「何見てたの?」
「空。」
「空?」
「空とか雲。」
「へぇ、どんな雲が見えた?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ただの白い雲。」
「・・・・・・・・・・・・そっか、でも、車に見えるとか、動物に見えるとか。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・あ、いや、僕が悪いよ。」
「ごめんなさい。」
「いや、僕が悪い。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「あ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「泣かないで、泣かないでよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「ごめん、・・・・・・・・・・・・本当に・・・・・・・・・・・・・・・・ごめん。」

僕はまだ子供だから、彼女の落ち着く台詞を並べてあげることも、
彼女を優しく抱きしめることも、彼女の唇を暖めることも出来ない。
僕が出来た事と言えば、彼女の涙の通り道を優しく親指でなぞることだけだった。




記憶のノート

作 ゆきかき 








知らなかった。
綾波が零号機のコアを爆破させて僕を守ってくれたなんて。
あの時の閃光が、まだ僕の目の裏に焼き付いている。
綾波は使徒を殲滅させるために自爆したんだろうか?
それとも、僕を守るために・・・・・・・・・・・・・・。

生きていた。
頭と腕に包帯をしていたが、綺麗な瞳で僕を見る綾波。
よかった、本当に。

でも、覚えてなかった。
零号機を捨ててまでして、僕を救けてくれたことを。
自分は3人目だと言う綾波。

わからなかった。
僕は。
その意味を。

わかった。
その意味が。

教えてくれた。
リツコさんが。

動けなかった。
たくさんの綾波の脱け殻を見た僕は。

恐かった。
リツコさんはこれが綾波のパーツだという。

取り替えられたんだ。
綾波は。

違うんだ。
今の綾波は、
前の綾波とは。
 
わからなかった。
なにもかもが。


一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一


「シンジ君、生きてるわ、レイ。」
ちょうどDATが巻き戻されて不快な音をたてているとき、             
ミサトさんが僕の部屋に入ってきた。
体が重くてもう何も考えたくない気分の僕は、めんどくさそうにミサトさん
の方にふりかえる。
「わかってますよ。」
と言って、また僕はミサトさんに背を向ける。
「違うの、その、あなたを救けたレイの方よ。」
思考力の低下していた僕には、ミサトさんが何を言っているのかわからなかった。
「え、だって、綾波は死んじゃって、だから、取り替えられたんじゃ。」
間髪入れずにミサトさんは言う。
「違うの、レイは自爆で・・・・・・・・・・・体のほとんどをやられてしまったの。
 だから、取り替えられたのよ。前のレイは、もう歩くことも出来ないの。」
「そ、そんな。生きているのに、生きているのに。」
「そういう所なのよここは。」
「綾波は、僕を救けた綾波はどうなるんですか?」
ミサトさんはうつむき加減でこう言った。
「殺されるわ。新しいレイがいる今、魂のある前のレイに用はないもの。」
「そ、そんな。」
僕の中をかけめぐる脱力感は、耳から落ちるイヤホンを気付かせてくれなかった。
一体僕は・・・・・・・・・・どうしたら・・・・・・・・・・・・。

「会いにいく?」
「はい。」




ここはネルフ所属中央病院の地下12階。
最後のロックを外すため、ミサトさんは8ケタの番号を入れてから
カードキーを差し込む。
電子音が暗い廊下に響きわたった。
前の扉がゆっくりと左右に別れて行く。
ガタンという音とともに少し汚れた扉はとまった。
部屋からエントリープラグの中のような独特の匂いが、真夏に長時間放置した
車に入りこむときのように、むわっと広がってくる。
ミサトさんはそこにためらいもなく入っていった。
靴のヒタヒタという音が止まったと思うとすぐに、部屋の蛍光灯がつく
音が聞こえてくる。
殺風景なその部屋は、周りを無機質なコンクリートで固められていた。
地面には至る所に、べっとりと生々しい血のついた包帯が散らばっている。
それは、真っ赤な血の湖とでも言うべきだろうか。
そして、その湖のうえに鉄パイプを組み立てただけのベッドが浮いていた。
「あ、綾波!」
「レ、レイ!」
僕達は同時に痛々しい声を上げた。
そこには、血だらけの包帯をプラグスーツの上から巻き、左目に眼帯をし、
点滴を受けている綾波がいた。ハァハァという息を上げながら眠っているようだ。
「シ、シンジ君!」
ミサトさんは悲鳴にも近い声をあげる。
自然と僕は彼女の目線を追う。
「あ、あ、・・・・・・・・。」
ショックで目の焦点がよく合わない。
次第に、ぼやけていたものがはっきりしてくる。
焦点があってくると、線がぼんやりとわかってきた。
はっとして、すぐに僕は目をそらす。
綾波の・・・・・・・・・・綾波の右足は膝から下が無かった。
「シンジ君。」
体中が恐怖で震えている僕に、ミサトさんが声をかける。
「僕が悪いんです、僕がいなければ、僕がいなければ、僕がいなければ。」
「シンジ君。」
「僕がいなければ、僕がいなければ、綾波は自分を傷つけなくて良かったんだ。」
僕は血のしみ付いたシーツをギュッと握った。
綾波はつらそうに息を荒くしている。
僕は脱力感のせいか、地面に立っていることもままならなかった。
だけど、涙はでてこない。
自分の犯してしまった罪の大きさに、ただ体を震わせるだけだった。


