記憶のノート (5)


 






一年中夏なら、芝生だってよく伸びる。
雨と日光と肥料さえあれば、彼らはどんどん長くなるのだ。
いつまでも長くなる自分に、うざったいとか思わないのだろうか?
僕は芝生に腹を立てていた。
なぜなら、彼らはよくすべるから。
特に朝露を浴びたあとは。
しかも傾斜がかなりあるので、余計すべる。
重いし。まあ、これは芝生のことじゃないけど。
などと愚痴をため息混じりで言いながら、僕は車椅子を押していた。
だけど、視界にあった雑草が少なくなってゆき、だんだんと空が広がりだした時、
僕の気分はいっぺんに晴れ上がった。
「うわぁ、いい眺めだなぁ。」
たんぼや民家がバランスよくならび、緑と水色が淡く貫くようなすがすがしさで
光っていた。
遠くでは翼の広い鳥が優雅に飛んでいる。
僕達は今日、眺めのいい山の高台にきていた。
「こんな所があったなんて知らなかったわ。」
「うん、親方に教えてもらってさ。秘密の場所らしいよ。」
「だれの?」
「親方の。」
「本当に?」
レイはそう言って笑った。
彼女は親方の顔を見たことないから、こういう風景を楽しむロマンチックな人だと
思っていなかったのだろう。
まあ、親方という名前から考えればそうだし、あの顔を見てもそういう人だとは
とうてい思えないけど。


僕らがほたる山に入ってから、もう一週間が過ぎようとしていた。
あの日のことは、二人とも夢のように感じているし、そういうふうに
信じはじめている。
でもそう思ったとき、食器棚の一番下にしまっている、
あの青く光る石を見るようにしている。
そう、僕達は持って帰ってきた。
持ちかえるときは、あまりも明るかったので、僕の洋服のなかに入れて来た。
アパートでも食器棚に入れっぱなしにしているし。
でも、それは他の人に気付かれたら大変だからだ。
この石が見つかれば争いだって起こりかねない、戦争レベルの。
だから僕は早くこの石を片付けたかった。
つまり、早く願い事をかなえたかったんだ。
でも、僕はレイが発病するまで待ってみることにしていた。
医者はもう助からないと短命宣言したけれど、僕には今だに信用できない。
レイの右足が消えてなくなっているのは、目に見えることでわかるけど、
彼女が心臓病にかかっているのはいまいちピンと来なかった。
だから、僕は直前まで待つことにした。
それからでも遅くないし、もしそんな兆候がなかったら、彼女の右足を治して
あげられるんじゃないだろうか。
まあ、再検査をした後のことになると思うけど。
とにかく、僕らは伝説の石を取ってきて、今だに保管してある。
これはハッキリ言って、人類史上二組目の快挙だ。

