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1997.6.29(第11回)〜1997.12.15(第20回)


All Written by Kei Nakahara
 

大洪水 ['97.12.15]
   ボーナスが出たので、わーいと思って以前から欲しかったシャワートイレを買いました。
   入念な機能の比較検討の後、ナショナルの製品を選びました。

   自分で取り付けられるというのも選んだ理由のひとつで、取り付け説明用のビデオもおまけ
   でついてきました。ふむふむ。

   さて、取り付けようと思って、庭にあるメーターボックス横の水道の元栓を締めたが、
   あれ、いつまでたっても水が止まらない・・・・??
   どうやら、その隣にある止水栓をT字型の専用の工具で締めないといけないらしい。

   う〜ん。せっかくシャワートイレの本体を取り付けおわったのに。すでにトイレの中まで
   電源コードはひいてあるので、あとは水道管をつなぐだけである。
   もう夜の11時だから止水栓を締める専用工具を買いに東急ハンズにいく訳にもいかない。
   取り付けられないのか・・・・。

   しばらく、トイレの分岐水栓を眺めていたが、いまあるのをちょこっと外して、すばやく
   新しい分岐水栓をつければ、多少濡れて、せいぜいバケツ1杯程度の水が流れ出るだけで、
   うまく行くのではないだろうか・・・・。そう考えた。浅はかだった。

   バケツを下に用意してと。新しい分岐水栓をすぐ横に置いてと。
   恐る恐る、ゆっくりとスパナでトイレの分岐水栓を回す。
   シューと水が吹き出す。うん、いけそう。
   どきどきしながらさらに回す。
   ジューと吹き出す水が増える。このまま、もう少し回して・・・・。
   大爆発。
   水がものすごい勢いで噴き出してきた。
   あわてて水道管を押さえるが、信じられないくらいの強い圧力で、到底封じ込められるよう
   な力ではなかった。手のひらのはらで押え込もうとするが、暴力的なまでに強い水の奔流が
   壁を叩いた。
   あまりの圧力の強さに、この水を止めることができない、という考えが一瞬頭をよぎった。
   恐ろしい事態である。
   メインの止水栓を止められない以上、この激しい流れの水をとめることはできない。
   とても物を詰め込められるような圧力の強さではない。
   この場を離れて、業者をいまから電話で呼んでも、到着するのに小一時間はかかるだろう。
   なんとかして、この水を止めなくては。
   全体重をかけても水は噴き出し続ける。。
   全力を出して、無我夢中でいま外した分岐水栓を取り付けようとした。
   水が噴き出すものすごい音の中で、ようやく分岐水栓がはまった。懸命に回す。
   少しずつ水の勢いが落ちていった。
   よかった。止まった。

   安堵に肩をなで下ろした。
   正直なところ、本当に恐かった。ひざがガクガク震えている。
   これなら日本刀をもったヤクザに追いかけられた方が恐くない。
      こんな恐ろしい目に遭ったのは生まれてはじめてである。
   あー、オトロチかった。

   もう、頭から全身ずぶ濡れである。足元を見ると水深3センチくらいに水が溜まっている。

   その後、寒さに震えながらも後片付けをした。
   後で気付くと、手のひらの皮と指の横の皮がむけていた。
   さんざんな目に遭ってしまった。
   結局、まだシャワートイレは使えない。

   教訓。何があっても、水道管のどこかをスパナで緩めてはいけない。(<--当たり前だ)

 [補足1]
   教訓その二 人間、魔がさすこともある。

   元栓を締めても水が止まらなかったのは、元栓が老朽化していたのが原因だと判明しました。
   水道局に言ったら無料ですぐに交換してくれました。その後無事にシャワートイレは設置で
   き、快適な日々を過ごしています。

 [補足2]
   「超強力シャワートイレだったわけですね」−−−メールで感想をもらった。笑える。
 

鏡の中の世界 ['97. 11.10]
   「鏡の中の世界」というタイトルに惹かれて、朝永振一郎氏の書いたみすず書房の本を開いて
   みたら、鏡にうつったものがなぜ、左右逆転するのか、なぜ上下逆転しないのか、その疑問を
   追ったエッセイを見つけた。

   そうか、ノーベル物理学賞をもらう人でもやはりこのことは疑問に思うのか、と嬉しく思って
   読み進むと(私の短編エッセイにもあるので、読んでね)、

   「心理空間には上と下との絶対性のほかに前うしろの絶対性があるらしいことがわかって
    きたようだ。問題は幾何光学にあるのでもなく、いわんや数学にあるのでもなさそうだ」