どのくらい時間が経っただろう。
恐くて、綾波の顔を見ることが出来ない。
綾波の苦しそうな息遣いを聞くたびに、シーツを握る手にも力が無くなってきた。
「シンジ君、もう、行くわよ。」
ミサトさんが僕の肩をポンと叩く。
僕はその手を振り払う。
「いやだ。」
綾波の荒い息はミサトさんの溜息をかき消した。
「しょうがないでしょ、わかっていて連れてきた私も悪いけど、
 もう何も出来ないのよ。私も、シンジ君も。」
「いやだ、いやだ。」

首を大きく横に振ってシーツに突っ伏してる僕は、突然ワイシャツの肩口を
捕まれた。

「いい加減にしなさい、これは現実なのよ。あなたには辛いかもしれないけど、
 もうどうしようもないのよ。早くレイにお別れを言いなさい。」

「いやだ、いやだ、いやだ、もういやなんだよ。僕のせいで誰かが傷つくなんて、
 誰かが死ぬなんて、もうそんなの絶えられないんだ、恐いんだ、
 いやなんだよ。やめてよ、やめてよ、やめてくれよ、
 もう誰も・・・・・・・・・・殺さないでよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」




- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 



ミサトさんがハンドルをコツコツ叩く。
次に、相変わらずの青空をフロントガラス越しにボーッと眺めている。
助手席に座った僕は、気怠くなるようなこの暑さにうんざりしたり、
ミサトさんの車のエアコンからでる匂いに気分を悪くしたりしながら、
また、同じようにボーッと窓の外を見ていた。
赤いランドセルを背負った小学生が僕達の車を追い越して行くときに、        
無性に気分が悪くなって、窓を開けずにはいられなくなる。
僕の右手がそのボタンに触れたとき、目の前にワイシャツをベトベトに濡らした
中年おやじが通りすぎる。
そうだ、外の方が熱いんだった。
うんざりした気持ちで、頭と背中をシートにつける。
「あー、本当に腹立つわね。」
とミサトさんがぼやいてる時、信号が赤から青に変わった。
前の車が動きだし、次第に僕達の車も動きだす。
グンッという加速が、僕の体を嫌な感じで引っ張る。
「ミサトさん、ちゃんと安全運転してよ。」
「わかってるわよ。」
ミサトさんは、少しつっけんどんに言った。
「・・・・・・・・なんか、怒ってません?」
と僕が言うと、
「自分にね。あー、本当に高速乗ればよかったわ。」
とむくれた。
「しょうがないじゃないですか、いっかい宇都宮によるんでしょ?」
「それでも、高速乗れるじゃない。」
「封鎖されてるかもしれないから、国道で行こうって言ったのミサトさんですよ。」
むすっと、唇を鳥のようにのばして、
「国道だって検問あるかもしれないじゃない。やりかねないわよ、あそこなら。」
と言うミサトさん。
「もしあったとしても、国道か高速使うしかないじゃないですか。」
僕はむきになって言った。
ミサトさんは僕との言い合いに降参したのか、ジュースに口をつける。
「うあっ、炭酸きれてる。」
そういうと、近くに置いてあった僕のオレンジジュースを手に取った。
「あ、ミサトさん、僕の。」
「いいじゃない、それとも、私との間接キスは嫌なの?」
「な、なに言ってるんですか。」
ニヤニヤ笑っているミサトさんに、顔が赤くなる僕。
サイドミラーにそんな顔をうつされているのに気が付いて、
僕は反射的に後部座席をチラッと見た。
「・・・・・・・・・・どう?シンジ君。」
助手席に座っていた僕は、もう一度後部座席を確認する。
「眠ってます、でも、とっても苦しそうです。」
「そう。」
「ミサトさん、綾波は助かりますよね。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・わからないわ。とりあえず、宇都宮の病院に
 行って診察してもらうしかないわね。」