芝生が伸びきってないところを選んでから、ばさっと水色のビニールシートを敷く。
レイは車椅子から体を持ち上げて、ゆっくりとそこに座った。
「気持ちいいね。」
「うん。」
高原の風は、向こうから潮の匂いを引きつれて来る。
僕らの前髪はその風に、心地よく揺らされていた。
「シンジ君も座ったら?」
「うん、それじゃあ。」
若干雲はあったけど、抜けるような水色の青空をおおいつくすほどじゃなかった。
ふと目の前を通る蝶々が白い影を残してすぎた。
やがて蝶々は一匹の子猫に追い掛け回される。
「白い蝶々だ。」
僕はぼそっといった。
「めずらしい感じがするね。」
「青い蝶々なんかめったにいないのに、それが当たり前に感じるんだよね。」
うん、とレイはうなずいた。
鳥の鳴声だろうか?
山脈にこだまするその声は、少し乾いた空気の中、どこまでも響きわたった。
「夢みたいだよ。」
僕はごろっと仰向けになった。
「何が?」
レイを見上げた僕は、逆光で表情をうかがえない。
「ほたる山のこと、あと、それに、僕達の生活も。」
「わたしたちの生活って?」
僕はうーんと唸ってから、
「夢みたいじゃない?」
と、また同じ事を繰り返した。
「うん、夢見たいね。」
と言って、彼女も右足を気遣いながら仰向けに寝そべった。
二人並んで空を見上げる。
ときおりかすかに向こうの空を、透き通った雲がゆっくりと通りすぎていった。
「レイ、日焼けしちゃうよ。帽子かぶったら?」
車椅子の上で、麦わら帽子の赤いリボンが風に揺らされていた。
「いい、空が見えなくなるから。」
「それもそうだね。」
目をつむったまま僕は言った。
この時間になると、緑の匂いが満ち潮のように、ゆっくりと広がりだす。
「あの小屋のこと覚えてる?」
「小屋・・・・・・・・・・って、あのほたる山にあったの?」
レイはひっそりと言う。
「うん、詳しく。」
「詳しく?・・・・・・絵があって、テーブルがあって、じゅうたんがあって・・・・。
 それ以上ははっきりとしない。」
「うん、僕も詳しくは思い出せなくなってきてる。
 あんなに、奇妙で、不思議なことがあったのに、やっぱり細かいことは
 忘れていってる。
 あの見たことのない植物、鳥や虫。
 景色はもちろんだけど、折紙にもないようなあの色とかもね。
 ほたる山に入ってから帰ってきたのって、僕らぐらいなんだから、
 よく思い出して記録していたほうがいいと思うんだよ。
 あんな少しの間に、ぎゅっとつまっていた思い出をなくしたくないからさ。
 僕達のためにもね。
 だから、ノートでも買ってきて書き留めておこうと思うんだ。」
「あ、ノートワープロ貸すわ。」
「いや、いいんだ、レイの邪魔したくないし、ただ書き留めるって感じだから。」
レイは頭をもたげてから、僕に白い頬を見せて、
「どんな感じにするの?箇条書きにするの?それとも、エッセーみたいにするの?」
と言った。
「うーん、よくわからないけど、とにかく書いてみるよ。
 とりあえずは、神社の鳥居での出来事から。」
「あ・・・・・・・・ミャオのことも書いたほうがいいと思う。」
とレイは言った。
ミャオのことは、色々話し合って深く考えないようにしている。
彼が僧侶の生まれ代わりなのか、ほたる山の番人なのかはわからないけど、
いまここにいるミャオは僕らの知っているミャオだ。
食べ方が汚くて、愛想がよくて、そしてとっても無邪気な。
ちょうど今も、さっきの蝶々を追い掛けている。
「じゃあ、僕がほたる山を見た所から書いてみようかな。」
すると、レイは、
「それなら、私達がここに来るところから書いたら?」
と微笑んで言った。
「え、ちょっと、大変そうだなぁ。それに、日記みたいになっちゃうよ。」
と言って、僕も笑ってから頭をかいた。
「思い出を忘れないようにするためのものなんでしょ?
 それなら、日記と同じじゃないかな。」
まっさらな空をバックに彼女はそういった。
明るいところで見るワンピースは、レイを明るく元気な少女に見せてくれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
いや、違うかもしれない。
レイはそういう女の子になりつつあるんだ。
ここにきてからの彼女は本当に変わった。
逃げだそうとしたこと、泣いたこと、仲良く話したこと。
なにもなかった表情に、悲しみが、戸惑いが、そして笑顔が。
僕が本当に書きたいのは、ほたる山のことよりもそんなレイの表情を写真のように
生き生きと文章で残せたらということなのかもしれない。
「うん、そうする、最初から全部書くよ。
 こんなに大事な思い出を、忘れたりしたくないから。
 あ、でも、僕、記憶力ないほうだからレイも協力してよ。
 ノートに付けるタイトルもまだ決めてないしね。」
彼女はうなずいてから、
「うん、じゃあ『記憶のノート』っていうタイトルはどう?」
と言った。
ミャオの時といい、レイのネーミングセンスはいつも一直線だ。
「ええ?もっとかっこいいやつのほうがいいよ。」
僕は少し呆れた表情をして微笑む。
レイはちょっとだけ口をとがらせて、
「じゃあ、シンジ君はどういうのがいいの?」
と言う。
「んー、そうだなあ、ビューティフルメモリーとか、・・・・・・・・かな?」
僕はそういって笑った。
レイも笑っていた。
「僕ってセンスないのかな?」


