記憶のノート (2)





「で、でも、綾波は殺されるかもしれないんだよ。それをわかっていて、
 ネルフに帰すわけにはいかないよ。」
「どうしてあなたに、そんなことを言う権利があるの?」
「な、無いかもしれないけど、絶対に駄目だよ死ににいくなんて。」
「そう、電話がないなら外でかけるわ。」
と言うと、綾波は壁につかまって立ち上がろうとする。
「だ、駄目だよ、そんな体じゃ歩くことも出来ないよ。」
「どけて。」
「どけない。綾波がどうしようと勝手なのかもしれないけど、
 その傷で外に出ることは絶対させない。」
「偽善ね。」


僕達の顔を沈みかけの夕日が横から照らしている。
茜色に染まった部屋を沈黙が包みこむ。
僕に綾波を止める権利はあるのだろうか。
彼女にこんなことを言う権利があるのだろうか。
力尽くで監禁する権利はあるのだろうか。

綾波の僕を睨み付ける顔と、偽善という響きは、今までのどんな言葉よりも鋭く、
痛かった。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

朝が来た。
重苦しい朝。
黒い雲が空を覆い尽くしている。
僕の気持ちみたいだ。

あの後、綾波は僕の言うことを聞いて、ベッドに入ってくれた。           
電話がないのは本当だし、こんな田舎じゃすぐにネルフは来てくれないだろう。
そういう事もあって、僕の言うことを聞いてくれたのかもしれない。
しかし、その後は僕に背を向けたまま何も話そうとはしなかった。

午前8時。
いつものように西側の窓を開ける。
傘を抱えたいつもの人達が、いつもの駅に向かって歩いて行く。

僕は眠い目をこすりながら、ベッドに横になっている綾波を見つめる。
綾波はきっと僕のことを軽蔑しているだろう。
僕に腹を立てているだろう。
しょうがないよな。あんなひどい事言ったんだから。
まだ眠ってる綾波を起こさないように、静かに押し入れのふすまを開け、
自分の布団をその中にいれる。
「せめて、おいしい朝食でも作っておこう。」
そう思った僕は、小さくて、少し汚れた白の冷蔵庫に手を掛ける。
食パンと玉子はあるけど、野菜がない。
綾波って目玉焼きとか食べるのかな?
確か肉類が嫌いだってのは知ってるけど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・うーん、やめておこう。
でも、サラダぐらいはあった方がいいよな。
どうしよう、近くの商店に野菜売ってたよな。
買いにいこうかな?
綾波もまだ眠ってるよな。
よし、買いにいこう。
台所の横にある鏡を見て、髪の毛に指を通す。
そして、玄関にたてかけてあった傘を取り、鍵をかけて走る。
雨はしとしとと降って来ていた。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

三日前に買っておいたビニールの透明傘。
ピタピタとそこにくっつく雫は、なかなか下に落ちていこうとしない。
真っ暗な空は僕のうえに流れこんでいるような気がする。
左の水田から蛙の泣き声がうるさいぐらいに聞こえてくるが、
野菜の入ったビニールの袋からは、ほとんど音が出てこなかった。
ふと、僕のいまいる場所がわからなくなる。
まわりを見渡すと、透明の傘ごしに水田と瓦屋根の民家が見える。
誰もいない、人間がいない、僕だけだった。
自分のいる場所、自分のしなくちゃいけないこと、自分の気持ち。
僕は考えながら、家と呼ぶようになったアパートに向かって歩いて行く。

ミサトさん、綾波は僕を必要としてはいなかった。
家に帰っても一人ぼっちなんだ。
僕が呼び掛けても返事をしてくれない。
恐いんだ。
また、あの冷たい目で睨まれるかと思うと・・・・・・・・・・・・・・・。
綾波が恐いんだ。

僕の足はアパートの手前で止まった。

暗い雲を映している水溜まり。
水溜まりに落ちる雨の音。
地面から上がる水蒸気。
雨のにおい。
傘にうるさくあたる雨の音。
何も動かない田舎町。
夏のにおい。
重苦しい山々。
蛙の鳴声。
薄暗い水田。
田舎のにおい。

包帯だらけの少女は、雨の中をはって進む。
僕を恐れるように。

僕は傘を落とす、野菜の入ったビニール袋も落とす。
膝が全身を支えきれず、崩れ落ちる。
僕はあふれ出る涙を抑えることは出来なかった。
悲しくて、くやしくて、情けなかった。
涙ですべて流してほしい。
僕の涙が渇ききったときには、全てのことが終わってて、
真っ白であってほしかった。

父さん、ミサトさん、母さん。
つらいよ、つらいよ・・・・・・・・・・・・・・・・つらいよ。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一


僕は綾波を家のなかに入れた。
最初は抵抗したが、アパートの2階から、鉄の階段をはって逃げてきた
傷だらけの彼女に、ほとんど力は残っていなかった。
綾波を家に向かって引きずっている時も、僕の涙が止まることはなかった。

