雑誌「アドン」より
1996年2月号に掲載


 

ロング・インタビュー -2-

インタビュアー/南編集長

 

 

「アワーズ」の2年

 そこが、間きたかったところで、あなたは「スネークマン・ショー」というラジオ番組をやりながらニュースレターを発行したり、ゲイのグループをつくりましたね。

大塚
 はい。

 あれは、何人ぐらい集まったんですか?

大塚 あのグループは「アワーズ・ワーク・コミュニティ」っていう名前で…。

 「アワーズ」というのは、「われわれ」とい意味ですか?

大塚 そうです。「OWC」って略してましたけど。これは、もともと「スネークマン・ショー」の呼びかけが出発点だったんです。

 当時、アメリカのゲイ・ムーブメントの中で、「ゲイラップ」っていうのがよく行なわれていたんです。「ゲイラップ」って、ゲイが集まって、自分のセクシュアリティとか過去の経験なんかを、他の人の前で話すという、一種のミーティングみたいなものなんです。

 普通、ゲイは人前で自分のことを語るなんていう経験って持ってないわけですよね。で、それをすることが、自分を受け人れるのに、どれだけ大事かってことを体験してもらおうと、ある意味で戦略的に企画されたものなんですけど、それを聞いたときに、日本にも、そういうものがあったらいいなって思って、ラジオを通じて「ゲイラップをやってみたいんだけど、興味ある人は手紙をください」って呼ぴかけてみたんです。そしたら30人くらいの人が応募してくれて、その中のひとりが駒沢大学の教室を借りてくれたので、そこで、初めての「ゲイラップ」をやったんです。

 もちろん、ほとんどの人が初対面でした。そんな人たちの前で、自分はいつごろから男に引かれ始めたかを話すのは、非常に閉塞的な状況にいた人間にとっては、すごく感動的な体験になりますよね。会が終る頃には、せっかく、こんなキッカケで集まったのに、このままバラバラになってしまうのは、もったいない、このグループを何か一つの形に残していこうって話が出てきて、それが、日を置いて、ゲイリブのグループみたいなものに育っていったんです。

 僕は「スネークマン・ショー」をやっていたり、番組を通じて「ウエンズデイ・ニュース」っていうニュースレターを出したりしていたので、ある意味で影響力が大きかったんですよ。年齢も彼らより10歳くらい上でしたし…。そこで、彼らも、僕の影響下みたいなところでやっていくんじゃなくて、自分たちの自主性を活かして、やっていきたいと考えたんでしょうね、そういう気持ちから「我々の」という意味で「アワーズ」という名前を付けたんです。もちろん、そこには、「我々ゲイの」という意味もあったとは思いますけど…。

 僕の方としても、本の中でも書いてますけど、グループでの活動に、どうしてもついてくる団体行動ってのについていけないことが多いし、彼らが名前に、あえて「アワーズ」と付けた気持ちも汲んで、個人として、気が向いたときに参加するという形をとったんです。だから、彼らの手によって運営されて、彼らのニュースレターも出してました。ま、だいたいが、そんな形で始まったものなんです。メンバーは30名から40名くらいだったんじゃないかなと思います。

 それは、どのくらい続きました?

大塚 そうですね、あれは、2年は続かなかったんじゃないかなあ。

 そうですか。

大塚 2年しか続かなかったという問題点は、当時いくつかあったリブのグループが、多かれ少なかれ持っていたものだと思うんですけど…。

 そういう呼びかけに答えてくれる人っていうのは、やっばり学生中心になっちゃうんですね。で、学生や学校出たての人って、はっきり言って、まだ自分の生活を背負ってないでしょ? 生活背負ってないからこそ、身軽に、そういうところにも出てきて、自由な発想で話もできるんだけど、いつも話が話だけで終ってしまうんですね。

 たとえば、「アワーズ」でどんなことが話されていたかと言えば、社会を変えるには何をすべきかってこと中心になってしまうんです。実際、自分自身に、ゲイとしての生活をしてて、これだけはまず解決したいっていうところが、あまりないから、どうしても話が観念的になってっちゃうわけですよ。「闘うう相手は何なのか?」とかね。どこかから話を持ってきて「これって問題じゃない?」とか言って、それについて延々話すみたいな…。