この夏のレイは、とても綺麗だった。
彼女が見せる笑顔は、僕の心臓を止める瞬間を何度も作った。
雲よりも白い頬がゆっくりと動いたとき、ああ、僕はこれを守っていかなく      
ちゃいけない、と思う。
僕の体を動かす唯一の要因が、清らかで暖かいこのすべてだった。
大切なものだった。
そして、僕は恐怖を感じている。
なくしてしまうことを考えると。
もうレイは逃げだしたりしないのはわかっている。
いつものように、ミャオと遊んで待ってくれている。
だけど、僕は不安なんだ。
いきなり消えてしまうかもしれない。
ふっと、誰かにつれ去られるみたいに。
この感覚は、心臓病から来ているのだろうか。
それが、治るものだとわかっていても、こんなに気持ちははかなく揺らいでしまう。
青空の下で、僕はそんなことを考えていた。
目の前に広がる山々を見渡すと、濃い緑にぎらぎらとした陽射しがあたって
ときおり眩しく光っていた。
「シンジ君、もうお昼食べようか。」
レイはそう言ってバスケットを取り出す。
僕は時計を見る。
まだ11時だった。
「そうだね。」

幸せすぎて恐い。
よく、ドラマとかで言われているこの台詞が僕に当てはまるのかもしれない。
だから不安に感じたんだ。
きっと。


「今日はレイが全部作ったんだよね。」
「うん、サンドイッチ。」
「楽しみ。」
彼女はふたを開けてから、僕の前にだす。
「すごい、これ全部ひとりで作ったの?あ、あたりまえか。」
「うん、あ、飲み物もあるよ。」
と言って、銀色に黒いふたのついた水筒を取り出した。
「ミャオ、ご飯だよ。」
彼は草むらになにかを見付けたのだろう。
顔を埋めて足をばたばたさせている。
僕達は肩を触れあわせながら、見つめ会ってやさしく笑った。



 

 

レイが発病したのは、それから3日後だった。




 

 











最初は風邪だと思っていたけど、その熱は二日も続いた。
三日目になって、パジャマのうえから胸をおさえ、目蓋を力いっぱい
閉じ、つらそうに空気を吐き出しはじめたとき僕は確信した。
これは心臓病だと。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

夕日とほたる山の明かりが幾重にもあわさって、他では見ることのできない
独特の色合を表していた。
レイにのびる点滴液や、額に置かれた濡れたタオルも茜色に染まって、
全てのものが、僕をゆううつにさせていた。
僕は一人分の食器を洗っている。
蛇口をいつもより大きく開けて、水道水をステンレスにあてる。
重い音だったけど、それでもよかった。
彼女の苦しい息遣いを聞くよりは。

手を拭いてから、ベッドの近くの椅子に座る。
「レイ、いま楽にしてあげるからね。」
眠っている彼女に僕はそう言った。
立ち上がって、食器棚に寄り、しゃがんで一番下の引き出しをゆっくり開ける。
「えっ?」
そこには、輝きの薄れた希青石があった。
数日前に見たときは、あふれんばかりの輝きを発していたのに、
今は奥の方でひっそりと光っているだけ。
時間がたってしまったのだろうか。
つまり、期限があったのかもしれない。
ほたる山から持ち出して、もう10日以上たっている。
一瞬背筋が凍りつくような恐怖に、身を縮めうずくまってしまう。
しかし、まだ光は消えていない、早く言わなければ。
僕はそう自分に言聞かせ、背筋をしゃんと伸ばした。
命の消えそうな希青石をすくうように持ち上げて、レイの枕元にそっと運ぶ。
そして、彼女の顔の横にそっと手を寄せた。

そうだ、僕はこの時が来るのを恐れていたのかもしれない。
この瞬間になにかが消えてしまうようで・・・・・・僕達の求めていたなにかが。
自分の欲望を満たすために使いたかったわけじゃないし、
見惚れていたわけでもない。
・・・・・・・・・・・・そうだ、これは僕達の思い出なんだ。
この青い石は、僕達の思い出を詰め込んだ宝物だったんだ。
別に光らなくてもよかった。
海辺に落ちている小さい石でも、川原に落ちてるごつごつした石でも。
それを見て、また懐かしい思い出を二人で話せたら。
文章みたいな見えないものじゃなくて、ふれて見て感じるもの。
いつまでも食器棚の片隅で、僕達の今の記憶をフラッシュバックのように
よみがえらせてくれるものをとっておきたかったんだ。
でも、今は違う。
僕達の思い出は、ほたる山だけじゃない。
これからもっともっと作ることができる。
だからもう、未練なんてない。
僕達は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ずっと一緒だから。