   などと書いてある。また、

   「右と左が逆になっているかとか、上と下が逆になっているかとか、あるいは前とうしろ
    とが逆になっているとか、そういう判断は、鏡のうしろに実さいにまわって立った自分の
    姿を想定して、それとの比較の上での話であろう。」

   と書いてある。なるほど、その意見に賛成。

   「しかし、どうもおく歯に物がはさまったような感じである。鏡のなかにうつった自分の
    姿を感じとるのに、こんなややこしい理屈があろうとは何だか解せない気持ちもする。」

   この問題の奥深さと不可思議さに気付いた人がここにもいたか、と感激。
   どうして、鏡は左右が逆転するのか−−−−この問題は本当に不思議な問題で、考えれば考え
   る程頭がこんがらがる。
   鏡は正面にあるものを正確に写しているだけで、何も反転させてはいない。
   右手の前には右手を写しているし、左手の前には左手を写している。
   頭の前には頭を写しているし、足の前には足を写している。
   −−−−しかし、人間は左右が逆転すると認識するのである。決して上下が逆転しているとは
   認識しない。

   少し考えた人はこう言う。人間の目が左右に並んで付いているからだよ。
   それでは、片目をつむったら−−−−この一言で理論が吹き飛ぶ。
   ひっくり返っていると思っているだけで、ひっくり返っていないのでは?−−−−そういう
   トリッキーな意見も出るが、鏡に写った文字がひっくり返るのを見れば、そんなはずはない。

   ぜひ、この問題の奥深さを実際に考えてみて欲しい。

   私はまだうまく説明できないけど、自意識と他者との関係の問題かなあ、という気がする。
   もし、かりに自分が文字だったとして、「>」であると見られている存在だとすると、自分
   自身では、「<」というふうに自意識を持っているのではないかなあ、と思う。
      あと、人間がマクロ的に見れば地上という平面に住んでいる二次元的な生物であることに
   理由がある気がするのだけれど。

   もし、違う世界では、「Λ」という自分が「V」と写っていると認識するのだろうか?
   どう思います?

 [補足]
   その後、講談社のブルーバックス「物理質問箱」でこの質問みつけた。

   「幾何学的には少しの矛盾もないが、それにもかかわらず、ここでの問いのような疑問が
    でてくるのはなぜか。せんじつめれば、ここでの問題、「なぜ本問のような疑問が提議
    されるのか」ということの方が重要である」

    (その後、ここでも、朝朝永振一郎氏の「鏡の中の世界」が引用されている)
    最後に、回答はこのように結ばれている。

   「ものの形態、重力、地球上の諸物体の配置や動き、さらに生活用式など、とにかくわれ
    われはいつも水平方向と上下方向とは別のものだと考えていて、その思考が、結局は
    この項の問いのような疑問になってあらわれるのではないだろうか」

   そうですね。そのとおりでしょう。
 

飢え ['97.11.7]
   先ほどの話。
   駅の近くのコンビニの角を曲がろうとしたら、そこに立っていた50代の男性が私の顔を
   まじまじと見つめながら、たどたどしく声をかけてきた。

   「すみません。私は九州から出てきて、四日も何も食べていないのです。500円をくだ
    さい。ラーメン一杯を食べたいのです。鉄工所につとめようとしているのですが、お金
    がなくなってしまったのです。お願いします。お金がないんです。」

   ふーむ。それは大変。それにしても、その身なりはごわごした長髪で、顔は黒く汚れ、お
   せじにも清潔とは言い難い。相手が女子高生なら走って逃げてしまうところだろう。

   それは大変でしょうと、同情し、千円札を渡す。
   嘘をついているようにも見えなかったし、少なくともお金に窮しているのは間違いはない。
   ・・・・相手はとても感謝していた。不器用だけど、実直そうな人だ。


      一昨年、インドのブッタパルティまで旅行した折り、ハンセン氏病で腕や足や鼻がもげて
   身動きもままならない物乞いや、小さな赤ん坊を抱いている母親の物乞いや、子供の物乞
   いを沢山みた。

   ガイドにも現地の人にも、物乞いにはお金を与えてはいけない、と言われていた。
   本人にも勤労意欲をなくさせ、物乞いのくせをつけるからだ。なかには小銭を貯め込んで
   いる人もいるという。