綾波をベッドに横たわらせると、僕はしばし膝をついて泣いた。
涙を拭う手も袖も濡れていた。
それが、雨のせいなのか、涙のせいなのかはわからないけど。

涙はくしゃみとともに止まった。
雨にずっとあたっていたせいか、体がとても冷えている。
僕はミサトさんが買った、変装用の衣装に着替えることにした。
着替えてから、食器棚に入れてあるバスタオルを取り出し頭をふく。
さっきから恐くて綾波の方を見れないでいた僕は、勇気をだして言った。
「あ、綾波・・・・・・・・・・体、拭いた方がいいと思うよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
相変わらず返事はない。
「返事をしたくないのはわかるけど、このままじゃあ、風邪ひくしさ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「あ、綾波?」
振り向くと、彼女の体は小刻みに震えている。
「だ、大丈夫?」
乗り出して顔をのぞき見ると、綾波の唇は真っ青だった。
ためらいなく、額に手をそえる。
「・・・・・・・・ひどい熱だ。」
雨にあたりすぎたためだろうか?
苦しそうに顔をゆがめ、重苦しく息を吐き出している。
「綾波、綾波。」
肩を少し揺らしてみると、うっすらと自分の手が濡れる。
「とにかく、洋服を乾かさなきゃ。」
僕の頭の上にかかっていたバスタオルを、綾波の頭にかぶせ上から優しく拭き取る。
それから、顔に付いた水滴をふく。唇をふいた時にバスタオルが少し熱くなる。
少しでも力をいれると、綾波の首が折れてしまいそうで恐かった。
「綾波、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・僕が悪いんだよな。」
眼帯と頭に撒いてある包帯を取って、傷口を触らないようにふく。
右目蓋の腫れはほとんど引いていたし、頭部を縫合していた部分の傷も
ほとんどわからなくなっている。
傷の手当ては中央病院でほとんど終わっていたようだが、
包帯の中から出てくる傷を見るたびに、僕の胸は締め付けられる。
「綾波が自爆したのは、僕を救けるためだとずっと思ってた。」
横向きになっていた体を、仰向けにして、
ベストを取り、ブラウスのボタンに手を掛ける。
一つ一つボタンを外していくと、その下にはミサトさんが巻いた包帯が綾波の
曲線を綺麗に表していた。
ブラウスのボタンを全部取りおわると、ゆっくり体の下を通して引っ張りだす。
「でも、本当はただ使徒を殲滅したかっただけなんだよね。」
両腕の包帯を取る。
中から傷だらけの白い肌が表れる。
また、それに触れないように、優しく水滴を拭き取る。
「それなのに勝手に誤解して、自分のために自爆したんだって思い込んじゃって。」
お腹の包帯を取りのぞく。ここの部分はそれほど傷がついてはいなかった。
そして、きつそうに巻いてある胸の部分の包帯を取りのぞく。
2つのふくらみは、包帯がなくなると力なく左右に別れる。
僕は今までと変わりなく、右の胸の傷にあまり触れないように優しく拭いた。
綾波の表情はどんどん苦しそうになる。
「それで、救けなきゃ、今度は僕が綾波を救けなきゃって勝手に思って。
 勝手にここまで連れてきて。」
首と肩口を拭いてから、今度は左足首の包帯を取る。
膝が見えた所で、一回ゆっくりと拭く。
「勝手にみんなとの絆を、僕が断ち切っちゃって。」
右膝の包帯を取る。ここはやはり、まだ抜糸が終わっていなかった。
そして、腰までの包帯を取ってから、左膝までの包帯を取る。
ここにも至る所に、小さい傷跡があった。
傷の場所を見定めながら、少し湿っている肌を丹念に拭く。
「そうなんだよね、綾波は僕よりもっと、ネルフと父さんとエヴァの中で       
 生活してたんだよね。」
全裸の綾波の腰と肩を優しく持って、ベッドの上で仰向けからうつぶせにする。
お尻から下の方に向かって、また水滴を拭き取ってゆく。
「綾波はずっと父さんやネルフの言うことを聞いて生きてきたんだよね。」
背中には大きい傷があった。
縫合はしてあったが、まだ生々しくはっきりと残っている。
その小さい背中についた水滴をまた拭き取りはじめた。
「それといきなり離されたら誰だって不安になるよね。
 でも、僕もそうなんだ。綾波も自分のやらなきゃいけないことがなくなった
 のかもしれないけど、僕ももうエヴァに乗ることがなくなったんだ。」
首の後ろを拭きおわったあと、足首の方から新しい包帯を巻きはじめる。
ふくらはぎの所にあった傷に消毒液とガーゼを付けた。
綾波の顔が一瞬歪んだのに僕は気付かない。
「本当は僕もネルフにいたかった。だって、僕を必要としてくれるのはあそこだけ
 だったから。でも、綾波が殺されるのを黙って見ているのは嫌だった。」
傷に消毒液とガーゼを付けるために、何度も綾波を引っ繰り返す。
その時に、僕の両手は綾波の色々な部分をつかんだりした。
「命令だからって、自分から死ににいくなんてことしないでよ。」
お腹の辺りまで、包帯を巻きおわる。
背中の大きい傷は軽く消毒液をかけるだけにした。
「僕は綾波に死んでほしくないんだ。いなくなってほしくないんだ。」
胸の部分はあまり苦しくならないよう緩めにしめる。
白い包帯は、僕の涙で歪んで見えてくる。
「お願いだから、綾波死なないでよ、綾波までが死んだら僕は、僕は・・・・・・・・。」
持っていた包帯をはなし、
僕は顔を両手で埋めて、大声で泣き叫びたかった。
ミサトさんがいなくなった今、綾波までがいなくなることを考えると
恐くて恐くてたまらなかった。
けど、僕は出てくる涙と鼻水を綾波にかからないように袖で拭いながら、
最後まで包帯を巻き続けた。

 

 


 




目の前は真っ暗だが、雀の鳴声が聞こえる。
そうだ、朝が来たんだ。
いつものように、絶望だけの一日が始まろうとしている。
僕はもう少しの間、目を閉じていたかった。
だって、目を開ければそこに僕の現実があるから。
つらいだけの現実が。
でも、次第に意識がはっきりしてくると自分の体勢がおかしいのに気付く。
ゆっくりと目を開けると、また彼女のベッドに突っ伏して寝ていたようだ。
そう、昨日は綾波を看病しながら眠ってしまったらしい。
僕は眩しさに目を細めながら、彼女の顔をのぞき見ようとする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


また、ベッドに顔を埋め、両腕で自分の頭を囲う。
心の中がからっぽになったような気がする。
ゆっくりと僕の頬に涙がつたってくるのがわかる。

・・・・・・僕の目の前に、もう綾波はいなかった。

「綾波が決めたことだもん、もう追わないよ。・・・・・・・・・・・・・追わない。
 僕が勝手にやったことなんだよね。僕が自分勝手だったんだよね。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 でも、・・・・・・・・・・うっ、くっ・・・・・・・・・・・・・・・・。
 僕は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・僕は・・・・・・・・・・・・・・・・もう・・・・・・・・・・・・。」
僕は大声をだして泣いた。自分が情けなかったから。
周りには誰もいなかったので、気兼ねはしなかった。
その時、トイレの方から水の流れる音がする。
そこのドアが空くと、把手に必死にしがみついている綾波がいた。
「あ、綾波。」
彼女は僕達が前に買っておいた車椅子にやっとの思いで座ると、
その車輪の部分を不慣れな手つきで押しはじめる。
ベッドの横まで来ると、僕のぐちゃぐちゃになった顔を覗き込んでいった。
「どうして泣いてるの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・綾波に・・・・・・・・・・・死んでほしくないんだよ。」
言ってる間も涙は次々に落ちてくる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
綾波は今だに泣き止まない僕に困惑しているようだった。
「碇君?」
「碇君どうしたの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・碇君。」
という声が聞こえてきても、僕は涙を止めることが出来ない。
彼女の表情はよく見えなかったけど、困惑よりも悲しみを表している
ような感じがした。
やがて僕は泣き止み、しばしの間静かな沈黙が流れる。
僕の鼻水をすする音と、近くの無人駅に列車の来る音が聞こえてくる。
たくさんの人が一両編成の列車に流れこんで行く。
僕は西の窓から見えるこの光景を見ながら言った。
「綾波、僕よりも前に起きてたんでしょ。なんで逃げなかったの?」
汽笛は、遠い山々にこだまするように、消えてなくなっていった。
「わからない。」
「わからないって。」
僕は視線を綾波の不安そうな瞳に移す。
「碇君がどうして私をここまで連れてきたのかも、
 どうして私に死んでほしくないって言うのかも、
 どうして昨日みたいに親切にしてくれるのかも。みんなわからない。」
僕がいままで聞いたこともない口調で話す彼女には、切なげな美しさがあった。
一瞬に命をかける可憐な花のように。

僕はその美しさに引かれて、心にあるものを全て打ち明けてしまいたいと思う。
彼女の瞳には僕をそうさせるきっかけがあった。
僕の心にかけていた鍵は、自然に、ゆっくりと外された。

「綾波に死んでほしくなかったんだ。救けたかったんだ。
 綾波が僕のために死んだと思ってたから。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・僕は綾波が好きだったんだ。」

彼女は驚いたように顔を上げる。

「でも、・・・・・・・・・・・・・・・・・・でも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 僕は綾波よりミサトさんに死んでほしくなかった。
 ミサトさんが死ぬなんてわかっていたら、僕は綾波を救けたりしない。
 僕は綾波を救けなければよかったと思った。
 だって、僕は、綾波よりミサトさんの方が好きだったから。」
僕の涙は、またあふれるように落ちてくる。
涙のおかげで、綾波の顔はゆがんでいてよく見えなかった。
「軽蔑するよね、怒りたくなるよね。
 でも、僕は、僕は、綾波が必要なんだ。
 ミサトさんがいなくなって、綾波までいなくなるなんて嫌なんだ。
 もう、一人ぼっちは嫌なんだ。
 都合がいいのはわかってる。
 でも、もう一人にしないでよ、見捨てないでよ、どこにも行かないでよ。」