 それやってると、参加している人たちも、初めは、なんか有意義なことやってるって気がしてても、そのうち、こんなふうに集まって、いつも同じようなことばかり話してても、仕方がないって、だんだん、思うようになってしまうんですね。

 そのうち、二丁目を知っている子から、「ねえ、帰りにゲイバー行ってみない?」とか誘われて、二丁目とかに連れて行かれる。そうすると、もう、そこで友達はできるわ、遊び場はできるわで、けっこう、それで自分の抱えている問題が済んじゃったりするわけですよ。

 たしかに、社会の変革なんかより、自分が楽になったり、楽しかったりできる方が先決問題ですから、当り前といえば当たり前なんですけどね。そうやって、グループとしては、闘う相手を見つけられないまま、何かやりたかったエネルギーは、二丁目とか、友達とかとの楽しいことに吸収されていって…。いつか存在理由も見えなくなり、結局消えて行った。

 同じような消え方したグループって、あの当時いくつもあったと思うんですよ。

 その話は今でも大事な問題になっていると思うんです。それは、いろんな調査をしてみんなが、こういうことが不自由だし、ああいう不自由なことがあるから、それを解決するために何かやりましょうというのが運動だと思うんだけど、そういうことは「まどろっこしい」とか、そんなことは「必要ない」という人々がいるんです。

「これが問題だ」といって持ってきて、そこに人を集めてやる方がはっきりしていいんじゃないか…と主張する。

大塚 僕はね、そういった社会の中の問題点を取り出してそれに関していろんな討論をする、そのこと自体を否定しているんじゃないんですよ。それはそれで大切だと思うけど、それが実際の生活と関係なく話の中だけで成り立っちゃうところはおかしいよって言ってるんです。

 実際に、生活の中で現実的な問題を抱えている人がいてその人たちが、じゃ、これをどうやって解決していけばいいんだって助けを必要としたときに、そういう討論の場で話されたこととかが、情報として役に立ったり、解決のための方法論を教えてもらったりできるっていう、両方が接していることが大事だと思うんですよ。だけども、その両方が接しようにも、いわゆるゲイライフっていうか、ゲイという部分を人生全体に関わらせていこうとする生き方をしてる人が圧劇的に少ないのが現状なんですね。

 だから、たとえば、公団住宅に男同士のカップルでは住めないっていうのは差別だって訴えていこうとするのは、あまり現実的だとは思えないんですよ。だって、現時点で、公団住宅に男二人で入ることを必要としてる人ってどれだけいるのかって思うんですよ。現実には、男同士で暮らすことさえも、まわりをはばかって、やろうとさえしない人が多いっていう状況の中でね、公団住宅の問題を先頭に立てることに、どれだけの意味があるのかなあって、ちょっと思うんですよ。

 だから僕が今やりたいのは、ま、そういうふうに問題が感じられるようになる前段階の状況を作り出すことに荷担したいってところなんです。好きな人と暮らしたいって思ってるゲイがいたら、まずは、やっちゃえやっちゃえ、みたいに唆すとか、こうやって生きると楽しいぞとか話したりとかね。そういうことって、とにかくやってみると、ああそうか男同士で住む部屋見つけるのって、けっこう、大変なんだとかって、やっと具体的な問題にブチ当れるわけですよね。

 やっぱり、日本のゲイの状況って、闘う相手がはっきり見えないから、まず自分が動き出さない限り、敵みたいなものとか、何が、やりたいことを阻んでいるかってのが実感できない、そんな気がしますね。だから、そういうふうに、ゲイライフを送り始める人が多くならない限り、討論が、いつまでも話だけで終ってしまうんでしょうね。

才能を組み合わせる

 大塚さんは、編集をするというか、コラージュするということに、たいへん興味を持っているんじゃないかと思うんですが、いかがですか?