   結局、私はインドで物乞い達を引き連れて歩くことになってしまった。それは他の日本人
   も似たようなものだったけど。

   私は思う。飢えることは本当につらいことだと。
   だから、それはそれでよいのだと思っている。
 

ネスケとIE ['97. 11.2]
   私はIE(=インターネットエクスプローラー)でホームページを作成しているのですが、
   ネスケ(=ネットスケープコミュニケーター)での表示がうまくいっていないとの話があり、
   手元にあった雑誌の付録の英語版ネットスケープコミュニケーターをインストールしてみて
   自分の英語版のページを見たところ、もう化け化けでした。(T_T) 基本的なミスですが、
   全角スペースがあちこちにあったのです。−−−−そうか、それで英語版ページの来訪者が
   伸びないのだな、と分かりました。化け化けだったので、登録申請した英語圏のサーチエン
   ジンにも登録してもらえなかったのでしょう。う〜ん。初歩的なミスだ。

   ・・・・という訳で、最近はもっぱら英語ページが文字化けしないように、それから日本語
   版の方もネスケで見たときに、きちんと美しく見れるようにとちょこちょこ直しているので
   すが、どうもうまく直りません。

   作業が進まない理由のひとつは、ネスケとIEがうまく共存してくれないのです。
   ネスケをインストールするとIEのアイコンを全部書き換えてくれるし。
   IEのパネル上にネスケのアイコンを勝手に作るし。
   君たち、私のパソコンの上で争うのはやめてくれたまえ、と言いたい。

   新しいパソコンを買って、ネスケとIEを別居させようか、と思う今日この頃。

   ・・・・昔飼っていた二匹のシマリスを思い出してしまいました。
 

コンタクト(CONTACT) ['97. 9.14]
   昨日公開初日に「コンタクト (CONTACT)」というジョディ・フォスター(Jodie Foster)
   主演のSF映画を観てきました。

   もともとSF映画は好きなのですが、この映画は大いなる期待をもって見に行きました。
   というのは、このホームページがきっかけで、ニューヨークに住んでいる日本人の
   KayさんとE-mailのやりとりをしているのですが(元気?(^^))、「コンタクト (CONTACT)」
   という映画が素晴らしいのでぜひ観に行ってください、とのメールをもらったからです。

   曰く「この世の言葉では表わせない程の美しい世界、といわれる世界を、期待を裏切る事
   なく見せてくれます」、「大切な人を失った独特の孤独感を持つ人にとっては、救われる
   映画ではないかと思いました」。

   幼い頃に父を亡くし、優れた才能を持ちながらも、地球外文明からの電波を受信する
   ことにすべての情熱を傾けている電波天文学者エリー・アロウェイ(Jodie Foster)が、
   この物語の主人公です。

   彼女は周囲の無理解や予算の獲得に苦しみながらも、地球外文明からの電波を辛抱強
   く待ち続け、やがて、ある日、未知の電波信号を発見します。その電波は恒星ヴェガ
   付近から発せられており、間違いなく数学的な意味を持っていました。それは、明ら
   かに、地球外の知的生命体からの信号だったのです。
   そのニュースは世界中を駆け巡り、世界の人々は驚くべき発見に湧き立ちます。
   受信した信号には、宇宙間移動装置と推測される、未知のテクノロジーで動く装置の
   設計図が含まれていることが分かります。その装置が建造されることが決定し、やが
   て、世界各国の協力の元で未知の巨大な装置が完成します。

   そして、搭乗員の人選やテロリストの妨害などの紆余曲折の末、彼女が人類の代表と
   してこの巨大な装置のポッドに乗り込みます。
   ポッド投下のカウントダウンが終わったとき、彼女が見たものは・・・・!?

   この映画は、一級のエンターティメントであると同時に、人間の内面を優しく丁寧に描写し
   ています。エリー・アロウェイの内面−−−−子供の頃に失った父親への追憶、広大で神
   秘的な宇宙への思い、恋人への想い・・・・。

   そして、限りなく美しい映像−−−−映画の最初のシーンから、息も詰まるような宇宙の神
   秘さ美しさを見せてくれます。それに、「宇宙間移動装置(ポッド)」の迫力や、それに
   乗り込んでからのめくるめくスピード感と映像美は特筆ものです。これぞ映画の醍醐味とい
   う感じです。(このシーンをTVの小さな画面で見てはもったいないですよ)

   感情と知性を揺さぶる筋書き、そして美しく、迫力があり、斬新な映像!!