「お願いします。どうかレイの心臓病を治してください。」

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

「シンジ君。」
「ここにいるよ。」
「カーテン開けてくれる?」
「え、うん。」
いつでも彼女が眠れるように、僕は部屋を暗くしていた。
彼女は窓の外をチラッと見てから、残念そうに顔を戻す。
「なにか食べたいものない?」
「ううん。」
「喉は渇いてない?」
「うん。」
「そうか。」
彼女はそういって、つらいのだろうか、またゆっくりと目を閉じた。

レイの容体はどんどん悪くなっていった。
肌理の細かい白い肌は変わらなかったけど、
確実にげっそりとやせてきているし、熱も下がるどころか上がり続けている。
一度は病院に行くことも考えた。だけど、宇都宮の大きな病院で
治らないと言われたこの病気を、どこに行けば治せると言えるんだろう。
他の大病院に行ったとしても、きっとネルフが張り込んでいるに違いない。
だから、僕は希青石にかけていたんだ・・・・・・それなのに、彼女の様子は
どんどんひどくなってきている。
レイが眠っているときも石を握り締め、必死にお願いしてるのに、
痛々しい横顔は何も変わらない。
どうしてなんだ。
あんなに一生懸命がんばって取ったものなのに。
自分が消えてしまうことを覚悟してまで取りにいったものなのに。
どうして、どうしてなんだよ。
「ごめんね。」
えっ・・・・・・・・・・
レイのかぼそい声が、とまった時間を動かした。
「なにが?」
「迷惑ばかりかけて。」
「なに言ってるんだよ、そんなこと気になんてしなくていいから。」
近くにあった氷り入りの桶にタオルを入れてゆっくりとすすぐ。
僕は体中の力を両手に集めて、おもいっきり絞った。
額に置いたとき、彼女は冷たいと言ってやさしく微笑んだ。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

だんだんと僕の感情は薄れだしてきた。
何も考えていないし、感じていない。
ぼんやりとしていて、はっきりとつかめない一日。
それを繰り返して、繰り返して、繰り返す。

僕の一日は彼女に点滴を打ち、石ころに祈りをささげる。
後はただ、そばで見守るだけ。
彼女は起きない。
目をさますのは二日に一回ぐらいで、数時間ぼっとしてからまた眠った。
いつ目をさますかわからないので、僕は何十時間も黙って起き続けていた。
それが朝であろうが、昼であろうが、夜であろうが、
雨が降ろうが、晴れていようが、曇っていようが、いつでも・・・・・・ずっと。
その間は、何も考えなかった。
考える気力がなかった。
何もできない自分に腹を立てることもなく、
涙を流して悲しむこともなく、ただやせてゆく彼女を見守るだけ。
髪はぼさぼさのまま、頬はこけ、全てがつらそうに息をする彼女を。

僕は夜が恐くなった。
カーテンを閉めきったこの部屋は、暗く汚れていて、後に誰かいる錯覚を
引き起こす。
僕は振り返り、誰もいないことを確認する。
また、そんな感じが起こって振り返り、また前を向く。
その繰り返しだった。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

闇の中、いつものように椅子に座り、レイをぼんやりと見つめる。
彼女はつらそうだったけど、僕は顔をしかめもせず、無表情のまま
黙り続けていた。
正直に、僕は何も感じていない。
激情があふれることもないし、取り乱したように錯乱することもない。
思考はなにも動かず、感情というものも湧きだしてこない。
僕は人形だ。
心の無い、人の形をした生きものだった。


レイの白い目蓋と長いまつげがゆっくりと上がって行く。
憧れだけで生きている翌桧の木のように、彼女は羨ましそうに
天井を見上げていた。
「シンジ君。」
彼女は目を開けると、かならず僕の名前を呼ぶ。
それは僕に、彼女の視力がすでに奪われているという事実を、
いやが上にも理解させられた。
「ここにいるよ。」
「カーテン開けて。」
「うん。」
カーテンは開いていた・・・・・・・・・・・・でも、わざとその端を持ち、音をさせる。
「何が見えるの?」
「ん、いつもとかわらないよ。」
「そう。」
レイは、変化を望んでいたのだろうか。
いや、それとも、奪われた視界の外が自分の知らない世界に変わって
しまったようで不安だったのかもしれない。
「静かね。」
「うん、夜だからね。」
天井から降り注ぐほのかな電球の明かりが僕達を照らしていた。
窓からは山の上に見える月光が夢のように入り込みぼんやりと見えた。
「ごめんなさい。」
はかなく一瞬に生きる花のように、それは美しくて清楚な言葉だった。
その綺麗な響きを侵したくなかったから、何も言わず黙っていた。
僕にはレイにかける言葉がない。
元気づけたり安心させたりする言葉がない。
だから、何も言わない。もう、何も言えない。
僕は生きているんだろうか、それとも死んでいるのだろうか。
心と体が離れてしまって、自分という存在がただの脱け殻になったようだった。
魂の無い肉の塊。
それが僕だった。
視点がよくあわない。
両手を上げる力も残っていなかった。