心にしまっていたことを・・・・・・・・全部話した。

自分でもわかっている。
僕は最低だ。
もう、見離された。


自分のという存在を消しさりたかった。

とても、とても悲しくなって、

僕は泣いた。


一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

しばらくして、ベッドのきしむ音が聞こえる。
綾波が僕の目の前で横になるのがわかった。
「碇君は、私が必要なの?」
と彼女は首の辺りまで布団を持ち上げた。
涙でぐちゃぐちゃの僕は顔を上げて、ガラス玉のような赤い瞳に見入る。
彼女は、僕の顔を見つめていた。
「うん。」
僕はゆっくりうなずく。
「そう。」
言いおわると、彼女は少し汚れた天井を黙って見つめていた。
僕は涙を拭う。
「綾波、本当にごめん。」
僕は心底そう思って、彼女の前で頭を下げたが、
彼女はただボーッと天井の遥か上にある何かを見ているようだった。

「私は、碇司令にもネルフにも、もう必要とされてない。
 死ぬことなら一人でも出来るけど、
 これから生きて行くなら、碇君なしじゃ生きていけないのかもしれない。」

と言った後、彼女の右目から耳の方に向かって、
一筋の光る涙が流れるのを
僕は見た。


そうだ、綾波は僕よりも、父さんやネルフが必要だったんだ。
僕はそんな彼女の気持ちも理解しようとしないで、自分のためだけに
彼女を引き止めようとしていた。

僕はバカだ。

僕は・・・・・・・・・僕は・・・・・・・・・・・。

涙がでそうになるけど、僕は堪えた。
僕は泣いてはいけないんだ。
僕は、体も心も傷だらけの綾波を救けなきゃいけない。
少なくとも今、綾波は生きることを希望してるんだから。
僕を必要としているんだから。
僕は彼女を裏切っちゃいけないんだ。

綾波は涙を手で拭い、それを自分の目の前に持ってくる。
泣いている自分に、彼女は驚きを隠せないようだった。

「あ、綾波。ご飯まだだったよね。
 お決まりの朝食メニューでよかったら作るけど。」
と僕は立ち上がり、なるべく明るく声をかける。

「泣いてる。」
それは、小さく、悲しい声だった。

「綾波?」
「また、泣いてる。」
手に付いた水滴を彼女はじっと見つめた。
「わたし・・・・・・・・かなしいの?」
やがて、彼女はその手を布団の中にいれ、窓の外を見つめた。

正直に涙を流すとき、人はやっと人になるのかもしれない。
それは罪や悲しさやつらさ、淋しさを自分や他人に認めなくちゃいけないため
だけじゃなく、言葉では言い表わせないものを感情で表現しなくちゃいけないから。
子供なら簡単に出来ることなのかもしれないけど、涙を流さないことで抵抗してきた
僕や綾波にとって、それは本当に大変なことなのだから。

「綾波。」
きっと無理だろう。
綾波が父さんのことを忘れるなんて。
生きる糧も、希望も失った彼女はきっとまた涙を流すだろう。
そして、弱い自分を悟られないように、強がって見せるに違いない。


僕達はそういう泥沼に、もう足を入れてしまっているんだから。



「綾波・・・・・ご飯どうする?」
「ごめんなさい。」
「うん、じゃあ、ちょっと待ってて。今すぐやるから。」
と言って遅すぎる朝食を作りはじめる僕。
野菜を切っているとき、僕はさっき言った台詞を思い出した。

ふと、綾波の方をふりかえる。
彼女は僕の方を見ていた。
なにか、くすぐったいような、恥ずかしいような、気がして僕はまたまな板に
目を移す。

トマトを切っているときに思った。
僕がミサトさんを好きだと思う気持ちと、
綾波を好きだと思う気持ちは、少し違っているかもしれない。

まな板の音をトントンとならしているうちに、僕の中で何かが
激しく動きだすような、そんな気がした。






六日目の朝が来た。
イヤホンから僕の好きな曲が流れている。
僕は綾波と自分の朝食を作っていた。
昨日はパンだったけど、今日はご飯にすることに決めた。
根拠はないけど綾波は朝はご飯派のような気がする。
あくまでも推測だけど。
雰囲気だろうか?
そういえば父さんも朝はご飯だったな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
まあ、いいや。
それより綾波は魚を食べてくれるだろうか。
普通肉も玉子もだめなら魚もダメなのかもしれないけど。
でも、それじゃあおかずは今日から野菜だけになってしまう。
そんな食生活じゃ、傷だって治らないし力だってつかない。
僕はそう思って、結局コンロで秋刀魚を焼いてしまった。
大根をすり終わった時、後を振り向くと綾波はすでに起きていて、南の窓の外を
見つめていた。
「あ、綾波。起きてたんだ。」
「ええ。」
と、彼女は首だけ曲げて言った。
まだ、体を起こすのはつらそうだ。
「朝ご飯食べよう。」
「ええ。」
と、かすれたような声を出す綾波。
「あ、だめだよ、僕が手伝う。」
起き上がろうとした彼女を僕は静止させる。
まだ一人で起きるのは無理だ。
傷跡のない、両脇を持ち上げて、ゆっくりと起こす。
一瞬苦痛に顔を歪めたので、
「痛かった?」
と聞くと、
「大丈夫。」
と彼女はそっけなく言った。
ベッドに取り付けてあった、移動式のテーブルを彼女の胸の前まで持ってくる。
「はい。」
と言って、テーブルのうえに茶わんとお碗とお箸を乗せる。
「綾波って玉子だめだったよね。」
「うん。」
「じゃあ、魚とかは?」
僕は恐る恐る綾波の顔を覗き込んだ。
「魚は大丈夫。」
「本当?よかった。秋刀魚焼いたんだ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
綾波はまた窓の外を見ている。
とても淋しそうに。
その時、強い衝撃が胸を打った。
わかったんだ。
彼女が僕に対して心を開いてはいないことを。
僕はどうあがいても、碇ゲンドウにはなれず、碇シンジのままだということを。
生きてきた道が違う。進んできた道が違う。
僕達には溝があるのかもしれない。
簡単には埋められない大きな溝が。
じゃあ、どうすればいいのだろう。
時間をかけてゆっくりと癒していけばいいのだろうか?       
いや、もしかしたら、僕は綾波の気持ちを
理解は出来ないのかもしれない。
永遠に。
浮き足立っていた僕の心は、いとも簡単に崩されて、瓦礫のなかに
ひっそりと沈んだ。
「秋刀魚は僕が食べるよ。」
彼女は僕の方を振り返らず、
「ごめんなさい。」
と言った。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

午前中は綾波のために時間を費やした。
傷の痛みが激しいのもあったけど、どうやらまだ昨日の風邪を引きずって
いるらしく、「はぁ、はぁ」と荒い息を吐き出している。
案の定、額に手をのせてみるとほのかに熱い。
自分からつらいとか苦しいとか言わないだけに、僕は不安でしかたがなかった。

「別に大丈夫。」
と言う時が一番彼女にとって大丈夫じゃない時だということを
僕は理解しなければいけない。
とりあえず、僕は綾波の額に濡れたタオルを置く。
「綾波、つらいときはつらいって言ってよ。」
こくっとうなずく。
声を出すのがつらいのだろうか。
「綾波、包帯とガーゼ取り替えたいんだけど。」
と言ってから、
「あ、大丈夫。そんな変な所やらないから。
 腕の部分とか頭の部分とか。」
と言いなおす。
「うん。」
つらそうな声で答える綾波。
布団をめくり上げてまでやることはないな。
と思ったから、さっき言った通り腕と頭の部分にそっと手を延ばす。
ゆっくりと額の上にかかっていた包帯を取りのぞき、
ガーゼをはがすとそこには傷といえる傷はなかった。
それに、左目の腫れもほとんど引いていたから、もう包帯を巻く必要は
ないと思った。
左腕を布団のなかから探しだし、引っ張りだす。
手のひらは僕よりも少し熱かった。
二の腕あたり、つまり、ブラウスの袖あたりまでの包帯をはずす。
ここも包帯を巻くほどの傷は残っていなかった。
肘の内側にあった傷に消毒液をかけ、
そこにガーゼを乗せテープをはる。
もうこのくらいでいいだろう。
右腕の方の手当ても、わざわざベッドをずらして窓との間にスペースを
作ってから、回りこんでやることもないと思うし。
「今日はこのくらいにしておくよ。」
と言って、額に濡れたタオルを置く。
寝てたかなと思ったけど、
「ありがとう。」
と綾波は目をつぶったまま言った。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 