そう、遅くなったが僕達は綾波を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
なんて言っていいのかわからないけど、前の綾波、つまり、僕を救けてくれた
綾波をネルフ本部から連れ出した。


一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一   

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もう嫌なんだ。」
「じゃあ、あなた責任とれるの。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・責任って。」
「あなたは綾波レイを本気で救けたいと思っているの?」
「・・・・・・・・・・・・思ってるよ。」
「中途半端な気持ちじゃ、人間ひとり救けることも出来ないのよ。」
「わかってるよ。」
「もう一度聞くわ、あなたは綾波レイのためなら、何でもできるの?
 自分を捨ててまで救けることができるの?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・そんなのわからないよ、だけど、もう嫌なんだ、      
 誰にも死んでほしくない、死んでほしくないんだよ。」
「そう、じゃあ、レイの足を持って。」
「え?」
「自分の言ったことには責任持ちなさい。連れ出すのよレイを。
 そのぐらいの覚悟があって言ったんでしょ?」

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一


あの時、僕達は近くにあった診断書と一緒に綾波を連れ出すことにした。
診断書は僕にとってわからないことだらけだったけど、
ミサトさんが言うには脊髄の損傷が一番気になるという。
だから、一度大きい病院で再検査をしにいくことにした。
しかし、僕達が今、北に向かって車を飛ばしているのは、宇都宮の病院で検査をする  
ためではなく、東北の山の中か田舎町に綾波をかくまうため。
ネルフに殺されるとわかっていて、綾波をあそこに置いておくのは嫌だった。
だから、僕はミサトさんの言うとおりにすることにした。
でも、どうしてミサトさんはこんなことを提案したんだろう。
ミサトさんはネルフ職員なのに。



フロントガラスの前に、白い色の猫がいる。
ふっと、僕の方を振り向く猫。
瞳はすごく澄んだ青色をしている。
その瞳に僕は吸いこまれそうな気がして、恐怖さえ感じた。
毛並みは泥だらけで綺麗じゃないけど、猫なのに背筋をすっと伸ばしていて、
どことなく雅趣のある感じだ。



キキーというブレーキ音が聞こえると同時に、シートベルトが僕の体にくいこむ。
そのあと、ドサッという音がしてから、体がベルトから開放される。
ミサトさんはブレーキをおもいきり踏んでいた。
「ったく、何考えてんのよ。猫か犬か知らないけど。殺されたいっての?」
と言ってから、ミサトさんはハンドルに頭をぶつけたようで、
たんこぶが出来ないよう一生懸命頭をなでている。
「シンジ君、大丈夫?」
「あ、はい。なんとか。」
僕もシートベルトの圧迫に、胸が苦しくなっていた。
後の車がしきりにクラクションを鳴らしているのに気が付いて、
とりあえず、ミサトさんは車を横につける。
「ちょっと、どうなったか見てくるわ。シンジ君はここにいて。」
バックミラーに自分の髪と顔を写してから、ミサトさんは猫の残骸を確認しにいく。
「あぁぁぁん、ごめんなさぁぁぁい。」
と言って、ミサトさんはクラクションを鳴らしていた運転手に投げキッスをする。
こういう行動はまったく信じられない。
僕は恥ずかしくなって、目をそらした。
あ、そうだ、綾波は?
「綾波。」
振り返ると綾波は消えていた。
「あ、綾波・・・・・・・・・・・・だ、大丈夫?」
いそいで外に出てから、後部座席のドアを開ける。
消えたわけじゃなかった。
後部シートに横たわっていた綾波は、その前の足を置くところに落ちていたのだ。
優しく抱き起こしてから、また同じ所にそっと横たわらせる。
そして、僕は落ちていた毛布をゆっくりと、やさしくかけた。
綾波の息遣いがだいぶ荒くなってきているような気がする。
僕は横目でチラッと右足の方を見た。
今だに包帯の上からにじんでくる血を見ると、
僕は今にも車から飛び降りたい気持ちになる。
「どうやら、ぶつかってなかったみたいだわ。車もへこんでないし。
 それにしても、男ってのは馬鹿な生きものね。さっきのあいつに投げキッスしたら、
 『いやあ、僕も大人げないことしちゃって、ハハハハ。』だって。
 シンジ君も・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あれ、シンジ君なにやってんの。」
「い、いや、綾波が。」
「あんた、病人にいたずらしようっての?」
と、僕を横目でにらむ。
「そ、そ、そんな事するわけないじゃないですか。」
「あら、そーお。」
ミサトさんはまたニヤニヤしながら、運転席に座る。
ミサトさんのせいで綾波が落ちたのに、と言いたかったけどやめた。
だってミサトさんは僕に気を使って・・・・・・明るく振る舞っているのを、