大塚 え?。

 雑誌を編集するということではなくて、ここに、こういう人がいる、あるいは、こういう面白いことがある…。それを、まとめて実体化することがうまいと思っています。

大塚 そうですねえ…。ま、結果的に、そういう仕事は今まで多かったですね。別冊宝島の編集の仕事を頼まれたときも、何をやりたいと思ったかというと、僕の店に来ているいろんな人の才能を組み合せて、なにか作ってみたいってことだったんですよね。

 一人一人の才能って、大きいとか小さいとか、その種類もさまざまで、バラバラで存在してるときは、それほど力はないけど、組み合せることで、大きな意味を持ってくるって気がしてたんです。あの人に、この人のこの部分を、こう組み合わせるだけで、けっこう面白いものができそうだぞとかね。

 ゲイって、自分をゲイのままで表現できる場ってほとんど持ってこなかったから、ゲイ文化の状況って、まだまだ成熟してないんだと思うんです。一人で大きな才能を持っているゲイが何人も出てきていれば、そういう人に一つずつ大きな仕事をポンと任せていけばいいんだろうけど、まだ、そこまで育ってないんですよ。そういう理想的な状況が生まれるためには、やっぱり、その前段階の状態を作り出していくしかないなって、いつも思ってたんですけど、別冊宝島は、そういうのに、ある意味でうってつけの仕事でしたね。それに、どんなに小さい才能でも、発表の場を持たせて上げたいという思いもあったんです。

 それっていうのは、ちょっと恥ずかしい話になっちゃうんですけど、僕って、「スネークマン・ショー」とか、『ポパイ』で「シスターボーイの千一夜物語」っていうコラムを書いたりとかしてたんだけど、無視されっぱなしっていう感覚があったんです。

 当時のゲイメディアって、一般社会の中に流れる、ちょっとでもゲイが面白がりそうな情報だったら、些細なことでも、わりと、こまめに拾ってきて、載せたりしてたのに、どういうわけだか、僕のやってたことって取り上げられたりしなかったんですよ。だから、何でなんだろうとか、僕のやっていることって些細なこと以下でしかないんだろうかとか、けっこう、傷つく思いをしてたんです。そんな思いもしたので、何か面白いものを持っている人がいたら、できるだけ紹介したり、発表の場を設定したりしたくなっちゃうんです。

編集部 「スネークマン・ショー」は、「『ムルム』をやっているときにやっていたんですか?

大塚 いいえ。『ムルム』を辞めた後です。そういえば、その頃、『アドン』の編集部にいた人で、やっぱり辞めた人がいましたよね?
 
 ああ、Aさんですね。

大塚
 「スネークマン・ショー」を始めた頃に、編集部に遊びに来たことがあったんですけど、そのとき、Aさんから番組について、かなり否定的なことを言われたんです。僕としては、ラジオのことを『ムルム』とかで取り上げてくれるかしら、くらいの甘い気持ちがあって、遊びに行ったんですけど、Aさんには、「自分は聞いてないけど、番組を聞いた友人から聞いた話じゃ、ゲイを面白可笑しく取り上げてるそうじゃないか。そういうノンケのメディアを使って、自分を売り込むのってよくないんじゃない」とか言われちゃったんですよ。

 僕は番組の中で「デブ専」とか「フケ専」とかいう言葉の説明をしたりしてたんだけど、それが、Aさんには引っかかったらしいんですね。番組を実際に聞いてくれれば、どういう作りか分かってくれるはずなのに、聞く前から、そんなこと言うんじゃ、話にならないって感じで、ま、今度一度聞いてみてってだけしか、言わなかったんですけど、あの当時って、ゲイがそれなりのやり方見つけて、社会に出ていくことに対して、どこかで否定的な感情を持ったり、無視してしまいたいところって、あったんじゃないでしょうかね。

 だから、繰り返しになるけど、自分が紹介できるような立場にいるときには、ほんのちょっとしたことでも、これは先に行ったら、大きく育つかもしれないなと思える人には、できるだけチャンスを提供できたらいいなって、今でも強く思うんですよ。人間って最初は人との組み合せで使われても、それなりに評価されれば、「ああ自分はできるんだ」って思えて、次にもっと先まで行けるってことあると思うんです。そういうことって実際あるし、今、そういうことをやらないと、スターみたいな、自分たちにすごく面白いことを見せてくれる人が出てこれないって気がするんですよ。

 

 


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