「君、見かけないけどよく来るね。」
いきなり話し掛けられたので、正直ぎくりとした。
ゆっくり振り返ると、車のナンバープレートを付けてあるような帽子と、
紺色のエプロンに上はポロシャツ下はジーパン姿のおじさんが話し掛けてきた。
「あ、僕は、その、最近引っ越してきて・・・・・・買物に。」
つい本当のことを言ってしまった。
この人の良さそうなおじさんでも、ネルフの職員かも?と疑ってかからな
ければならないのに。
「へぇ、そうか、最近じゃここもベッドタウンにするとかなんとか
 言われてたからなあ。君のお父さんも随分とすごい決断をしたもんだね。
 ご家族は反対しなかった?こんな怪しい片田舎に。」
どうやらこのおじさんは僕のことを、地価高騰のあおりを受けて念願の
マイホーム計画を狂わされたけど、思い切って田舎でもいいから建ててしまえ
と家族の反対をふりきって安易に家を建ててしまった、中年サラリーマンの
息子かなんかと勘違いしたようだ。
「それにしても、ここがベッドタウンになるとは今でも信じられないな。」
と言っておじさんは腕を組む。
「どうしてです?」
「え?い、いや、まあ、たいした理由じゃないんだけどな。
 これ以上犠牲者がでないことを祈るんだけどね。」
・・・・・・・・・・・・・・・・ん?、どういうことだろう、犠牲者がでるって。
今までは特になにもない、片田舎だと思っていたけど。
もしかして、ここには何かが住んでいるのだろうか?
鬼とか怪物とか亡霊とか・・・・・・・。
まさかね・・・・・馬鹿馬鹿しいよな。
「そういえば、今2時だよね。いつもこんな時間に買物に来るけど、
 学校はどうしたの?」
またしても、ぎくりとさせる台詞をはく人だ。
僕は流れる冷汗を気にもせず、近くにあったメロンをポンポンとたたく。
「あ、その、えっと、母親が倒れちゃって看病しなきゃいけないんですよ。」
と顔に満面の笑みを浮かべながら、はははと笑って言った。
どう考えても、顔と台詞が不自然だった。
缶詰にラベルをはっていたおじさんが、いきなり黙り込む。
明らかに僕のことを哀れみの眼差しで見つめていた。
「そうか、それは悪いこと聞いたな。・・・・・・・・・・・・よし、それじゃあ、
 このメロン持っていきな。なーに、心配すんなメロンの一個や二個じゃ
 この高橋商店はつぶれやしないからな。」
と言ってビニール袋にメロンを入れるおじさん。
「あ、ありがとうございます。」
「いいよ気にするな。」
と言って後を向く。
泣いたのか?と思ったけど、また仕事にとりかかっただけだった。

僕はまだ必要なものを買いそろえてなかったから、一通り店を一周する。
野菜コーナーの上に古るびたポスターがあった。
そこには見たこともない水着の女の人が、右手に缶ビールを持っている。
そのとなりに、また汚い紙がはってある。
新聞配達員募集。住所は・・・・・。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

日差しは強かったが、青々と茂った木々を見ながら歩くのは気持ちがいい。
遠くから聞こえる蝉の鳴声は聞き慣れると涼しくも感じさせるものだった。
僕はアスファルトの上を底の薄い靴でぺたぺたと歩きながら、
水田の上を飛ぶトンボの大群を見ていた。
ふと、さっき見た新聞配達員募集の公告を思い出す。
1000万円はたしかに大金だけど、数年でなくなってしまうだろう。
それに、綾波は足が不自由なだけにお金も色々とかかる。
やっぱり、何かして働かなきゃお金はすぐになくなっちゃうよな。

よし、明日さっきの住所の所にいってみよう。
メロンの入ったビニール袋をかさかさ揺らしながら、むっと暑い
陽炎の中を歩いて行く。
綾波。
今度はいるよね。
信じているし、心配はしていない。
けど、

僕はいつのまにか駆け足で家へと向かっていた。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

鍵を差し込んでから、ゆっくりと扉を開ける。
僕の前で、綾波はちゃんとベッドに横たわっていた。
でもそれは美術館にある絵を見ているような感じ。
神様の放つ光が窓枠から溢れるように入り込み、彼女の胸元を照らす。
僕の目の前にいるはずなのに、手を延ばすと油絵のざらざらした
キャンバスにあたってしまうような気がした。

彼女はただ空を見ている。

「何見てたの?」
「空。」
「空?」
「空とか雲。」
「へぇ、どんな雲が見えた?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ただの白い雲。」
「・・・・・・・・・・・・そっか、でも、車に見えるとか、動物に見えるとか。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい。」
「・・・・・・・・・・あ、いや、僕が悪いよ。」
「ごめんなさい。」
「いや、僕が悪い。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「あ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「泣かないで、泣かないでよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「ごめん、・・・・・・・・・・・・本当に・・・・・・・・・・・・・・・・ごめん。」

僕はまだ子供だから、綾波の落ち着く台詞を並べることも、
綾波を優しく抱きしめることも、綾波の唇を暖めることも出来ない。
僕が出来た事と言えば、綾波の涙の通り道を優しく親指でなぞることだけだった。







綾波と生活を初めて、今日で一週間がたった。
朝になって綾波の額にふれるとそれほど熱くなかったから、
朝食はパンにしておいた。
昨日買ったマーマレードをパンにぬって食べる。


綾波は何も出来ないただ寝ているだけの女の子になった。
全てから切り離され、一人孤立して考えるだけの生活。
それが、どんなに苦痛で、情けなく、つらいことかは僕でもわかる。
僕が一番近くで綾波を見つめてきたから。
元気づけようとは思うけど、ここに来て彼女の笑顔すら見ていない。
窓の外を見つめ思い詰める綾波に、
「そんなことやめてよ。」
と言いたくなる。
考えたり思い詰めてるだけじゃ何も変わらない。
僕に、僕に、少しでもいいから話してほしかった。
いま思っていること、気になること、これからのこと。
そうすれば、綾波も楽になるし、僕も楽になれる。
要は、綾波と話したいんだ。
不安なんだ、淋しいんだ僕は。