・・・・・・・・・・・・僕は知っていたから。

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

「少し眠ったら?」
「いえ、いいです。眠くないから。」
「そう。」
宇都宮の病院を出てから、4時間ぐらいたっただろうか。
辺りはすっかり暗くなっていて、前の車と対向車の明かりしか見えない。
高速道路を照らす明かりもどことなく暗い感じがする。
右も左も田や畑なんだから、しょうがないといえばしょうがないけど。
「・・・・・・・・・・・・ミサトさん、もうそろそろ教えてよ。」
「そうね、シンジ君、車で待ってたんだよね。」
と言って、後部座席の綾波の顔を見つめてから、ゆっくりと話しはじめた。
「やっぱ、脊髄がね・・・・・・・・・・色々な神経が集まるところだから、
 そこをやられたのが、一番痛かったわね。」
「綾波は、助かるんですか?」
「心肺性血栓症候群ですって、よくわからないでしょ。」
「はい。」
「脊髄をやられたせいで、心臓の内側に血の固まりがついてく病気なんですって。
 今度は心臓の病気よ。あれだけたくさん血を流してるのに、
 体中にいろんな傷できてるのに、右足まで膝から下が無いのに、
 本当レイは大変よね。」
ミサトさんは泣いているのだろうか。僕は、少し気になった。

「やっぱり助からないみたいだわ。」

僕達の車は郡山インターチェンジを通りすぎる。
僕は、もう気持ちを動かすのがいやだった。
何も考えずにいたい。何も考えないで暮らせれば、どんなに幸せだろうか。
「・・・・・・・・・・・・・・僕は、何をしようとしているんですか?」
ウインカーを付けて、前のトラックを追い越そうとする。
加速するときの圧迫感を、僕は今だに好きになれないでいた。
「あなた、ふざけるのもいい加減にしなさいよ。」
淡々とした口調。
車を抜きおわり、左車線に戻るためまたウインカーをつける。
「レイを救けたいって言ったのはあなたでしょ。もう、どうでもよくなったの?
 面倒臭くなったの?それとも最初から気まぐれで言ってみただけなの?」
「綾波は、もう、助からないんでしょ。じゃあ、無駄じゃないですか。
 僕達のやっていることは、何の意味もないじゃないですか。」
カチカチカチカチというウインカーの音とともに、車は左に寄せられ、止まる。
ミサトさんはハンドルから手を放すと、怒っているような、悲しんでいるような
表情で僕の顔に近付いてくる。
そして、僕の胸ぐらを力強く、ぐっと掴んだ。

「もうすぐ死ぬような人なら、別に殺されてもいいってこと?
 限られた命の人には、生きる権利はないって事?
 シンジ君、あなた一体何を救けたかったの?
 何年も生き残る綾波レイを救けたかったとでも言うの?」
「だって、もう、わからないんですよ。
 自分が何をしたいのかも、自分が何をしたらいいのかも。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・僕はもう、わからないんです。」
沈黙のなか、綾波の苦しそうな息が聞こえてくる。

「いいわ。シンジ君、このまま進むのか、引き返すのかは、いま、
 あなたが、ここで決めなさい。」










太陽の光は、フロントガラスで屈折もせずに僕の顔にあたっている。
僕は暑さとまぶしさで不快になりそうだったけど、ちょうど横から来る
新鮮な朝の風に気持ちよく起きることができた。
ゆっくりと目を開けると、僕達の車はとっても狭い道路に横付けされていた。
「ミサトさん?」
運転席のドアが開けっぱなしになっていて、誰もいない。
「あ、綾波は?」
そう言って後を振り返ると、綾波はきちんと後部座席で横になっている。
苦しそうな雰囲気は無くなっていて、気持ちよさそうに眠っているようだ。
だけど、綾波を覆い尽くす包帯と、右足の膝から下を見ると、
僕の心は今にも崩れ落ちそうになる。
「綾波、本当にごめん。」
僕は小声でつぶやいた。
「何やってるの、シンジ君。」
いきなり外からミサトさんが話し掛けてきたので、僕は正直慌てた。
「え、別に何もしてませんよ。」
「あら、そう、ならいいけど。」
いい加減、ミサトさんのニヤニヤ顔が不快になってきた。
「それより、ここどこです?」
辺りを見回すと、僕達の車の右側には住宅街、左側には一面の田んぼ、
前には見上げるほどの大きな山々が見える。
「ふふふ、シンちゃんずっと眠ってたからね。ここは、秋田の田舎町。
 見て、この壮大な山、そしておいしい空気。人をかくまうには最高の所よ。」
ミサトさんは長い髪をなびかせながら、くるっと辺りを見渡す。
確かに、周りはほとんど田んぼ。住宅街というのも名前ばかりで、ぼろい家々
と、ぼろいマンション、見たこともないほど古い商店、1時間に一回しか
汽車がきそうもない古びた駅。もちろん見た感じ無人駅だ。
「ミサトさん、それでも、ここの町って結構人いるんじゃないですか?
 綾波が見つかったらどうするんです?」
「馬鹿ねぇ、下手に山のなかに隠すより、こんぐらいの所の方がいいのよ。」
「そうかなぁ。」
「そうよ、それより早く、レイの足持つのよ。」
「持ってどこにいくんです?」
「そこのアパート借りておいたから、2階の一番端の部屋。」
と指を差す。
その先には2階立てのアパートらしきものがあった。
ふと、車の時計を見るともう午前10時。
ミサトさんは、僕が寝ている間に色々なことをやっていたようだ。

