「鎮」の音はチンである。濁音となってヂンになったとしても、「用心」のジンとは同音ではない地方もある。時代を遡ればそうした地方は今よりも広かったはずである。京都では元禄の頃に同音に成りかけていたことが知られているのだが、これはそのころ鴨川の東にすんでいたオヤジがそういう本を書いているからだ。〈鴨川の東のおやじ〉は「鴨東{艸[束欠]}父」と名乗り、本名は明していないのだが、亀井孝氏によって毛利貞斎という韻学者ではないかという可能性が出されている(『ことばの森』p167、『日本古典文学大辞典』)。林義雄氏はそれを受けて調査し、どうも違いそうだ、としている(『小松英雄論集』)

 ところで「鴨東」だが、これを『国語学国文学研究史大成15国語学』p144、『国語学研究事典』『国語史辞典』p134、『日本語の世界2日本語の展開』『漢字講座3漢字と日本語』p323、みな「こうとう」と読ませている。京都に住んでいる人なら知っているが、これは「おうとう」。京阪電車の三条から出町柳までは「鴨東線」ですよね(たしかあの部分は京阪電鉄の子会社だったと思うけど)。それを知らなくても沢田研二の出身校としても名高い鴨沂高校(おうきこうこう)で「おう」の読みを知っている人も多いことでしょう。「鴨涯」とか「鴨沂」とか京都の人は凝った名を付けますね。ともかく「鴨」の音はオウ(アフ)でコウの音はありません。コウは「甲」に引かれた読みでしょう。《「鴨緑江」というのがあった。》
 学問の世界には「読み癖」というのがあって、世間とは違う読み方をすることもあったりするのだが、現に京都でちゃんとした音で「おうとう」と言っているのを、諧声符に引かれた所謂「百姓読み」の「こうとう」と読むことはなかろうと思う。古田東朔・築島裕『国語学史』(東大出版会1972.11.25)p199はちゃんと読んでいるし、『国書総目録 著者別索引』『日本古典文学大辞典』の索引はちゃんと「おうとう」と読んでいるようである。
 なお、「{艸[束欠]}」も、人によって、「ソク」「ソウ」「ソ」という読みがあるが、これは「ソク」「ソウ」の両音がある。

 元禄の頃のオヤジが言葉咎めをしたからこそ、その頃が変化の時代だったと分るのだ。私も言葉咎めをしよう。


【嫁す】
 山下洋輔『ドバラダ門』(新潮文庫1993.9.25)を読んでいたら、p164に、「嫁す」と書いて「と」と振り仮名が打たれていた。「とす」と読むようである。
 私だったら「カす」と読むところだが、この「とす」という読みはどういうことによるものだろうか。
 実は私がこの「とす」に接するのはこれが初めてではない。大学生の頃、合唱曲を聞いていた時のことである。耶馬臺国か何かをテーマとした曲《「海上の道」?》で、『漢書地理志』をもととした「それ楽浪海中に倭人あり。分れて百余国……」などという歌詞があったのだが、その中に「とすこともなく」というのが聞えた。歌詞を見ると「嫁す」とあった。
 「とつぐ」からの類推であろうか、とその時から思っていたのだが、全然無関係なところで(『ドバラダ門』は幕末から明治が一応の時代背景)、この「とす」が出てきたものだから、なにかこういう読み癖があるのかな、と思った次第。歴史学の方では常識的な読み癖だったりして。

 振り仮名を打つ場合、今ならその漢字に相当する全部というか、送り仮名にない部分はすべて打つわけだが、過去に於いては必ずしもそうではなかった。たとえば、「自ら」と書いてあるその振り仮名に「ミ」とか「ヲ」とかあるわけである。「ミラ」とか「ヲラ」と読むのではなく、「ミズカラ」「ヲノヅカラ」と読むのである。これを〈迎え仮名〉などと言ったりもするが、そうしたことがあった。
 だから「とつぐ」と読ませるつもりで「嫁」に「ト」とだけ振り仮名を打つことはありうる。そうしたことから「とす」という言い方が出来てしまったのだったら、面白い。