「綾波、包帯変えよう。」
僕は無理にでも笑顔を作ろうとしていた。
「ええ。」
綾波は布団から足を出し、ベッドに座る。
僕は右腕の包帯をゆっくりと取のぞいた。
小さい傷もほとんどが消えていたから、もう包帯を巻く必要はないだろう。
唯一肘の近くにある傷に消毒液をかけてカーゼを付けた。
「碇君。」
と言ういきなりの声にびっくりして、僕は持っていた綾波の右腕を
落としそうになった。
「な、なに?」
「どうして、うれしそうな顔をしてるの?」
僕は一瞬その内容を理解できなかった。
「え、僕、うれしそうな顔してた?」
「ええ。」
綾波がじっと僕のことを見ていたから、軽蔑して言ってるのかと思った。
こんなひどい傷の手当てをしているのに、うれしそうな顔をするなんて、       
誰でも不謹慎だと思うに違いない。
でも、彼女の赤く透き通った瞳は軽蔑というよりも、不思議でたまらない
女の子の瞳という感じで光り輝いていた。
「あ、僕、好きなんだこういうの。誰かのために何かをするのって。
 綾波がたいへんな傷をおって苦しんでいるのはわかってる。
 でも、僕にとっていつも遠い存在だった綾波が、僕の治療とか
 世話とかを必要としていてくれてるんだよね。
 だから、僕が綾波に何かを出来るのって
 正直うれしいのかもしれない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 ほら、料理とかでもさ、一生懸命作ったのを食べてもらうのって
 うれしいじゃないか。
 それに、おいしいって言ってくれたらもっとうれしいって、
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・思うよね。」
と目を細めて綾波を見つめる。
「私、人に料理を作ったことないもの。」
綾波はとても悲しそうな表情を僕に見せた。
「そうか。」
「ごめ・・・・。」
と綾波が言い終わる前に、僕は自分の言葉でかぶせる。
「あのさ。あのさ。あのさぁ。・・・・今度綾波の料理食べてみたいな。
 僕も手伝うからさぁ。材料とかも僕が全部買ってくるし、
 ちゃんと料理できるように器材とかお皿とかも買ってくるし、
 綾波の欲しい物は何でも買ってくるし、綾波の言うとおりに
 なんでも手伝うし・・・・・・さぁ。
 だから、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だからさぁ。」
「料理?」
「うん。」
僕は綾波をじっと見つめる。
彼女は情けないような悲しいような顔をしていたけど、大きな瞳は
きらきらと輝いていて、とても綺麗だった。
「私料理とかほとんど出来ないけど、碇君が手伝ってくれるなら・・・・・・・・・。」


金縛りにあったような時間が過ぎ、僕の顔は急激に熱くなる。
綾波の白くてつやつやした肌は、自然と頬骨に集まり屈託のない笑顔を
作り出す。
彼女の微笑みは僕の全てをふき飛ばし、全身に染みわたるような
何か気持ちのいい物を運んでくれた。

綾波が・・・・・・・・・・・・笑ってくれた。
それは僕のふさぎきった心を高鳴らせるのに十分の理由だった。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

あのあと僕達は狂ったようにしゃべり続けた。
まあ大げさかもしれないけど、もともと口数の少ない僕達にして見れば
狂ってると言えるかもしれない。
僕達の会話はいつものような質疑応答という感じではなくて、小さな笑いが
あったり何かを共有する一瞬を感じさせるものだった。

お昼ご飯はおかゆを作った。
僕は綾波の枕元に小さい椅子を持ってきて座る。
そして、ベッドに取り付けられたテーブルの上におかゆの入った鍋を置き、
二人は少し大きめのれんげで口のなかに運んだ。
話ながら食べていたので、よく膝のうえにこぼした。

話のネタは尽きなかった。
僕が綾波を連れ出してからここまで、色々なことがあったから無理もないけど。
僕達はその中からなるべく暗くならないような物を選んで話してた。
「碇君が包帯を外しだしたときは少し驚いた。」
と口元に笑みを浮かべつつ綾波は言った。
「え、あの雨の日の?起きてたの?」
あまりのことに、れんげに乗っていたおかゆをまた落としてしまった。
「あ、あれは、そんな変なことじゃなくて、っていうか。
 雨で濡れてて、風邪こじらしたら大変だと思って。
 下心とかそういうのじゃなくて。ほ、本当だよ。」
僕は必死に、身振り手振りで事の事情を説明しようとする。
「え、私はあんなに親切にしてくれたことに驚いたの。」
とぽつり。
「あ、そうだよね。うん、そう。わかってたよ。」
はーはー、ぜーぜー言いながら、説明する僕を見て、
綾波は優しく目元で微笑んでくれた。

「碇君。」
「な、なに?綾波。」
「これから私のことはレイでいいわ。綾波じゃ言いにくいでしょ。」
「レイ?」
僕の頬が赤く染まるのを感じる。
「うん。」
彼女はこくっとうなずく。
「あ、じゃあ、僕はシンジでいいよ。」
「シンジ、・・・・・・・・・・・・シンジ君にする。」
「それじゃあ、僕はレイさんのほうがいいのかな。」
と言うと、彼女はくすっと笑って、
「やっぱりお互い、好きなように呼びあいましょ。私はシンジ君って呼ぶわ。」
と言った。
「僕は・・・・・・・・・・・・レイでいいのかな?」
「うん、いつもそう呼ばれていたから。」
「じゃあ、レイ。」
「シンジ君。」
二人はぷっと吹き出して笑った。


「綾波。」
「レイよ。」
と言って笑う。
「あ、そうだった。レイ。」
笑わせるつもりはなかったけど、この笑顔が見れてうれしかった。
「それで?」
と優しい声で言う綾波・・・・もといレイ。
「うん、さっきお金のこと話したよね。それで、やっぱり足りないと思うんだ。
 だから、新聞配達のアルバイトしようと思うんだけどどう思う?
 綾波・・・・・・レイの事も少しの間ほったらかしになっちゃうし。
 ・・・・やっぱりまだ慣れないね。」
「じゃあ、綾波に戻してもいいのに。
 ・・・・私はかまわないけど、でも、私のためにそこまで・・・・・・・。」
「いいよ、いいよ。実は僕、前に新聞配達やってた事があるんだ。
 少しの間だけど。だから大丈夫。」
「ごめ・・・・・・・・・・。」
「ん、ごめんは言わない約束でしょ。」
「そうだったね。」
とレイは笑った。
僕達はたった数時間しか話していないけど、「ごめんは言わない。」という
約束をした。
この言葉は僕達の合い言葉になり、よく暗い雰囲気を明るくしてくれた。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

恐ろしいほど汚い小屋だ。
一度でがらがらと開きそうもない木枠のドアに、はがれそうなベニヤの壁。
看板は傾いてはいなかったが、修理も手入れもしてるようには思えない。
錆びた自転車が10台ちかくごっちゃに並んでいて、明らかに通行の邪魔
をしていた。
僕はさすがに一度ためらったけど、覚悟を決めて入ることにする。
空はもう色紙を何枚も重ねたように広がって行き、僕の心を憂欝にさせた。
「あの、こんばんわ。」
小声で言ったからだろうか、僕の声に誰も反応しない。
「こんばんわ。」
「だれだ。」
中から腹巻をした中年がでてくる。
その男はぼさぼさの頭をかきむしりながら、土木工事の作業員のような
少しぼだぼだの格好で僕の前にあらわれた。
「なんだ。」
よーく見ると一重のきりっとした目と、突き出たお腹が対照的で面白い。
「あ、あの。僕新聞配達したいんですけど。」
「おお、そうか。こっちこいや。」
と言って暗い部屋の中から手招きする。
「うちの新聞はあんまり儲かっているほうじゃないが、給料はいいぞ。
 よく来たな。まあ、座れや。」
その中年は、小さい椅子を持ってきて僕の前に置く。
部屋のなかは器材や積み上げられた新聞、広告類が狭い部屋を押しつぶす
ように置かれていた。
「俺のことは、親方と呼べ。ここの誰もがそう呼んでるからな。
 まあ、配達員は2、3人しかいないが。
 兄ちゃんの名前は?」
「はい、碇シンジです。」
と言ってから、本名を名乗ってしまったことに気が付いた。
まずかったかもしれないけど、今更しょうがない。
「ほう、碇シンジ。めずらしい名前だな。じゃ、親と学校の承諾書見せて。」
忘れてた。そういえば、そういうのが必要だったような。
「あの、なくちゃ駄目ですか?」
「まあな。無いのか?」
きつい目つきで僕のことを睨む親方。
あまりにも長い間そうしているので、恐くて逃げだしたくなった。
「まあいい、兄ちゃんがゲーセンで金使うために配達するとは思えねぇし。
 じゃあ、今日の夕刊から行くからな。」
「え、今日からですか?」
「ああ、早いうちに家の場所覚えたほうがいいだろ。
 兄ちゃんには150部やってもらうからな。」
と笑って出て行く親方。
心の中で「えーっ」と叫ぶ。
150部ははっきり言ってかなり多い。
少し不安になったけど、お金もその分余計にもらえるし、
帰れば綾波がきちんと僕達の家にいてくれる。
右手をギュッと握って、自分に活を入れた。
「おし、がんばるぞ。」
「おっ、威勢がいいね若者は。」
と親方は茶化した。