「いい?そーっとよ。」
「はい。」
後部座席のドアを開け、ゆっくりと綾波の足首を持とうとする。
「はっ。」
と僕の心に突きささるこの感じ。
僕は綾波の左足しか持てないという事実を、また認識しなければいけなかった。
「シンジ君、太股の方を持ちなさい。」
こういう時、ミサトさんの優しさをよく感じる。
「はい。」
制服のスカートの上から、両方の太股を持ち上げる。
「いい?ゆっくりよ。」
ミサトさんと同時にゆっくりと持ち上げる。

綾波はとても軽いような気がした。
僕達は車が来ないか確認してから、車がやっと一台通れるような
狭い道路をわたった。
そして、目の前にある古びたアパートの階段をゆっくり上がる。
カンカンカンという音がなる。鉄の階段だ。
階段を登り終わり、2階の廊下を進む。
そこにはガスボンベや子供の三輪車などが乱雑に置かれていた。
綾波を落とさないように、注意しながら手摺りの方を向くと、僕達の車の向こうに   
広がる一面の田んぼや畑、そして、さらに向こうには連なる山々が見える。
「っと。」
一瞬、綾波を落としそうになったけど、かろうじて持ちなおす。
廊下の突き当たりに来ると、
「シンジ君、鍵開けるからレイおぶってて。できる?」
とミサトさんは言った。
「はい。」
僕は首を縦に振る。
綾波の左足を地面につけて、ミサトさんの持っていた両腕を
僕の肩の上に乗せる。
「綾波は痛くはないんだろうか。」
などと、心の中で心配しながらゆっくりと背負う。
「んっ。」
綾波の胸が・・・・・・・・・・背中に・・・・・・。
反射的にミサトさんの方を見る。
「あれ?鍵が入っていかないわね。」
どうやら鍵をカチャカチャ差し込む音で、僕の声がかき消されたようだ。
ホッとしたのはいいが、綾波の鼓動が、綾波の暖かさが、綾波のやわらかさが、
僕の背中にどんどんと伝わってくる。
彼女の息遣いが僕の右耳のすぐ横で聞こえる。
このままだと大変な事になると思った僕は、色々なことを考えてこの感触を
紛らわそうと努力した。
いい天気だなぁ、空気がすんでるなぁ、のどかだなぁ、などなど。
しかし、考えとは裏腹に、全神経を駆使して感触を確かめようとする自分。
あー、なんて人間なんだ僕は・・・。
ふと綾波の家にセキュリティーカードを届けにいった時のことがよみがえる。
・・・・考えちゃいけない事を考えてしまった。
あの時のやわらかさが、手に残った感触が、僕の背中の感触と符合する。
汗がどんどんあふれだして、顔が溶鉱炉のように熱くなってくる。
もうだめだ、と思ったとき。
「シンジ君、早く入って。」
と、ミサトさんがドアから顔を半分だして言った。
「あ、は、はい。」
意識が違う方にいく。難は過ぎたみたいだ。
僕は綾波を落とさないように、左足をドアの隙間にいれて開けた。
「うっ、せ、せまい。」
「うっさいわねぇ。いきなりなんだから、こんな部屋しか借りられなかったのよ。」
そこはなんて言ったらいいのか・・・・・・・・・・・・とにかく、独身者むけの部屋
であるのは間違いなかった。
キッチンもある、トイレもある、風呂もある、だけど、部屋が8畳だけ。
とにかく僕は、文句を言う前に綾波を窓際のベッドに寝かせることにした。
「ミサトさん、このベッドどうしたんですか?」
「ああ、それは備え付けのやつみたい。他にも冷蔵庫や洗濯機、エアコンとか
 付いてるけど、ずいぶんと汚いわねぇ。ベッドはそれほどでもないけど。」
そのベッドは窓際に置かれていた。
窓は一応南向きで、むかいには瓦屋根の民家が少し不規則に小さな庭や畑を
はさみながら結構向こうまで並んでいて、その奥に鮮やかな緑の山々がある。
この窓から見える景色は、美術館にある絵画のように僕の心を引き付けた。
綺麗だった。
あと、この部屋には、アパートの一番端の部屋だから西側にも窓がある。
そこからは、下に、湾曲したコンクリートの道路、その向こうにはさっき見た
商店、その向こうにもいくつかの民家があってその奥に例の無人駅がある。
ちなみに、部屋の北側にはドアとキッチン、風呂、トイレ。
東側は、押し入れ。
下は茶色っぽいじゅうたん。
上は天井、照明付き、といった感じだ。
「あら、意外にお風呂もトイレもきれいね。」
と風呂場でごそごそやっているミサトさんが言った。
「ミサトさん、やっぱりここ狭すぎますよ。どこか、他のマンションに・・・・・・」
「あん、ほら、シンジ君。車の中の荷物早く持ってきて。」
僕の意見は、却下されたようだ。
「・・・・・・はぁ。」
溜息をついてから、荷物を取りにドアのノブを回す。