「ふとん・・・・・・布団に入っていい?」
僕の口がそう動いた。
「うん。」
闇のなかに静かに響く。
布団を上にのけて、レイのベッドに入る。
二人の肩は、どうしようもなくぶつかった。
白いシーツにしわが入り、小さなベッドはきしっと揺れる。

「手、つないでいい?」
「ええ。」
布団のなかで左手を探しだして、小さくて冷たいそれを上からぎゅっと握る。
親指と人差し指の間に僕の親指を入れ、手のひらをやわらかく触れ合わせる。
こするようにして指どうしを重ねあわせてから、少しずらして指の間をそっと
開かせる。
そこからゆっくりと側面をすべらせるように絡めあわせ、指の股を
触れ合わせ、力強く指を小さい手の甲にうずめる。
一度、指の股を浮かせてから、もう一度しっかり重ねてやわらかくて冷たい
手のひらを僕のなかにたくさん含ませる。
彼女も僕の手の甲に、ひっそりと指を乗せ、きつく握りあった。


「ずっと前からこうしていれば、私達、もっと幸せだったかもね。」

「・・・・・・・・・・ごめん・・・・・・・・・・・・・・・・・・僕が弱虫だったからだな。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・そうだよ。」










僕はレイのことを愛しいと思う。

白く揺れる彼女の微笑み、ほんのり染まる赤い頬。

冷たいようで暖かい彼女の眼差し。

不機嫌なときにさり気なく見せるつりあがった眉毛。

ワンピースを来て「似合う?」と尋ねたときの仕草。

ミャオに顔を舐められたときの、くすぐったい表情。

高台の上で透き通るような空を見上げたときの横顔。




その全てを宝箱に入れて取っておきたかった。

大事に・・・・大事に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。












レイは目蓋を閉じ、


二度と開けることはなかった。














「レイ・・・・・・・・綾波レイが死にました。」
「秋田県東上雫町6−16−2です。」
「帰りませんよ、父さんは僕をエヴァのパイロットとして必要なんでしょ?
 そして、ミサトさんも殺したんでしょ?僕が帰る理由なんてありませんよ。」
「どうぞ、ご勝手に。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・それじゃあ、さようなら。」


午前8時5分。
哀愁の漂う無人駅から、乾いた空気の中、発射を知らせる合図が鳴り響く。
うす汚れた8畳の部屋。
締め切ったカーテンの隙間から、斜めに光が差し込む。
僕のまわりはいつのまにか朝になっていたようだった。
それは、あまりにも突然のようで、何の変哲もないこと。
僕が何を考え、何をしてても、朝も来るし、夜も来る。
自然界の法則なのだからしょうがないことなのかもしれないけど、
そんな一日に小さな淋しさを感じる。

僕はベッドの横に置いてある椅子に腰掛けていた。
左手の中には、青い色をした石があり、それをころころと回していた。
目の前には、顔に白いナフキンをかけられたレイが横たわっていた。
もちろんそれをかけたのは僕だ。
ただ、TVを見て得た知識。
死んだ人には、白い布を掛ける。
僕もそれをやってみただけ、たいした意味はない。


セミは成虫になっても一週間くらいしか生きられないらしい。
何年も地中で過ごしてきたのに、空を見れるのはたった数日間だそうだ。
彼らはその時間を長いと感じるのだろうか、それとも・・・・・・。
僕だったら、きっと短いと感じるだろう。
まばたきする時のように、一瞬で終わってしまうかもしれない。