   見終わった後、胸の昂ぶりを感じつつ、人の存在ってなんだろうな、と考えさせてくれる
   良質な映画です。

   二重丸のお勧め品です。
 

ラ・マンチャの男 (Man of La Mancha) ['97. 9.13]
   私の部屋には額装されたある歌詞があります。
   その曲のタイトルは「見果てぬ夢 (The Impossible Dream)」といいます。この曲はある日聴いて
   いたNHKラジオの「英会話入門」でたまたまテキストに使われていたもので、ミュージカル
   「ラ・マンチャの男 (Man of La Mancha)」で使われている音楽とのことでした。日本では、
   「ラ・マンチャの男」というよりも「ドンキホーテ」と言った方がとおりがよいでしょう。

   私はこの曲のメロディーの美しさもさることながら、特に歌詞にいたく感動しました。
   MDに録音し、繰り返し聴きました。やがて、歌詞を書き取り、額にいれて部屋に飾りました。


     The Impossible Dream


    To dream the impossible dream,
    To fight the unbeatable foe,
    To bear with unbearable sorrow,
    To run where the brave dare not go.
    To right the unrightable wrong,
    To love,pure and chaste,from afar,
    To try when your arms are too weary,
    To reach the unreachable star!

    This is my quest,
    To follow that star,
    No matter how hopeless,
    No matter how far;
    To fight for the right
    Without question or pause;
    To be willing to march into hell
    For a heavenly cause!

    And I know,if I'll only be true
    To this glorious quest,
    That my heart will lie peaceful and calm,
    When I'm laid to my rest.
    And the world will be better for this
    That one man,scorned and covered with scars,
    Still strove with his last ounce of courage
    To reach the unreachable star!





    見果てぬ夢


    不可能な夢を夢見ること
    打ち倒せない敵と戦うこと
    耐えられない悲しみを耐えること
    勇者がひるむ場所へ駆けつけること
    是正できない悪を是正すること
    遠くから純粋に清く愛すること
    腕が萎えてもやってみること
    届かぬ星にたどり着くこと!

    これが俺の使命
    あの星を追うこと
    どんなに無謀でも
    どんなに遠くても
    正義のために戦うこと
    疑念もためらいもなく
    そしてすすんで地獄に進撃すること
    天命をうけて!

    俺にはわかる、俺がこの華々しい大儀に
    忠実であるときにのみ
    俺の心は穏やかで平静になれる
    休息のときが訪れたときに
    そしてこのことがきっと世界をよくする
    男がひとり、さげすまれ傷つきながら、
    最後の1オンスの勇気で努力したことが
    届かぬ星にたどりつくために!





The Impossible Dream by MITCH LEIGH/JOE DARION (C) 1965 by ANDREW SCOTT.INC / HELENA MUSIC CORP.
The rights for Japan assigned to FUJIPACIFIC MUSIC INC.

  わたしはこの曲が唄われであろうミュージカル「ラ・マンチャの男」の観劇の機会をずっと
  心待ちにしていました。
  そして、ついに昨日、渋谷の「青山劇場」(03-3591-1711)でそのささやかな夢を果たしました。

  ドンキホーテは歌舞伎役者で知られる松本幸四郎が演じていました。
  彼が舞台で高らかに朗々と唄う「見果てぬ夢」に涙が溢れました。
  そして、クライマックスでは、ドンキホーテの魂に共感した人々が全員でこの曲に唱和して
  いき、溢れんばかりに劇場に響き渡りました。

  もう、何をかいわんやというところです。

 



ミレニアム(Millennium) ['97. 9. 6]
   アーサー・C・クラーク(ARTHUR C.CLARKE) の「3001年終局への旅」(3001 FINAL ODYSSEY)
   を読みました。
   遥かな西暦3001が舞台の壮大なSFです。
   期待を裏切らない緻密な未来世界の描写が、科学的なバックボーンと分かりやすいエンター
   テイメント性を持って描かれており、オデッセイシリーズの締めくくりとして十分に満喫で
   きる作品でした。このシリーズは「2001年」から始まり、「2010年」「2061年」
   を経て「3001年」で完結し、ここにひとつのミレニアム(1000年間という意味)が完成
   した訳です。

   思えば、私が高校生の頃に、このオデッセイシリーズの最初の作品の映画化「2001年宇
   宙の旅」を見て、その映像の神秘的な美しさと哲学的なメッセージに感銘を受けたものです。

   いまや、私も33歳になり、西暦も2001年まであとほんの数年です。
   もうすぐ、二番目のミレニアムが終わろうとしています。

   ところで、私は以前、大きな桁の数を分かりやすく把握する方法というのを考え付いたこと
   があります。
   それはとても簡単なもので、単位を円に置き換えてしまうというものです。
   たとえば、今年1997年は1997円となります。スーパーマーケットで1997円持っ
   ていると想像します。そして自分の年齢は33歳ですから、これも33円と考えます。