全ての荷物を運び終えて部屋に戻ったとき、ミサトさんがなにか紙に書いていた。
「ミサトさん、どうしたんです?」
最後の荷物を玄関においてから僕は言った。
「ああ、これから買物にいくのよ。」
「そうですか。」
「そうですか、じゃないでしょ。シンジ君も行くのよ。
 あ、そうそう、その前に点滴、点滴。」
そう言うと、ミサトさんはさっき僕が運んできた段ボール箱を開けはじめる。
その箱は、宇都宮の病院から強奪・・・・・・・・いや、買ってきた医療品の数々。
と言っても、医療品なだけに普通の人は簡単には手に入らない。
そこをミサトさんはネルフの名前を使って切り抜けたようだ。
「ほら、シンジ君手伝って。レイの腕の包帯取るのよ。」
「なにするんですか?」
「点滴って言ったでしょ。」
「え、そんなことやっていいんですか?」
「大丈夫よ、これでも昔は看護婦の真似ごとやってたから。」
げげっ・・・・・・と思う。
「ほ、本当ですか。知らなかった、ミサトさんが看護婦さんだったなんて。」
「まあねぇ、小さい頃はよく看護婦さんごっこやったから。」
僕はミサトさんの手を慌てて止めた。
「そ、そんな事で、安易にやらないでくださいよ。」
「大丈夫よ、血管のあるところに突き刺せばいいだけなんだから。」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」

それから、綾波の腕の2、3ヵ所が膨れあがった。
「ふぅ。今回はオッケーね。」
「大丈夫ですか?この膨れあがったところ。」
「いいのよ、男の子は細かいことを気にしない。それより、早く買物行かなきゃ。
 冷蔵庫もこんなに汚いし、カーテンも汚いし、エアコンも汚い。
 それに色々と必要なものがあるでしょ。」
当たってなくはない。
「それじゃあ、出発よ。」
「あ、綾波は置いてっていいんですか。」
「しょうがないじゃない。ちょっとの間辛抱してもらいましょ。」
少し心配だったけど、ミサトさん一人じゃ大きな物を運べそうもない。
しょうがなく僕は一緒に買物にいくことにした。
「じゃあ、これ着てね。」
と僕の前に紙袋を差し出す。
「なんですか?これ。」
「今までの格好じゃ、私たちだってばれちゃうでしょ。
 だから、変装するんじゃない。」
紙袋の中にはジーパンとTシャツ、蝶ネクタイ、帽子、サングラス・・・・・・・・・・。
どう見ても全部を身につけたら怪しい人になってしまう。
「これって、変じゃありません?」
「そんなことないわよ。シンジ君かっこいい、シンジ君最高!」
「バカにしてませんか?」
「ぎくっ、なに言ってんのよ。そんなわけないじゃない。」
「それよりも、ミサトさんはなに着て行くんです?」
「ああ、これよ、これ、レイの部屋にあった予備の制服。」
「・・・・・・・・・・こ、これ、僕の学校の制服じゃないですか。」
「そうよん、いけない?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
反論するべきだろうか?
それとも妥協するべきだろうか?
僕は0,0015秒間考えてから、ミサトさんに言った。
「やめてください。」

