失われたエピソード

『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくい SEXのすべてについて教えましょう』


『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』(以下『SEXのすべて』と略)は、71年に公開されたウディの主演・監督第3作である。ウディ作品としては珍しく原作があり、医学博士デヴィッド・ルーベンの同名書に基づいている。ただしウディは映画化にあたって、原作の各章のタイトルのみを借りたオムニバスコメディとしたため、原作者ルーベン博士は映画の方は気に入らなかったらしい。

 映画は7つのエピソードからなっており、それぞれの原題は次の通りである。

1.媚薬に効能はあるのか?(Do Aphrodisiacs Work?)
2.ソドミーとは何か?(What Is Sodomy?)
3.なぜオルガズムを感じにくい女性がいるのか?(Why Do Some Women Have Troble Reaching an Orgasm?)
4.女装する人はホモなのか?(Are Transvestites Homosexuals?)
5.性倒錯とは何か?(What Are Sex Peverts?)
6.性科学を研究・実験している医者や研究所の発見は正しいのか?(Are the Findings of Doctors and Clinics Who Do Sexual Research and Experiments Accurate?)
7.射精の時に何が起きているのか?(What Happens During Ejaculation?)

これに対してウディのオリジナルシナリオに登場するエピソードは、書かれている順番に次の通りである。

1.射精の時に何が起きているのか?(What Happens During Ejaculation?)
2.媚薬に効能はあるのか?(Do Aphrodisiacs Work?)
3.質問:『マスターベーションの語源は?』 答え:聖書(Question: Where Does the Word "Masturbation" Come From? Answer: The Bible.)
4.なぜオルガズムを感じにくい女性がいるのか?(Why Do Some Women Have Troble Reaching an Orgasm?)
5.ソドミーとは何か?(What Is Sodomy?)
6.ポルノとはどのようなものか?(What Is Pornography Really Like?)
7.性科学を研究・実験している医者や研究所の発見は正しいのか?(Are the Findings of Doctors and Clinics Who Do Sexual Research and Experiments Accurate?)
8.性倒錯とは何か?(What Are Sex Peverts?)
9.人はなぜホモセクシャルになるのか?(What Makes a Man Become a Homosexual?)
補足
「女装する人はホモなのか?(Are Transvestites Homosexuals?)」はオリジナルシナリオにはない。)

 これらを比べると、オリジナルシナリオには完成した映画に含まれなかった3つのエピソードがあることがわかる。また逆にオリジナルシナリオにはなかったが、完成した映画には登場するエピソードが1つある。前者は「質問:『マスターベーションの語源は?』 答え:聖書」「ポルノとはどのようなものか?」「人はなぜホモセクシャルになるのか?」、後者は「女装する人はホモなのか?」である。それぞれのエピソードが削られたり、付け加えられた経緯はよくわからないが、ギャグの質や製作上の問題等の理由ではないかと思われる。また残ったエピソードにしても、順番がかなり違っている。「射精の時に何が起きているのか?」はオリジナルシナリオでは一番初めになっているが、映画では最後になっている。これは想像だが、このエピソードはウディがこのアイデアにのっているうちに最初に書かれ、シナリオも作品も上々の出来となった。そして撮影後にすべてのエピソードを比べてみたらこれが一番面白かったため、コメディのオムニバスにふさわしい幕切れとさせるために、ラストになったではないだろうか。

 このようにシナリオと映画が異なることは、実はウディの映画では珍しくない。多くの映画で、ウディは撮影中にシナリオを直したり、撮影終了後に気に入らないところを撮り直したりしている。『重罪と軽罪』は1/3を、『ハンナとその姉妹』は実に半分近くが、追加や修正のために元のシナリオにはないシーンとなったと言われている。また『セプテンバー』ではいったん撮影が全て終わった後で、キャストを入れ替えて初めから全部撮り直している。まるで小説家が文章の推敲を重ねるかのように、ウディはシナリオやフィルムの上で作品の推敲を行っているのだ。そうして少しでも自分のイメージに近い作品を作ろうとしている。それがウディの昔からのやり方なのである。それはこの『SEXのすべて』のエピソードの入れ替えからもわかる。

 ではこの『SEXのすべて』で、シナリオに書かれながら映画からは削られたエピソードとは、どのようなものだったのか。1つ1つ紹介していこう。

 まず「質問:『マスターベーションの語源は?』 答え:聖書」。舞台は古代イスラエル。オナンは神からのお告げで、砂漠に住む兄夫婦のところに行き、兄の妻と交わって子供をつくらねばならなくなる。彼は長い旅の末に兄夫婦の家に着き、兄の寝ている隙にその妻と寝るのに成功する。だがオナンは、土壇場になって子供を作ることで生じる責任の重さを感じ、膣外射精で妊娠をさけようとする。そしてオナンは怒った神によって雷で撃たれて死んでしまう。オナンをウディが、兄の妻をルイーズ・ラッサーが演じる予定だった。ところどころにギャグが付け加えられているものの、基本的には旧約聖書のオナンのエピソードに忠実な映画化である。だが決定的なギャグが少なく、風刺や神への批判といったテーマ性も弱い。それらに加えて砂漠でロケをするのも大変だったことが削られた理由ではないか。

