雑誌「アドン」より
1996年2月号に掲載


 

ロング・インタビュー -1-

インタビュアー/南編集長

 

 

バラが天井から降る

 大塚さんがニューヨークから帰国して聞いた話で、たいへん印象に残っていることがあります。それは、バレエの公演を見に行って、カーテンコールのときに天井からバラの花が降ってきたということでしたが…。

大塚 あれは、アメリカン・バレエ・シアターの『ドン・キホーテ』かなんかを見に行ったときのことだったんですけど、その公演に、もう名前は覚えてないんですが、ゲイにすごく人気のある男性舞踊手が出てたんですよ。とってもいい出来の公演でカーテンコールも大騒ぎだったんです。

 普通、カーテンコールって、プリマが出てきたときに一番盛り上がるんでしょうけど、このときは桁違いに、その男性舞踊手への拍手や声援が大きかったんです。こういうカーテンコールでは、まず、プリマとその相手役の男性舞踊手が二人で出てくる。次にプリマが一人で出てくる。そして三回目に男性が一人でカーテン前に出てくるという形をとるでしょ。

 その、彼が一人で出てきたときに、前の方の席に陣取ったゲイとおぽしき軍団がすごい騒ぎを初めたんです。そして、彼が深々とお辞儀をしたとたん、舞台よりの天井桟敷から何十本ものバラが、彼に向かって、雨のように降ってきたんです。ずうっと、そこでバラを用意して待ってたんでしょうね。もう、ホール中が、足踏みはするわ、ピービー口笛は鳴らすわ、野太い声で彼の名前を呼ぶわで、興奮状態になったんです。

 それを見て僕は、ああ、ゲイって、こんな形で自分たちの気持ちを表すんだ、こういうのっていいなあって、なんか、ソクゾクしちゃったんです。これが、ニューヨークの体験の中で、すごく印象的だったんで、当時『アドン』とは別に創刊された『ムルム』に書いたんですよ。

 そうでしたね。そこで、あなたの話というのは、非常に絵画的とでもいいましょうか、目に情景が浮かぶように話をしますね。それが、単なる説明ではなくて、感動などをうまく織り混ぜて話されるんで、いつも感心しているんです。さすが造形作家だなということをあらためて思い起こしたわけです。それはどういうことかというと、あなたの場合、ひとつのフレームの中に絵を切り取るような、現実認識があるんじゃないかと思っていますが…。

大塚 そういうふうに言われたのって初めてなんですけど…。でも、そういう傾向は、あるかも知れないなと思いますね。

 たしかに、今回出版した『二丁目からウロコ』でも、やっぱり、二丁目を切り取って見せているわけですよね。どうせ、全ては見せるわけにはいかないのだから、どう切り取っていくかっていう、その切り取り方みたいなものには、すごくこだわりがあったんです。たとえば、絵をどう描こうかと思ったときに、構図みたいなものにすごくこだわるやり方ってあると思うけど、そういうところって、僕にはあるかも知れないですね。

 実は、今回、本を書くにあたって、どうやって二丁目を紹介しようかって思ったときに、前から引っかかっていたものがあったんです。『アドン』の一月号で僕の本の紹介をしていただきましたが、その中で書いてあったように、及川卓っていう人の『二丁目病』と題された文章を読んで、ほんとに、すごく腹が立ったんですよ。

 この人の言っていることに、どうやって答えていこうかっていうのが、けっこう重要なテーマだったんです。あの人は、二丁目にも来ないで、クライアントから聞いて集めたものだけで、二丁目を描写したわけですよね。それにぶつけるときに、二丁目全体を、僕が新しく取材したもので語っていくやり方で、果して、対抗できるんだろうかって、気がしたんです。

 たとえば、僕はデブ専バーとかSMバーには行ったことがない。じゃあ、今回の本を書くにあたって取材しにいってみようと出かけるとする。一回じゃ分からないからと、二回、三回と行ったとしても、結局は外部の人間が取材しに行ったときと、あまり変わらないものしかつかめないと思うんですよ。たまたま、その時はそうだったという雰囲気しかつかめないわけですよね。それじゃ、全然二丁目を知らないルポライターが二丁目を一ヶ月か二ヵ月、調べて書いたようなものと大差無いものしかできないんじゃないかって考えたんです。

 で、いろいろ考えた結果、僕は「タックスノット」を14年やってきた。その前にも自分なりに十年以上もここで遊んできた経験もある。そういった自分のポジションから見た二丁目に関してはよく知ってる。その場所から見たものしか言えないけれど、でも、ここからも全体も見渡せるんだよっていう方法論みたいなので行くのが、一番僕らしいやり方だし、もっとも説得力を持つんじゃないかなっていうのが結論だったんです。

歴史の流れを思う

 あなたと話をしだすと、つい、昔話みたいな回顧談になってしまうんだけど。

大塚 そうですよね、古いですよね、僕たちは…。「僕たち」と云わせていただきますけど。

 それは、そうですよ。

大塚 だって僕南さんが『アドニスボーイ』というタブロイド版の新聞を発行している頃を知っているんですもの。なんだか、こっちがインタビュアーみたいになっちゃうけど、あの『アドニスボーイ』は「アドン」の前に、どのくらい出していたんですか?

 あれは一年です。

大塚 と、いうことは12回?

 そうです。12回出したんです。そもそも、なんで、ああいうのを始めたかというとちょうど、その頃、僕は自動車の業界紙で働いていたんです。で、『二丁目からウロコ』に出てくる「パル」へ行っているときに、偶然、そのときから20年前、まだ二丁目が生まれない前の新宿のゲイ・バーへ出入りしているときに出会った学生と、ばったり再会したんですよ。そこで、いろんな話をしているうちに、僕が業界紙で働いているということにヒントを得て、ゲイの業界紙をつくろう、広告を集めて成り立つ媒体をつくろうということになったんです。

 一年経過して、新間形式じゃあ、経済効率がよくないということで、12回分の新聞をかかえて出版社に売り込みに行ったんです。そこで、これを雑誌にしませんかと話したら、すんなりと乗り気になって、『アドン』が創刊ということになったんです。

大塚 『アドニスボーイ』の販路はどうやって…?

 あれは、持って歩いたんです。

大塚 ポルノ・ショップに?

 ええ、ポルノ・ショップに持って行きましたし、ゲイ・バーでも売ってもらうために持って歩きました。当時、上野駅の地下道にポルノ.ショップがあって、ものすごく売ってくれたんです。カバンに入れてかついで行商をして歩いたんです。

大塚 へえ、そうなんですか。いや、なんで、そういう話をお聞きしたかっていうと、歴史的というと大げさだけど、今あるものを生み出すのには、その前のものがけっこう大きな意味があるんじゃないかって気がするからなんですよ。

 『アドニスボーイ』があって、次に『アドン』ができた。途中には『ムルム』という雑誌も出した。その後の『アドン』には、『ムルム』も大きな影響を与えているって思うんですよ。僕自身も『ムルム』にはアートディレクションという形で創刊に関わった雑誌だから愛着があるんですけどね。今でも、うちの店に来るお客さんで、あれはホントにいい雑誌だったって言う人多いんですよ。

 こんなふうに、雑誌一つとっても、ああいうものがあって、こういうものができみたいな、一種の歴史的な流れを意識するって大事だって気がするんです。今あるものを作り出した前のものを、丹念に調べたり、その情報をプールしたりするのって、けっこう重要なんだなあって、『二丁目からウロコ』を書いてて、二丁目の歴史みたいなことに触れたときに感じたことなんですけどね。


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