本当に、一瞬の出来事だった。
レイが死んだのは。
無言のうちに動かなくなったレイ。
何も言わず、ただ、ひっそりと。
人の死。
大好きな人、レイの死。
死ぬということは悲しみと直結していると思っていた。
それなのに、僕は淋しくないし、悲しくもない。
あふれる感情がどっとあふれだしてこない。
こんな時は、様々な気持ちが雪崩のように押し寄せると思っていた。
やるせない気分でいっぱいになり、床を何度も叩いたり、じゅうたんを
かきむしったりすると思ってた。
それなのに、あんなに好きだったレイが死んでしまっても涙さえでない。
大好きだったのに、一番大事な人だったのに。
涙が、一滴もでなかった。



僕は白い布を、そっとめくり上げる。

彼女はとても綺麗だった。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

もう昼になったのだろうか。
部屋は締め切ってあったから外の様子がうかがえない。
ふちの赤い時計を見上げると、11時を指していた。

僕は荷造りを急いでいる。

正直にいって、ネルフにレイを渡したくない。
彼女のことを丁寧に葬るってくれるとは思えなかった。
だけど、僕にはもう何もできない。
僕は子供だった。
彼女が冷たくなってから、そのことを思い知らされた。
レイのことはネルフに任せるしかなかった。

着替えや小量のお金、キャットフード、そして石ころ。
そんなものを小さなスポーツバッグに入れる。
早くしないと、ネルフがやってくるというのはわかっていたけど、
何もする気力のない僕は、その中に必要、不必要関係なく
放りこんでいた。

僕はこの田舎町を離れる。
それは決意のようだけど、ただのなりゆきでしかなかった。


一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一


身仕度がすむと、ベッドの下のノートワープロに気が付く。
その上に重なるように、2つのフロッピーディスクが置いてあった。
僕は手を止めてそれを引っ張りだす。
ほこりを退けてから電源を入れ、ひとつのフロッピーを入れる。
カシュッという音。
キーを押す。
ディスプレーに文字が写る。

そこには彼女の書きかけの小説が写っていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・忘れていた。
僕はその小説を読み進めてゆく。

内容は、大体こうゆうものだった。
主人公のユウコは失われた季節を取り戻すため、異世界を旅する。
そのなかで、一人のケンイチという少年に出会い、行動をともにする。
大まかに言うとこういうとこういう簡単なものだけど、
季節の描写がすごく丁寧に書かれてたり、ケンイチとの切ない恋の話や
他の登場人物との駆け引きにはぐっと引かれるものがある。
春と夏と秋の世界については書かれていたけど、
冬の世界は、まだ途中なのだろうか、何も手を付けられていなかった。

レイは何を心に秘めて、こんな話を書いたんだろう。
僕はそう思い、最後のOUTLINEと書かれた所を読む。
そこには、最初からの詳しい進行表というのだろうか、いわゆるあらすじが
書かれていた。
ふと最後のほうに目をやると、秋の世界の後の冬の世界の話が載っていた。


60,吹雪のなか、雪の紋章を見付けるケンイチ。
61,ユウコは雪の紋章を季節の間の穴に差し込み、冬の世界を取り戻す。
62,全てを終わらせユウコは現世の扉に向かう。
63,ユウコは一緒に帰ろうというが、ケンイチは今の世界を離れることが 
  できないと言う。
64,ケンイチは自分のことはいいから、前の世界に戻れという。
65,ユウコは最後に季節を取ることにした。
66,ユウコはケンイチにもらったペンダントを握り締め、泣きながら
  戻っていった。
67,
68,
69,
70,



あらすじはこれで終わっていた。
ユウコは・・・・・・・・・・やっぱり、レイなのだろうか。
じゃあ、ケンイチは・・・・・僕なのかもしれない。
レイは何をしてほしかったんだろう。
そして、最後に何を言いたかったのだろう。
この小説から彼女の気持ちを読み取ろうとして、僕は必死になって
何度も読み通す。
だけど、僕の馬鹿な頭じゃ、何もわからなかった。