「ただいま。」
「お帰りなさい。」

茜色に輝く部屋のなかに見慣れた冷蔵庫があって、エアコンがあって、
食器棚があって、そして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ベッドのうえにレイがいる。
一週間前ここに来たばかりなのに、色々なものに思い出があった。
この部屋の雰囲気が好きで、匂いが好きだった。

「どう?」
「うん、今日からやらされちゃって。だから遅くなったんだ。
 でも、親方って人は親切でいい人だったよ。」
「そう。」
レイは淋しそうに言った。
「レイはなにもなかった?」
「ええ。」
「そうだ、レイはトランプとかできる?親方がくれたんだ。
 若い奴はすぐにやめるから、こういうおもちゃを与えてるんだって。
 トランプぐらいで左右される人いるのかなぁ?まあ、いいけど。」
と言って僕は少し汚れてきたズボンのポケットから、ケースに入った
トランプを取り出し、ベッドのテーブルの上に置いた。
「私、トランプやったことない。」
と言ってトランプを見つめるレイ。
彼女の白い肌は夕焼けでオレンジ色に染まっていた。
「大丈夫だよ、僕が教えるし。でも、二人でやっても楽しくないかもなぁ。
 食事を食べおわったら一緒にやってみよう。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「レイ。どうしたの?」
「ううん、なんでもない。」
と言って、窓ガラスの向こうを眺める。
黒い色の瓦屋根は茜色と交ざって、不思議に光っていた。
窓からの景色を見ていると、全ての壁が取り払われて僕達二人が宙に浮いている
ような、そんな感じがした。
「レイ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・僕達はまだ一緒に住んで
 そんなにたってないけど、何でも話してほしいんだ。
 僕もレイに何でも話すようにするし。
 だから、隠し事とかやめようよ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 無理にとは言わないけど。」
部屋のなかに差し込んでいた光が途絶え、しだいにまわりも薄暗くなってくる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい、少し不安になっただけなの。」

不安・・・・・・・・・・・・・・・。
僕達に広がる暗く果てしない穴。
見て見ぬふりをしているけど、その穴は僕達の生きる理由を飲込み
続けている。
学校にいき、エヴァに乗る。
ただそれだけのことかもしれないけど、僕達には全てだったんだ。
自分の存在を許してくれる、認めてくれる。
それが奪われたいま・・・・・・・・・・・・・・。
暗い穴は広がり続けている。
深さを増して、どんどん大きく。
僕にもレイにも広がっているその気持ち。
沈み行く夕日のせいだろうか、僕達は同じように不安を感じていたんだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・僕こそ、ごめん。」
あんなにたくさん話しても、仲良く笑いあっても、僕達はまだ淋しいんだ。
その時、そう思った。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

辺りがすっかり暗くなった頃、僕はカーテンを閉めて部屋の電気を付けた。
2本の蛍光灯がちかちかと音を出していて少し物悲しさを感じさせる。
「ほら、これで、こういう風に。」
シャー、シャーッと、僕はニンジンを皮剥き機で削ってみせる。
「やってみて。」
と言って手渡した。
「難しそうね。」
不器用にニンジンの皮を剥きはじめるレイ。
「そう、そんな感じで。」
家にある唯一のテーブルに、ボール、つまり、底の丸い入れ物が乗っている。
その中にレイはニンジンの皮を入れて行った。
最初は厚く小さかったけど、一本剥きおわる頃には薄く大きくなっていた。
「終わったわ。」
「あ、うん、じゃちょっと見せて。」
椅子に腰掛けてレイの作業を見ていた僕は、彼女の左手にあるニンジンをとって
じっと睨んだ。
「うん、とっても上手だよ。」
「ありがとう。」
と微笑むレイ。
「じゃあ、次はジャガ芋ね。」
テーブルにジャガ芋を二個乗せる。
「ねえ、シンジ君。」
「なに?」
「シンジ君は何もやらないの?」
「あ、ああ、そうだった。僕も鍋の準備しなきゃ。」
レイのジャガ芋の皮を剥く姿をじっと見ていたかったけど、
どうもやりずらいようだったから、僕は台所で自分の役割を全うすることにした。


コトコト、もしくはグツグツと音を出す鍋を僕はゆっくりとかきまぜる。
できた。碇シンジと綾波レイの合作カレーライスが。
「完成。」
振り返り、不自然に笑った。
レイは何も言わなかったが、僕と同じ気持ちだと思う。
小さい炊飯器の蓋を開けて、ふたつのお皿にお子さまランチ見たく、
山のようにご飯をよそった。
そこにルーをかける。ドロドロと。
「はい、出来た。」
「すごくうれしそうね。」
「レイはうれしくないの?」
と言って狭いテーブルの上にカレーライスを置く。
何だかんだ言ってレイもうれしそうだったから、探りを入れてみた。
だって、口元が笑っていたんだもん。
「うれしいわ。」
とイギリスの偉い貴婦人のように威張って言ったような気がしたから、
「はい、どうぞ、スプーンです。」
とウエーターのように、丁寧に置いた。
口に手を当ててクスクス笑うレイ。
「いただこう。」
「ええ。」
「いただきまーす。」
「いただきます。」
二人同時に口に入れる。

もう、お互い見つめ合って笑うしかなかった。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

「シンジ君。」
「ん?なに?」
「わがまま言ってもいい?」
僕は洗い物の手を止めて、水道の蛇口を閉める。
そして、ミサトさんが買ったミッキーマウスのエプロンで手を拭いた。
「え、うん、言ってみてよ。」
とドキドキしながら言った。
だって、レイがわがままを言うなんて想像もしなかったから。
手持ちぶさたに横になっている彼女は、申し分けなさそうにというか、
恥ずかしそうに、こう言った。
「お風呂に入りたいの。」
「なんだ。」
とたいしたことないような返事をしたけど、
「あ、でも、それは・・・・・・・・・・。」
と言いなおした。
傷だらけのレイがお風呂に入ったらどんなことになるかわからない。
痛み止めを飲ませているから今は自分の傷の程度がわからないかもしれないけど、
抜糸のすんでない背中と右足を水に付ければ化膿してより悪化するだろう。
「やっぱりお風呂は無理だよ、傷にひびくし。」
「そうよね。」
とレイは淋しそうに言った。
でも、ここにきて一週間もお風呂に入ってないんだ。
それに今は夏。
といっても一年中夏だけど。
やっぱり体から出る汗を流さなきゃ気持ち悪いよな。
僕もここにきて3回はお風呂に入ってるし。
「レイ。体ふこうか、濡れたタオルで。それだけでも違うと思うけど。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい。」
「は、言わない約束でしょ。ありがとうって言ってくれればいいよ。」
「ありがとう。」
とレイは笑顔いっぱいに笑った。