97.9.4
【王貞治式】
 のらくら日記で野球式と書いてある、「OH」でオーを表わすようなローマ字の転写法を、「王貞治式」と呼んでいるのを見たことがある。たしかfj.sci.langでのことではなかったかと思う。
 この方式、大洋の大矢監督の背中にOHYAと書いてあり、オヒャと読めてしまうなど問題点の多い転写法だが、無理やりにでも法則を立てれば使えなくもなさそうである。「n」がナ行子音にも撥音にも使われるのと似ているわけである。のらくら日記もあるように、元広島の阿南監督はANANであるが、アンアンとも読まれてしまう。しかし撥音の後にア・ヤ行音が来る場合には「'」を打ってナ行音と区別することが出来るのである。
 これから類推して、オヒャと読まれたくなければOH'YAとでもすればよい、ということになる。問題はハ行音の直前の場合、促音か長音かが区別できないと言うことである。ハ行音の前に促音が来るのはドイツ語などからの外来語程度だが、「ROHHO」では、ローホなのかロッホ(これは何語? 「ロッホ・ローモンド」はスコットランド民謡だけどケルト語?)なのかわからない。これを避ける方法として、ローホはア行ヤ行の前と同様に「ROH'HO」とするか、長音だけでなく促音にも独立の文字を与えて、ロッホを「ROQHO」などとするか、という手が考えられる。
 現在の促音の処理は音声学的なのだが、音韻論的に言えば一つの文字を与えた方がよさそうだ(長子音だという音韻論的解釈なら現行のローマ字でよいが)。長音についても服部四郎氏のように母音を2つ書けば良いのだという考え方と、金田一春彦氏のように長音という音素を考えるべきだという考え方がある。金田一氏の場合は王貞治式ではなく「R」であらわそうと言う考えであった。
 この「R」も英語の母音の後に来るr(ar , ir, er, or など)を参考にしているのだが、この r が殆ど音声としては実現していないのは、idea of が ..rov のように発音されるところからも伺える。長音と言ってもいいぐらいなのである。一方、王貞治式の「OH」の辞書に載せられている英語の発音は、[o:]ではなくて[ou]なのだ。これだったらFEP式とあまり変らんではないか、と思っていたのだが、のらくら日記によればドイツ語式と言うことでなるほど

 因みにいう。FEP式のローマ字は、ローマ字「表記」ではない。これは『やっぱり松が好き』の中で、高木薫さんがも書いていたと思う。

 しかし、「h」で長音を表わす方式と思われる中で、どうもいかんなと思うのは、オ段の長音だけにこれを使う場合が多そうだと言うこと。たとえば、国道8号線ぞいに「JOHSYUYA」という看板を見て「ジョーシュや」かな、と思ったら、なんと「上州屋」だった。「JOHSYUHYA」にすると「ジョーシュヒャ」とよまれる可能性があるせいかもしれぬが、オ段長音に使うのならウ段長音にも使わねばなるまい。ともかくオ段は長音をきちんと表記するのにウ段だけはしない、というのは不公平だ。
 まあ、文字というのは、知っているからこそ読める、という側面も強いのだが、私は釣具屋が「ジョーシュ屋」なのか「ジョーシュー屋」なのかは知らないのだ。
 どうもまとまらないが、のらくら日記の方が離日なさる前にと思って書く次第。


 寝違えてしまった。もう3日になるがまだ痛い。ただでさえ遅いタイピングが一段と辛い。

【中肉中背】
 妻の目についたことば。福井新聞に連載されている、群ようこの『ヤマダ一家の辛抱』96回(9/10)。

中肉中背で色白で細身で
 ふむ。「中肉」が忘れられて「中肉中背」で〈背は高からず低からず〉という意味で使っているのであろうな。「色白で健康色で……」などと書いてあれば冗談だろうと思われるのだが、そうでもなさそうだ。
 ところで身長のことを「せー」というのは、「背」が長音化したのではなく、「勢」であるという。これはアクセントの面からもそうなのだそうだ。
 いずれにせよ、「中背」はチューゼーと読んでいる。チューゼ・チューセとは言いそうにない。
 asahi-netでのこのページの記述がどうもshift-JISになってしまう。ずっとパソコン通信経由で送ってきたのを、FTPで送るようにしてみたのだが、うまくtext送信出来ずに、binary送信になってしまう。したがって、asahi-netが変換してくれないのだ。最初からJISで送ればよいのだけどね。

97.9.12-13
【寺尾寿】
 『日本古書通信』が届き、横田順彌「明治時代は謎だらけ」を読む。今月は「「遊星」か「惑星」か?」である。
 本題についてはもうちょっと調べて後日触れようと思うが、この中に出てきた、初代東京天文台長、寺尾寿という人物について書く。この人にはお世話になっている。といっても会ったことは無論なく、天文学の著書を読んだというわけでもない。寺尾寿旧蔵本を通じてである。
 寺尾寿旧蔵本は九州大学附属図書館に入っている。「音無文庫」である。音無文庫は以前書いた桑木アヤ雄の桑木文庫が科学史を中心としているのとは違って、科学の分野に限らず広い範囲にわたっている。というよりも国文学系のものがかなり多いようであった。独立しての排架ではなく、和装本の中にまとめておいてあり、「音無文庫」の蔵書印によって寺尾寿旧蔵本であることを知ることが出来たので、量的にどれぐらいのものだったのかは見当がつきにくいのだが、『全国図書館案内 下』(三一書房 1986.2.28増補)によれば(「寺屋」と誤植)、一万三七九二冊であるという。
 何故九大に入ったのか、という疑問は、福岡藩士の子であった、ということに関係するのだろう、とは思っていたが、何故国文関係の本も集めていたのか、という疑問は残っていた。
 横田順彌氏も引く岩波新書の中山茂『日本の天文学』も、韻学者の文雄の関係で読み、その時に、寺尾寿の名も見たのだが、書籍収集の事は書いてなかったと思う。東北大学の狩野文庫主人のことは分厚い中公文庫で読んですごいなあ、と思ったわけだが、音無文庫主人のこともその後少しだけ分った。
 『父の書斎』(三省堂 1943.4.15)という本の中に、寺尾新「寺尾寿」というのがあった。寺尾新氏は動物学者であるそうだが、これを読むと、
国文学者になろうとして、若い修業時代にはその機会を得ず、
また、
その頃(明治四十二年頃)から父の国語学、国文学に関する読書が本格的となって
とあり、
三階建の書庫に、ぎっしりと古書を詰め込み、片端から精読してゐた。
とある。さらに、
大正十二年、父が歿した後、九州帝大の図書館長が、態々伊東へ来られ、父の蔵書を、詳細に点検して行かれ、是非、新設の法文学部のために譲り受けたいとの懇望だったので、「図書館などに一纏めにしておきたい。あれだけあれば、国語国文学の研究は一通り出来るから」との父の遺志通りに「音無文庫」と銘を打った和漢書は、そっくりそのまま九州帝大へ納ったのである。
とあって、経緯がわかる。『全国図書館案内』では昭和四年から六年にかけて購入」とある。
 