僕はもう一枚のフロッピーを取り出して、ワープロに差し込む。
これは・・・・・・・・・・・・・・・・僕への手紙だった。










『シンジ君へ・・・・・・・・・。
 

 ごめんなさい。
 私はシンジ君が新聞配達に行っている間、よく窓を開けていました。
 こんな私のため、一生懸命汗を流して働いてくれているのに、
 私は暖かい空気を部屋に送り込み、冷房代を余分に浪費していました。
 だけど、窓を開けサッシを滑らせると、強い風が吹いてきます。
 私は温度差が巻きおこす、このなまぬるい風を感じるのが好きになって
 しまいました。
 暑さは不思議と感じません。
 なぜなら、最初に緑の匂いを感じるから。
 田舎町の緑の匂い。動きだした後、陽炎のように残る虫の匂い。
 私はその匂いを混乱しながらゆっくりと受け止めて、自然に何も
 感じなって行きます。
 そして最後に暑さだけを感じ、窓を閉めるのです。

 私はここでの生活で、そんな密やかなことを好きになってしまいました。
 それは楽しみや習慣じゃなくて、生きる要因だったのかもしれない。
 今はそう思っています。
 私が生きるためには理由が必要なのです。
 その理由が労力を生み出し、それが次の日に私の目蓋を開けさせる
 切っ掛けとなるのです。

 シンジ君が私をここに連れて来たときに、私は存在を奪われるような
 恐怖を感じました。
 私が“そこにいていい”理由は、エヴァンゲリオンに乗ることだけ、
 いいえ、私はエヴァンゲリオンに乗るためだけの存在だったのです。
 否定はしなくていいの、本当のことだから。
 そしてこの片田舎に来て、私の存在理由はなくなったのです。
 私にとってそれは一番恐ろしいことで、消えてしまうに十分の価値でした。
 だから、ここを離れネルフに戻ることを考えました。
 それが死につながっているとしても、私は・・・・・・それにすがるしかないもの。
 でも、私はここに残りました。
 引っ掛かっていたのです・・・・・・・・・シンジ君のことが。
 あなたは私をたいへん動揺させ、混乱させる人だった。
 私が心にはっていた防壁はいとも簡単に破られ、心はひっかき回された。
 一つ一つの言葉や、笑顔を見るだけで、今まで感じたこともない
 不思議な気分になってしまった。
 それは苦しかったけど、なぜかうれしかった。
 いますぐに何かしたくなって、動きだしたくなる。
 動かない体を引きずって、ベッドから飛び起きたくなる。
 気持ちが揺らめいて、自分でも止められなくなる。
 どうしてそうなるのかはよくわからないけど。

 最後に、ひとつだけ言わなくてはいけないことがあります。
 シンジ君は今、希青石はやっぱりただの伝説だったと思っているの
 かもしれないけど、それは違います。
 だって、私がもうすでに願い事をしてしまったから。
 私は自分が心臓病にかかっているのも知っていたし、
 シンジ君がそれを直すために希青石を使おうと考えていたのも
 知っていました。ごめんなさい。
 でも、それだけはしてはいけないのです。
 私がほたる山であの石に触れたとき、頭の中に記憶が入り込んできました。
 それは暖かい青で彩られた不思議な風で、生暖かったけどすがすがしくて
 神聖なものでした。
 それが記憶といえるのかどうかはわからないけど、見えるというより
 感じるというものかもしれません。
 だから、確信はないの、ぼやっとわかるだけだから。
 でも、わかったことが一つだけあります。
 ほたる山に入ったお姫さまのこと覚えていますか。
 彼女は決してわがままなんかじゃなかったの。
 きっと、私と同じで不治の病なんだと思う。
 それを見兼ねた付き添いの若い僧侶が、山に入ることを誘ったんだと思う。
 二人はきっと・・・・・・・・・・・・想い会っていたから。
 そして僧侶が希青石を手に入れて、願い事を言おうとしたとき、
 お姫さまは止めたんだと思うの。

 ・・・・・・・・・・。
 シンジ君。
 私は汚れています。
 私の心の中を覗いた人は、きっと目をそむけると思う。
 それぐらい、汚い存在なんです。
 こんな私が、自分の欲のために願い事なんてできない。
 私みたいな不潔な存在がそんなことをしてはだめなの。


 お姫さまは、きっと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私達が普段感じないこと
 次の日にまた太陽が昇ること
 たまには雨が降ること
 ときどき空が曇ること
 やさしい風が吹くこと
 夕焼けの色が空一面に広がること
 そんな日常がいつまでも
 なくなったりしませんように
 と、願ったんだと思う