一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

夜の7時。僕達の部屋は恐ろしいことになっている。
テレビやエアコン、MDラジカセ、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、ソファー・・・・・
を買うと言ったミサトさんの主張をなんとか押さえ付けたのはよかったけれど、
小さいもの、たとえば、皿、茶わん、お碗、等の食器類、シーツ、バスタオル
などのタオル類、レトルトカレーや缶詰などの食品類。
最後に小さい食器棚と布団とカーテンが8畳の部屋に埋まっている。
それでも寝ている綾波は少しすごいと思った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・さあ、どうしようか。」
ミサトさんが、口をもぐもぐさせながら言う。
「マクドナルドのポテトって、冷めると美味しくないですね。」
と一本のポテトを空でぷらぷらさせながら僕は言った。
「はぁ。」
「はぁ。」
「おいしいわぁ。」
皮肉だな。

夜11時。狭い部屋に二つの布団と一つのベッド。
ようやく布団を二つ敷けたけど、それだけで精一杯の状況だった。
僕の上には綾波が、そして横にはミサトさんが寝ている。
僕は、ただ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眠れなかった。
周りからは、綾波の寝息と蛙等の虫類の鳴声だけが聞こえてくる。
それ以外は・・・・・・ほとんど聞こえてこない。

「シンジ君、眠れないの。」
「・・・・・・・・・・はい。」
「そうよね、流れるようにここまできたんだから。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「でも、私は、あなたが本気でレイのこと考えてると思ったから、
 こんな所まで連れてきたのよ。それが、レイにとってもシンジ君に
 とってもいいことだと思ったから。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 シンジ君はどう?シンジ君はこうやってレイをかくまうことが
 自分にとってもレイにとってもいいことだと思ってる?」
「・・・・・・・・・・・・・・よくわかりません、でも僕は綾波に死んでほしくなかった。
 それだけなんです。」
「それだけでも・・・・・・・・・・立派な理由だわ。」
「これから僕達、どうなるんですか。」
「どうって、三人で生活するんじゃない。つらいことだらけかもしれないけど。」
「・・・・・・・・・・・・・・どうして、ミサトさんは僕のためにこんなことしたんですか?
 ミサトさんの生活を壊してまで。」
「シンジ君のためだけじゃないわ、私のためでもあるのよ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私も、もう、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嫌なのかもしれない。
 もう寝ましょう、私、明日、第三新東京市にもどってやらなきゃいけないこと
 があるから、しばらくレイのことよろしく頼むわよ。おやすみ。」
「えっ、あ、はい、おやすみなさい。」


その後も、カーテンを通して空が不気味に青白く光っているような気がして、
恐くて恐くてしばらく眠れなかった。












僕は西側の窓を開ける。
朝のすがすがしい空気が部屋に入りこむ。
窓の外には、制服を着た僕と同じくらいの中学生や、背広を着た中高年ぐらい
の人が、小さな駅に向かって一日をはじめようと歩いて行くのが見える。
朝の光が刻一刻と白さや強さを増し、町が動きはじめる音が遠くから聞こえてくる。
僕は目線を部屋のなかに移す。
東側の押し入れの上にかかった時計を見ると、もう8時を示している。
ミサトさんが出ていってから、もう2時間近くたったのか。
僕は背中をまるめて布団を片付けはじめる。
僕のをしまってからミサトさんのも。
布団に顔を埋めて、両腕をじゅうたんとそれの間にいれる。
うっすらいい匂いがした。
持ち上げて押入にしまう。
さぁ、大体のことは終わった。

窓の外の人々は、前を向き、腕を振って歩いてゆく。

僕はこれから何をしたらいいんだろう。
いつもだったらちょうど学校に行く時間だ。
でも、今となっては・・・・・・・・・・・・・・・。
僕は正直にいって、自分が何をしなければいけないのかわからなかった。
ミサトさんに言ったとおり、確かに綾波は救けたかった。
でもここにきて一体僕は何をすればいいんだろう?
何をしていけばいいんだろう?
エヴァンゲリオンに乗らない僕を、今は誰が必要としているんだろう。
あれに乗らなければ、誰も僕を見てくれない。
僕に優しくしてくれない。
僕はエヴァに乗っていたから、僕だったのに。
綾波はもう殺されなくなったのかもしれないけど、
僕は・・・・・・僕はどうなるんだろう。