「ポルノとはどのようなものか?」は、現代ニューヨークを舞台にした、軽快で下ネタ・ギャグに満ちた傑作だ。みすぼらしいポルノ映画館でハリウッドの大作よろしく華々しい映画のプレミアショー(新作の初日公開)が行われている。あいさつにたった主演男優がインタビューで語る成功への苦節の物語である。3流ポルノのみすぼらしさととハリウッドの大作を対比したパロディや、下品になりすぎない程度の下ネタがミックスされ、なかなか楽しめるシナリオである。とかく卑猥に流れがちな題材をきちんと料理し、知的ジョークにまとめあげるところはさすがにウディで、映画化されなかったのが残念である。おそらく題材が卑猥できわどいため、イメージが傷つくのを恐れた俳優が誰も役を引き受けてくれなかったのではないか。またこの役をウディが自分でやろうにも、体格がしっかりして頭が空っぽのハンサムな人間でないとぴんとこないため、ぴったりこない。それで映画化できなかったというところではないかと思われる。そうだとすれば残念なことである。最近では『地球は女でまわっている』の主人公が、その役の変態や非道ぶりのために演じる俳優が見つからず、仕方なくウディが自分で演じたそうである。

「人はなぜホモセクシャルになるのか?」は、ウディとルイーズによって実際に撮影されながら、映画からはカットされた幻のエピソードである。黒後家蜘蛛のオス(ウディ)が美人のメス(ルイーズ)を誘惑して見事モノにするが、黒後家蜘蛛は交尾後にメスがオスを食べてしまうというその恐ろしい習性が明らかになる。その一部始終を観察していた学者(ウディ2役)は女性不信に陥り、いつしかホモになっていたというオチである。まあまあ面白いエピソードだが、タイトルの「なぜホモセクシャルになるのか?」についての考察とストーリーの中心となる「メスがオスを食べる」クモの習性とが絡み合っておらず、テーマとして未消化というイメージがあり、映画全体としての長さの関係もあってカットされてしまったのではないかと思われる。ちなみにこのエピソードでウディとルイーズの役名であるシェルダンとリサという名前は、後の『ニューヨーク・ストーリー』の「エディプス・コンプレックス」でのウディとミア・ファローの役名として使われている。ただし2つのエピソードは、ともにオムニバス映画であるという以外にストーリー或いはテーマの関連性はない。ひょっとすると『ニューヨーク・ストーリー』の企画の段階で、オムニバス映画という設定からウディは、かつて没にしたこのエピソードの映画化を考えていたのだろうか。

 もう1つ「なぜオルガズムを感じにくい女性がいるのか?」についても触れておきたい。このエピソードは映画にも残っているが、実はその内容は元のシナリオとはかなり違っている。冷感症の妻を持つ夫の悩みと、やがて意外な方法で妻がエクスタシーを得るようになるというアウトラインは同じだが、元のシナリオは現代スウェーデンを舞台にしたベルイマン風のシナリオである。人物はすべてスウェーデン語を話し、英語の字幕が出る。嘆く夫が神の沈黙を問うというベルイマン的テーマも現れるほか、悩める夫の夢のシーンが3つ出てくる。この夢がどれも傑作で、ブニュエルとカフカとマルクス兄弟をミックスさせたようなシュールでおかしいものになっている。ウディは途中でこのエピソードをイタリアの農村を舞台にしたネオリアリズム風に変更しようと考えるが、最終的にはルイーズの意見で現代イタリアのブルジョア夫婦を主人公にすることになった。この変更で残念ながら夢のシークエンスはカットされてしまった。セリフをすべてイタリア語でしゃべるというアイデアは、元のスウェーデン語のアイデアから引き継がれている。

 それともう1つ付け加えておきたいのが、「補足」である。シナリオの最後のページには、各エピソードの間にインタビューをはさむことをウディが検討していたことが書かれている。これによると、ウディは自分と原作者ルーベン博士のインタビューを撮影し、エピソードのつなぎの解説として使うつもりだった。あるいはルーベン博士ではなく、性犯罪者や実在のフェミニスト、ノーマン・メイラーでもよかったという。このアイデアは結局使われることはなかった(博士が断った?)が、インタビューという手法は後に『カメレオンマン』や『夫たち妻たち』で使われることになる。

『SEXのすべて』は、自分のスタイルを模索している初期のウディの習作の1つといえる。この作品以後、ウディは自分だけで複数のエピソードを作るオムニバス映画を作っていない。オムニバス映画という枠は自分の言いたいことを語るには十分でないと感じたのであろうか。だが、ここに見る通り、カットされたエピソードもそれぞれウディの作品としてはそれなりに堪能できる。ウディは現在も1作ごとにスタイルや内容で新しいものへのチャレンジを行っている。そうしたチャレンジの中で、オムニバスという手法はまたいつかウディの作品に見られるかもしれない。


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99年4月1日作成

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