   こうして考えると、西暦後の人類の歴史の中で私は1997円の内の33円分は関わって、
   生きてきた訳です。消費税分までは行きませんが、そんなに人類の歴史は長くはなかったの
   だなあ、という気になります。

   2001年も、3001年もそんなに遠い未来ではないのかも知れません。

 

全自動早起きシステム ['97. 7. 19]
   秘書サービスの女性からポケベルで呼ばれて、電話すると、封筒が来ているとのこと。
   以前、考案した商品の企画書が不採用で送り返されてきたのでしょう。
   (面会をしてくれる場合や採用の場合には、だいたい郵便ではなく電話がくるものです)

   私は、実は発明家です。
   最近会社勤めが忙しいので、あまり時間をさけないのですが、よい発明を思い付くと自分で
   出願書類をつくって(特許事務所に頼むときもある)、企画書をつくって、採用してくれそ
   うな企業に何十通か送ります(残念ながらまだ商品化されたものはありません)。

   いまにいろいろ発明の話を書いたページを創ろうと思っているのですが、ここでは私の部屋
   にある「全自動早起きシステム」というものを紹介してみましょう。特許になる要素はあり
   ませんが、発明家というものの一面がよく分かるのではないかと思います。

   時間順に説明しましょう。まず目覚しがなる前にタイマー予約したものが動きはじめます。

       6:30頃 エアコン予約始動
       6:30頃 全自動風呂がま予約始動
       6:58 オーディオのアンプON
       6:58 「ゆうせん」のC−26チャンネルON
         (ディスコ「VELFARRE」のライブチャンネル)

   これくらいのタイマー予約は、別に珍しいことはありませんね。目覚しがなるまでの下準備と
   いったところです。いよいよ目覚しがなります。

       7:00 TV ON
       7:00 ベッドの下の目覚し鳴る
       7:00 ベッドの下のプログラムタイマー鳴る

   起床時間となり、ベッド下の目覚しとタイマーがなります(タイマーは目覚しをかけ忘れても
   必ず月〜金は鳴るようになっている)。ここで、大きなポイントとして、ベッドは電動リク
   ライニングベッドであり、目覚しとタイマーを止めるには、ベッドをリクライニングして起
   こしてやる必要があるということです。スイッチを押してベッドを持ち上げ、できた隙間か
   ら手を突っ込んで、ベッド下の目覚しとタイマーを止めるわけです。
   その後、リクライニングしたベッドの上でまた寝ます。

       7:05 目覚しのスヌーズ機構で再び目覚しが鳴る。

   また、斜面を登って、止めます。また寝ます。

       7:10 目覚しのスヌーズ機構で再び目覚しが鳴る。

   また、斜面を登って、止めます。やはり寝ます。

       7:10 パソコンの電源が入り、今日が何の日であるか音声読み上げソフトが
            喋り出す。

   これは古い機種を有効活用するために、MS−DOSのプログラムで動かしているものです。
   終わるとタイマーで切れます。

       7:15 目覚しのスヌーズ機構で再び目覚しが鳴る。

   また、斜面を登って、止めます。めげずに寝ます。
                     |
              以後、7:30まで5分おきに繰り返し
                     |
    7:30 天井に取り付けた赤外線防犯センサON

   赤外線センサは動く物体を感知して警報音を出す代物で、ベッド上に物体を感知すると大きな
   警報音が鳴ります。これがタイマーでONになります。さすがにこれはうるさいので、スイッ
   チが入る小さな音と共に同時にベッドから跳びおきます。

   防犯用の赤外線センサはかなり高かったのですが、投資しただけの効果はあります。
   このようにこのシステムは資金と物量を惜しまず投入してつくった贅沢なシステムです。
   おかげでちゃんと朝、起きられるようになりました。

   でも、その割に毎朝駅まで走っているのはなぜなんだろう?