 だから、私も・・・・・・・・・・・似たような事をお願いしました




 シンジ君。
 私は、シンジ君のことを
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・想っています。

 ごめんなさい、私にはこれで精一杯なの。
 他にも知っている台詞はいくらでもある。
 だけど、私はその言葉を、どういう風に使うのかがわからない。
 使うのがいまなのはわかるけど、言ってしまうのが少し恐いの。

 私の気持ちは、シンジ君に届いたのでしょうか。


 シンジ君・・・・・・・・・・・・・・・・ここにいるとき、私は綾波レイじゃなかった

 でも、私は好きだった。ここにいる時、初めて自分のことを好きになった

 楽しかった、暖かかった、本当に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 ありがとう

                            綾波 レイ 』


一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一



僕は綾波レイのことが好きだった。

 一勝手なことしないで
 一で、でも、綾波は殺されるかもしれないんだよ、それをわかっていて
  ネルフに帰すわけにはいかないよ
 一どうしてあなたに、そんなことを言う権利があるの?
 一な、無いかもしれないけど、絶対に駄目だよ死ににいくなんて


ずっと仲良く、一緒に歩んで行けると思っていた。

 一どけて
 一どけない。綾波がどうしようと勝手なのかもしれないけど、
  その傷で外に出ることは絶対させない
 一偽善ね

だけど、僕の目の前から消えてしまった。

 一綾波、本当にごめん
 一私は、碇司令にもネルフにも、もう必要とされてない
  死ぬことなら一人でも出来るけど、
  これから生きて行くなら、碇君なしじゃ生きていけないのかもしれない

あんなに、想いあった二人なのに。

 一料理?
 一うん
 一私料理とかほとんど出来ないけど、碇君が手伝ってくれるなら・・・・・・・・・


僕は二人の思い出を忘れたくない。

 一レイ、僕達はまだ一緒に住んでそんなにたってないけど、
  何でも話してほしいんだ
 一ごめんなさい、少し不安になっただけなの

でも、大人になるにしたがって。

 一夜に二人きりで話し合うのって初めてだけど
  ・・・・・・・・・・・・不思議な気分になるね
  なんだか、レイと一緒になったような気がする

どんどん、忘れて行くのだろう。
 
 一お願い
 一うん、一緒に行こう

だけど、こんなに大事な思い出を忘れたくないから。


 一ううん、いいんだ。レイの気持ちもわかるから。でも、僕のこともっと
  頼っていいよ。だって、僕達はもうただの友達同志じゃないんだから
 一うん、私たち、もう、友達だけの関係じゃないのかもしれない

僕とレイの全てを記録しておこう。

 一夢みたいだよ
 一何が?
 一ほたる山のこと、あと、それに、僕達の生活も
 一わたしたちの生活って?
 一夢みたいじゃない?
 一うん、夢みたいね

タイトルには。

 一うん、じゃあ『記憶のノート』っていうタイトルはどう?

記憶のノートとつづって。



一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一


ワイシャツの胸ポケットに2枚のフロッピーディスクを入れてから、
レイの死体を振り返らず、ドアのノブに手をかける。


僕はネルフには戻らない。
だって・・・・・・・・・・・・・・・・・・
卑怯で・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ずるくて・・・・・・・・・・・・・・・・・・
情けなくて・・・・・・・・・・・・・・・・・・
卑劣で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最低な僕は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は・・・・・・・
きっと・・・・・・・・
ネルフに戻ったら



そこにいるもう一人のレイのことも、きっと、好きになってしまうから





「行こうか、ミャオ。」

ドアをゆっくり開ける。





僕はスポーツバッグを・・・・・・・・・・・・落とす。

両膝は体を支えきれずに、がっくりと崩れ落ちる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・目の前に広がる景色を見渡す。

あんなにでなかった涙が、

涙が・・・・・・・・・・あふれてくる。

止まらない、涙が止まらない。

涙が、涙が、涙が止まらない。

涙が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・止まらないよ。

悲しい・・・・・・・・・・・・淋しいよ、つらいよ。

僕は悲しくて、悲しくて、悲しくて、

コンクリートの地面を叩きつけながら、

彼女の名前を何度も何度も叫び続けていた。










むっと、むせ返るような暑さの田舎町


そこに


空から


しんしんと


きらきら光った


真っ白な雪が


降り積もっているのを


見たとき


僕の涙は


もう


止まらなくなっていた







<終わり>


 

 

 

 


後書き


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