幾分にても若い研究者に便宜を与へることが出来たことに
とあるが、本当に助かりました。また複写を沢山取りましたので今でも役にたっています。

 なお、この『父の書斎』には、圓地文子「上田萬年」なども入っている(他有名人多数)。


【遊星と惑星】
 寺尾寿でふれた、横田順彌「明治時代は謎だらけ 「遊星」か「惑星」か?」である。横田氏の調査で「惑星」は享保にまで遡ったが、「遊星」で遡れた最古の例は明治二十五年の徳冨蘆花である。もうちょっと遡ってみよう。

 まず手近なところから、『和英語林集成』の三版(M19)にある。

Yu^sei ユウセイ 遊星 n. A planet. syn. Gyo^sei
ギョウセイも引いてみると、
Gyo^sei ギヤウセイ 行星 n. A planet.
ついでに英和の部、
planet, n. Hoshi, yu^sei.
で、学校に行って初版・二版を調べたのだが、どうもこれにはないようだ。
 明治9年のサトウ・石橋政方『英和俗語辞典』にあった。
Planet, n yu^sei *(c).
*は雅言、Cは漢語。「雅言」と言っても、ちょっと固い言葉という感じであろうか。しかしここまで来ると、英華辞典とか、蘭和辞典にまで遡りたくなる。
 方向を変えて、『日本思想大系65洋学 下』所収の吉雄俊蔵『遠西観象図説』(文政6(1823)刊)を見る。すぐに見つかる。巻頭のイロハ索引で、
游星 ドワール、スタル
とある。注によれば dwaalstar という蘭語とのこと。で、本文を見てみるとこれが面白い。『日本SFこてん古典』パピレスにあるのよね)のヨコジュンさんが喜びそうなものだ。
 游星に二般の別あり。水星・金星・火星・木星・土星〈以上を五星と云ふ。又これに日・月を加へて七曜と云ふ〉・地球、これを大游星〈一名六游星。今、略して六星と云ふ〉と云ふ。皆な太陽を心としてこれを旋回す。又、金・木・土及び地球の四星には、別に小星ありて、各其主星を心としてこれを旋回し、主星に従ひて太陽を周る。其金星に属するもの一箇、地球に属するもの一箇〈即ち太陰なり〉、木星に属するもの四箇、土星に属するもの五箇、凡て十一。これを小游星〈一名衛星〉と云ふ。大小凡て十七、皆な游星天の内に在るの象、第三図に出す。太陽を中心とし、恒星を外とす。吾地球に在りてこれを見れば、水・金の二星は内に在り。故に、これを内游星と云ひ、火・木・土の三星は外に在り。故に、これを外游星と云ふ。
この辺まではまあ普通だ。この後が面白い。
 以上の游星、皆な土塊にして光りなく、常に其内面は太陽に対し、光輝を受けて明らかに、外面は太陽に背きて幽暗なり。全面に国土・河海ありて人物住し、草木繁茂し、虫魚生ずること吾地球に異なることなく、其明暗は其地の昼夜なり。他の游星中の人は其星を大地と称し、吾地球を游星とするなるべし。唯、太陰は吾地球を距ること最も近きが故に、其明暗を見るよと亦著し〈即ち月の盈虚なり〉。望遠鏡を用ふるときは、其山川。海陸の状、歴然として、全く一箇の世界たるを見ることを得るなり。然れば、太陰中の人に於ては、吾地球を見て太陰とし、吾昼夜を見て盈虚とするなるべし。吾が朔は彼の望にして、彼の朔は吾が望なり。詳に太陰盈虚の条に出す。互考すべし。
 「もし人が居たら……」という記述法ではなく、「人が住んでて……」という書き方なのが面白いではないか。
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