僕は小さいお風呂場でタオルに石けんを付けて、それを桶の中に入れた。
一度それでレイの体に石けんを付けて、それから、濡れたタオルで拭けばいいと
思ったから。
僕はとりあえずその桶を持ってベッドにいった。
「あ、レ、レイ。ちょっと、なにしてるの?」
レイはベッドの上で服を脱ぎはじめていた。
僕は慌てて目をそらした。
「え、体を拭くんじゃないの?」
「そ、そうだけど。」
チラッとレイの方を振り向くと、ブラウスを脱いでいる途中だった。
そうだ、たしかに体を拭くなら洋服を脱がなくちゃいけない。
深く考えずに、安易なことを言ってしまった。
「シンジ君?」
「う、うん。」
僕はなるべくレイを見ないようにして近付いた。
そういえば、彼女の胸の部分には包帯が巻かれていたはずだ。
といっても確か僕が巻いたんだけど。
だから、大丈夫、大丈夫だ。
そう自分に言聞かせて視線をあげると、僕の言ったとおり胸には包帯が
巻かれていた。
「シンジ君、どうしたの?」
そうだ、レイはこういうことを気にしない女の子だったんだっけ。
セキュリテイーカードを届けにいったときも全然動じてなかったし。
「あの、レイ、さぁ。ここにタオルあるから自分で出来るよね。
 僕はレイの手のとどかない所をやるからさ。」
「・・・・・・・・・・ええ、わかったわ。」
と言ってレイは体をゴシゴシ拭きはじめた。
最初は包帯のない腕の方。そして首筋。
僕は一通り見ているわけもいかず、すぐ水の入った桶にタオルを入れて
持ってきた。
そのタオルで彼女は両腕と首筋を拭いてゆく。
「シンジ君。」
「な、なに?」
と下を向いて言った。
「胸の包帯はずしてくれる?」
「え、あ、う。」
「・・・・・・・・どうしたの?」
「・・・・・・うん。」
僕は目線を綾波の胸元に移した。
包帯の上からでも彼女のふくらみが明らかにわかる。
「う、あ、えっと。」
僕は顔が熱くなるだけで何も出来なかった。
そんな僕のことを見てレイは、
「背中の方に包帯の端があると思うから。」
と言って僕に背を向ける。
一瞬横を向いたときに胸のふくらみがさっきより確かなものになった。
あ、何考えてるんだ僕は。レイは傷だらけで苦しんでいるのに。
僕はテープではり付けられた包帯の端を、ゆっくりとはがした。
「レイ。あの、包帯をほどきたいから、両手を上げてくれるかな?」
レイは何も言わずに両手を上げた。
僕は包帯の端を持って彼女の脇の下をくぐらせる。
この作業は自分で思っていたよりも難しいものだった。
彼女から遠い位置にいると、包帯の端を持った僕の右手が左手を
探しているうちに胸とかに触れてしまうかも
しれない。
でも、触れないようにするにはおもいっきり彼女に近付かなければならない。
数秒悩んだ結果、僕は後者を選んだ。
僕は慎重に慎重に腕を大きくまわして包帯をほどいていった。
レイの息が聞こえるくらい近くで。
やっと胸の部分まで来た。
このまま何もなく終わってくれと僕は心の中で祈る。








もうすぐ胸の部分が終わる。
と思った僕は、作業の手を早めた。
のがいけなかった。
その部分をちょうど外しおわったとき、重力にひかれ、
レイのやわらかい胸が僕の腕にしんなりと乗る。
「あ、ご、ごめん。」
と言って、ぱっとレイから離れる。
「別に、気にしないで。」
彼女は僕に背を向けたままそう言った。
そりゃあ普通は気にするよな、と思ったけど何も言わなかった。
とりあえず、僕は腕に残った感触を消し去り、平常心を取り戻すことにする。
レイは本当に、どうとも思ってないんだろうか。
「はい、レイ。」
石けんのついたタオルを彼女に手渡す。
「ありがとう。」
レイは首筋や胸の辺りを丁寧に拭いてゆく。
彼女の首筋や細い腕を見ていると、後からぎゅっと抱き締めたくなる。
ここの空間は、僕とレイだけの二人きり。
そんな気持ちが大きくなりかけたとき、背中にある大きな傷跡が、
レイの自爆した日に僕をタイムスリップさせた。
「背中は僕がやるよ。」
「ありがとう。」
と言ってレイは肩ごしにタオルを渡した。
なんだか、とっても色っぽかった。
傷に触れないように、ゆっくりとやさしくタオルで撫でる。
石けんのついたそこを濡れたタオルできれいに拭き取ってから、
もう一度桶の中で洗って、レイに手渡す。
「レイ、右足はやらないほうがいいと思うよ。傷がひどいと思うし。」
「ええ。」
と僕の方を振り返る。
「あ、レイ。あの、先に包帯巻こうか、背中の。」
「・・・・・・・・・・そうね。」
僕の顔を不思議そうにのぞき見るレイ。
上半身裸なんだから、もっと僕の気も使ってよ。と思う。
「レイ、自分でできるよね。ぼ、僕がやったら苦しくなるかもしれないし。」
「ええ、わかったわ。」
「少しは手伝うから。」
と言って、包帯を手渡して後を向いた。
包帯のすれる音が僕の耳に入ってくる。
僕はなるべく変なことは考えないように努めた。
「シンジ君。テープで・・・。」
「あ、うん。」
僕が振り返ると、もう巻き終わっていたので端の方をテープで止めた。
「下半身はどうする?」
言った後に、なんかいやらしい言い回しだったことに気付く。
「っていうか、その・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「一応、左足だけは拭きたいの。」
「・・・・うん。」
後のことは、レイ一人でも出来そうだったので、僕は後を向いて黙っていた。
包帯のはずされてゆく音がまた僕のまわりを包む。
その後に、タオルと肌の触れる音が響く。
「シンジ君。」
「な、なに?」
「腰や左足にも、包帯巻くの?」
「あ、傷がもうひどくないなら、しなくていいと思うけど。」
「どうかしら?」
チラッと見た彼女の太股はすらっと白くて、つやつや光っていた。
「そ、そんな。そんなの、僕が見れるわけないじゃないか。」
「え・・・・そう。」
と悲しそうに言うレイ。
「あ、ご、ごめん。悪いけど、レイのを見るわけにいかないから、
 自分でやってくれる?」
「わかったわ。」
僕はまた、黙って後を向く。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