 

自分と出会うこと ['97. 7. 1]
   今日(7月1日)、朝日新聞の夕刊を読んでいたら、人生の真実に迫る感動的な文章がありま
   したので、ご紹介します。
   11面の「こころ」の「自分と出会う」というコーナーの橋本 宗明(カトリック点字図書館
   長)という方の文章です。

   「よく考えてみると、「自分との出会い」とは、ある日ある出来事を通して豁然と目が
    開ける、といった静的なものではなさそうだ」

   という書き出しで、著者の自分を発見していったその過程を振り返っていくものです。

   若き筆者が自己嫌悪と遥かな世界への希求との間で次のように、人生で一番目の自分との出会
   いをする場面が印象的です。

   「自分がいやでいやで仕方がなかった。そして、遥かな世界の清浄と安らぎを求めた
    (でもその思いは、何とひ弱なものだったか)。自問自答が続いた。惨めな己の
    存在が確かであるなら、それと同じ分量で、拒否しているもう一人の自分の存在も
    確かなはずだ。「おまえはそういう惨めな自分を、いやだと言い切れるか」。
   「はい、言い切れます」この言い切りができた時、私は自分の後ろ姿を見た。」

   自分をいやだという、もうひとりの自分こそがより深いところにいる自分なのです。すでに、
   何がいやで、どうすればいいのか知っている自分です。

   二番目の自分の出会いは神との出会いに関するものです。簡潔な文章の中に神への思いを
   通しての自分の発見が述べられています。

   「たまたまカトリックの療養所に入り、そこで教理を勉強した。こざかしく青々しい
    若者は、もてる理屈のすべてをつぎ込んで、一生懸命、宣教師と議論した。 〜中略〜
    だからといって信じられるというわけではない。 〜中略〜 私は疲労し、憂鬱だった
    (不用意に勉強を始めてしまったけれど、この締めくくりをお前どうする・・?)。
    そして私は、一つの思いにたどり着いていった。「もしも本当に神様あなたが実在する
    なら、あなたの側から、私にそのことを教えてください。私としてはもうお手上げです」
    と。これがすでに「お祈り」になっていることに気付いた時、私は、もう一度自分の
    後ろ姿を見た。」

   神への想いをもったことのある者なら、深い共感を持つ一文でしょう。

   ここには引用しませんが、最後の三番目の自分との出会いも、胸に迫るものがあります。
   自分を等身大にありのままを見つめて嘘をつかずに生きていくこと、そのことの重みが伝わり
   ます。
   この人の本当の誠意と苦悩がここにあります。

   ぜひ、7月1日の夕刊を引っ張り出して読んでみてください。

 

台風が来た日には ['97. 6.29]
   台風8号が関東圏にもうすぐやってくるというので、いそいそと外に出かける準備をします。
   どこに行くのかというと、美術館に行くのです。

   台風が来る日というのは、これ以上美術館に行くのに絶好の日はありません。
   なぜなら、人がこなくて空いているからです。

   ひとり静かに作品を堪能できるからです。


   今日は会社の女の子がチケットをくれたので、東京都美術館の「ルーヴル美術館展」にお
   出かけです。家をでるとき、雨は少し落ち始めたところで、雲が川のように早く流れていま
   した。

   上野公園に着くと、濡れた土の匂いが辺りに満ちていました。
   帰る人の流れに逆行して、最終入場時間の10分前に館内に入場しました。並ぶことはな
   かったけど、思ったよりは込んでいました。

   以前、国立西洋美術館の「バーンズ・コレクション展」に会期終了間近に出かけたら、見た
   こともないような長蛇の列に腰を抜かしかけたことがあります。上野公園の中を人の列が
   うねりくねりながら何百メートルも人が並んでいました。これだけの人が並んでいるのを
   見ただけで、人間長生きする価値があるものだと思いました(うそ)。

   そのときは、こんな人込みの中で絵を鑑賞できるものかと、カタログだけ買い求めて帰り
   ました。


   嵐と、美術館の中の静けさは、不思議なコントラストを感じさせます。
   静けさからくる安心感と心の片隅の不安感を下地として、人恋しいようなロマンティックな
   複雑な気分になります。

   作品は期待通りで美しいものでした。
   神話と理想、光と色彩、具象と象徴、これらの渾然としたそれぞれの世界。時代精神を反映
   した美しい予感に満ちた作品群。私は特に、ブーシェ,フランソワの作品が気に入りました。

   グッズ売り場は混雑の一言でしたが、しこたま買い求めました。

   美術館を出て、柵に座ってしばらくゆっくりと余韻に浸っていました。
   強い風が公園の広場を何度も浚っていき、生暖かい空気をぶつけてきました。

   やがて大粒の雨が降り始め、人々の動きが慌ただしくなりました。
   私も傘をさし、ゆっくりと上野駅に向かって歩き始めました。

   美術館に行くには最適な、台風の日の一日でした。

[補足]
   ルーブル美術館の日本語版ホームページは、ここ



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