「うん、そう、同じ数字をあわせて、うん。二つとも捨てる。簡単でしょ?」
「ええ。最後にジョーカーが残ったら負けなのね。」
「うん、そう、じゃあ、本番。」
僕はカードを集めて切った。
レイからはさっきの石けんのいい香が漂っている。
「他にはどんなのがあるの?」
「んーと、ポーカーとか、豚の尻尾とか、七ならべとか。とにかくいっぱい
 あるんだよ。僕の小学校じゃ自分たちのやり方とかルールとかで
 自分たちの遊びを作ってる人もいたな。」
「そうなの。」
「うん。」
南側のガラス窓には白と茶色の混ざりあったカーテンがかかっていて、
その隙間から暗い闇が見える。
ここでの夜八時はひっそりと静まりかえっていて、
聞こえるのはエアコンがうんうん唸る音と、蛙と鈴虫の合唱ぐらいだ。
僕はその音達の中にシュッシュッという、カードを切る音を付け足した。
彼女の胸の前にあるテーブルの上に、そのカードを二つに分けて置いてゆく。
「さ、いいよ。」
「ええ。」
僕達は自分のカードを手に取り、ペアになっているカードをどんどん
切り捨てていく。
最終的に、7、8枚しか残らなかった。
僕の所にジョーカーがないということは、持ってるのはレイだな。
「ん、ジャンケン。」
「ええ。」
「ジャンケンポン。」
僕がグーで、レイがパー。
レイってジャンケン出来たんだ、とやった後で僕は驚いた。
あ、ジャンケンぐらいできるか。
それって、あまりにも失礼だよな。
「じゃあ、レイから引いていいよ。」
と、僕はカードを扇状に並べてレイの前にだした。
悩みもせずに、一枚を取って、一枚捨てる。
「はい。」
今度はレイが僕の前に扇状のトランプを突き出す。
僕は真ん中のつきでているのを取った。
スペードのエースだ。
僕は自分の右手にあったトランプの中から一枚を取って捨てた。
「レイ。」
「なに?」
僕はトランプの絵柄が見えないように、レイの前にだした。
「学校の制服も取り替えたいよね、起きてるときも寝ているときもそれだし。」
レイはそこから一枚を取って、捨てる。
「それに、あの、変な意味とかじゃなくて、あの、その、
 下着とかも、もう少しあった方がいいと思うし。
 だから、僕が明日買いに行こうと思うんだ。」
僕はレイの所から一枚取って、捨てる。
「ごめんなさい。ありがとう。」
「いいよ、僕の服とかも必要だったし。」
僕達は淡々とカードを取り合っていった。
「それでさぁ、レイってどんな洋服着るのかなって思ったんだ。
 変なの買ってきても着ないだけでしょ。」
「私、別に何でもかまわない。」
「あ、でも、僕も詳しくはわからないし。」
「ずっと寝てるだけだから、パジャマでいいわ。」
レイがあまりにも悲しいことを言うので、しばらく何も言えなくなった。
トランプの残りは2、3枚。
「うん、パジャマ買ってくる。それと、ずっとベッドの上だと退屈だと思うから、
 本とかも買ってこようと思ってるんだけど、どういうのがいい?」
レイは一枚取って、捨てる。
「・・・・・私、前までは量子力学の本とか、原子核反応の本とか読んでたけど・・・・。」
「量子力学?」
「ええ、でも、そんな知識があってもしょうがないのかもしれない。」
「・・・・・・・しょうがないことはないと思うけど。」
「いいの、本ならなんでもいいわ。」
「じゃあさ、小説とかは?」
「小説?」
「うん。笑えるのがあったり、考えさせるものがあったり、
 泣けるものがあったり。面白いと思うけど。」
「ええ、それでいいいわ。」
と言って笑顔を見せた。
僕も笑って、最後のトランプを引いた。
ジョーカーだった。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

「レイっていつも何時くらいに寝てた?」
「いつも決まってる訳じゃないけど、10時くらい。」
「じゃあ、早かったかな?」
「べつにいいの。シンジ君、私のために・・・・。」
「ううん、別に気にしなくていいよ、レイのためだけじゃなくて、
 僕のためでもあるんだから。」
「ありがとう。」
「いいって。」
僕の頬が赤くなるのを闇が静かにかき消す。
気持ちが、気持ちが押し込めた心の隙間から溢れだそうとする。
真っ暗な部屋というのは、積もった思いを膨れあがらせるのかもしれない。
などと考えながら、いまだにぼんやりと光る蛍光灯を見つめていた。
明日の朝も新聞配達があるために、僕は早めに寝ることにしていた。
といっても、部屋は二人で一つ。
だから、一応レイに断って部屋の電気を消して布団に入った。
「シンジ君、私の体を拭くのって嫌だった?」
「え、な、なに言うの?」
レイはそう言って僕を驚かせた。
少し変な言い回しになったかもしれない。
「ずっと黙っていたから。」
どうやら、レイは本当に僕が嫌がっていたと思ってるらしい。
「あ、違うよ。あれは、レイがあんまりにも警戒心を持ってないからさ。
 男の子に簡単に自分の肌を見せないほうがいいと思うよ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほら、男は狼だとか言わない?」
「聞いたことない。どうして、狼なの?」
自分で言っておきながら、しばらく考える。
「なんでだろう、狂暴だからかな?」
「シンジ君もそうなの?」
「ぼ、僕は、違うけど、でも、これからは、僕の前でも
 ちょっと、なんていうのかな、気をつけてっていうか、
 遠慮してって言うか。」
「わかったわ、気をつける。」
「で、でも、僕はそんなことしないよ、本当に。」
「ええ、わかってる。」
真っ暗でわからないけど、きっとレイは笑ってたんだろう。
空気がそんな感じで揺れているような気がしたから。
二人だけの部屋、僕達しかいない場所。
二人だけにわかるそんな行為は僕の胸をドキドキさせた。
「レイって最近明るくなってきたね。」
「そう?」
「うん、笑顔が普通に出てくるようになったし・・・・・・・・・・・・・・・
 可愛くなってきた。」
「そう?」
自分でもそんなこと言うつもりじゃなかったのに、自然と口からでてくる言葉。
「シンジ君も変わった。」
「・・・・・・・・うん、僕もそう思う。ここに来るまで色々あったし、
 変るのが当然のことなのかもしれないけど。
 でも、さっきみたいな事は絶対言わないよね、前なら。
 いまが夜だからかもしれないなあ。
 僕って、いつも夜になると色々なことを考えて、泣いていたんだ。
 とっても淋しい気持ちになるんだ。
 いつも、一人ぼっちだったから。
 夜は淋しくて嫌いだったけど、夜の自分は好きだった。
 嘘も言わないし、正直に泣けるから。
 僕って小さいころ本当に泣かなかったんだ。
 相手がどんなに悪口を言っても、ただ黙って耐えていた。
 泣いたら負けだと思っていた。
 そんな僕を見て相手も必死になって泣かそうとするけど、
 絶対に人前で涙を見せたりしなかった。
 泣かないことで反抗してたんだ。
 そうすることで、相手よりも高い位置から見下ろし、優越感を
 得ていた。
 それが、こんな僕のできる精一杯の抵抗だったから。
 でも、夜になるとやっぱりくやしくて泣いてた。
 淋しくて、心細かったけど、泣いてたら自然に眠れるんだ。
 そうやって、毎日生きていた。
 あ、ごめん、長々話しちゃって。
 なんか変だね、やっぱり夜って、人を正直にさせるのかな?」
レイの言葉を待った。
10分も20分も沈黙があったのかもしれない。
でも平気だった。湧きでてくる安心感があった。
「ええ、そう思う。私も夜が恐かった。家電の音がやまないから。
 月が白いから。誰もいないから。でも、素直になれた。
 眠る直前によく決意した。自分が変わることを。
 朝になれば何もかも忘れてしまうのに。」
やっぱり夜のせいだ、こんなに素直な気持ちになるのは。
夜にはたくさんのドアがあって、それは色々な感情につながっている。
それは、夜が深くなればなるほど増えて行くんだろう。
そんな気がした。
「夜に二人きりで話し合うのって初めてだけど。
 ・・・・・・・・・・・・不思議な気分になるね。
 なんだか、レイと一緒になったような気がする。」
見えない、つかめないなか、僕達の吐き出される息が聞こえる。
彼女は何も言わなかった。
だけどよかった。レイもそう思っていると確信していたから。
「明日も、こんな感じで話せるのかな?」
「ええ、きっと。」
「また、トランプしようか。」
「ええ。」
「そうだ、明日メロン食べよう。高橋商店のおじさんからもらってたんだ。」
「ええ。」
どこからか僕に集まる安らかな気持ちのせいで、少し眠たくなってきた。
でも、もう少し起きていよう。
レイの寝息を聞きながら目を閉じれば、もっと幸せになれるかもしれないから。
「おやすみ。」
「おやすみなさい。」




明日も、明後日も、また次の日も、二人で笑いあってる生活が続くと思ってた。




だけど、二人の生活は、今日かぎりで終わってしまったんだ。





 

図書室INDEX |NEXT