朝なのに外の方が暑いということにようやく気付いた僕は、
西側の窓をゆっくりと閉める。
エアコンの効いている部屋のなかは、それなりに涼しかったけど、
新しい部屋の匂いにはなかなか慣れなかった。
ふと下を見ると、ノートの切れ端が落ちている。
ミサトさんが残していったメモだ。
それを見て、はっと、思い出す。
そうだ、綾波に点滴しなくちゃけないんだった。
慌てて冷蔵庫の把手を引っ張り、点滴液を取り出す。
点滴液って冷蔵庫に入れるものだったっけ?
と、僕の頭のなかで小さい疑問が沸き上がるけど、深く考えてる暇はない。
冷たくなったそれを手に取り、狭い部屋の中で小刻みに走る。
ベッドの横でしゃがみこみ綾波の上の布団をめくりあげる。
なにかいやらしい事をしたみたいで少しドキドキする。
チラッと綾波の顔を見るけど、さっきと変わってない可愛い寝顔だった。
僕は布団の間から綾波の白く冷たい左腕をだす。
一発で成功させなきゃいけない。
ミサトさんの時のように、何回も綾波の腕に傷を作りたくないから。
そう思った僕は、慎重に白い肌に針を刺す。
・・・・・・・・・・・・・・どうやら、うまくいったみたいだ。
腫れ上がった場所はない。僕は心から安心した。
きっとミサトさんがここにいたら悔しがってるかな?
一回で成功させた僕に。
これからは、僕がやることにしよう、ミサトさんも僕がやるのを見たら、
きっと同意するだろうな。
・・・・・・・・そうだよな、そうだった。これからの綾波は自分じゃ出来ない事が
どんどん増えてくるはず。
だから、誰かが彼女を支えなきゃいけない。
そう、僕だ。
僕が支えなきゃいけないんだ。
だって、綾波を傷つけたのは、僕でもあるんだから。
僕のために自爆なんて事をしたんだから。
僕は綾波の世話をしなくちゃいけない。
綾波があの時救けてくれなかったら、僕は
この世のなかに存在していないかもしれないから。
そう、僕が救けなくちゃいけない。
僕は綾波を救けなくちゃいけない。
きっと、彼女もそれを望むはずだから。
ミサトさんと一緒に、綾波を救けるんだ。
僕が彼女の右足、いや、それ以上のことをしなくちゃいけないんだ。
彼女が命をかけて守ってくれた僕のからだ。
そう、いま僕がここにいれるのは、全部綾波のおかげなんだ。
僕は彼女を救けなければならない。
それが僕に出来ること。
僕に出来るつぐない。
僕が今しなければいけないことなんだ。


僕は、必要とされているんだ。


一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一

ミサトさんが第三新東京市に出発してから、もう三日がたった。
やっぱり、ミサトさんがいないと少し心細い。
何かあったんだろうか。
それに、今だに綾波は目をさまさない。
もう目覚めてもいいころなのに。

この三日間。僕は特に何をするわけでもなく、家で食器の整理とか、
大掃除とか、近くの商店に買物にいったりとか、綾波の点滴を取り替えたりして
過ごしていた。
その他にも、ミサトさんと買物にいったときの色々なものが
送られて来る。
最初に送られてきたのはノートワープロ。
ミサトさんが仕事に使うそうだ。
次に送られてきたのは車椅子。
もちろん綾波のため。
次には特殊なテーブル。
これは、綾波のベッドに取り付けるものらしい。
とにかくこの狭い部屋に何人もの運送屋さんが来るので、
いつ綾波の存在がばれるかドキドキしていた。
というわけで、こんな生活を送って早くも三日がたった。

僕はいつも通り、今日も西側の窓を朝8時に開ける。
「ミサトさん、本当に遅いな。」
独り言も淋しいのか、癖になりつつあった。
窓からはいつものむっとした空気、やかましい蝉の鳴声、
8時5分の列車の音がゆっくりと入り込んでくる。
「さぁ、今日は掃除機かけなきゃ。」
ちょうど昨日来た掃除機を初めてかけることにする。
僕は少しだけこれが楽しみだった。

午前中はいつも通り掃除してから、綾波の点滴液を取り替える。
自分に失敗はしないという自惚れを持っていたせいか、今日は失敗してしまう。
「綾波ごめん。」
と今だに夢の世界にいる彼女に、僕はあやまる。
二回目は成功したけれど、失敗しても文句を言われないのをいいことに、
僕は少し調子にのっていたのかもしれない。
僕はもっと反省するべきだと思った。
点滴の後は、綾波の全身の包帯やガーゼを取り替える。
もちろん制服を脱がせてから取り替えるようなことは出来ない。
だから、太股の下の方から足首まで、半袖のブラウスから出ている
腕の部分、頭の包帯と、左目の眼帯を取り替える。
でもいつかは学校の制服も包帯も取り替えなきゃいけない。
まあ、ミサトさんが帰ったらやってもらおう。

というのが、僕の午前中の仕事。
これをゆっくりやると、だいたい12時になっている。
そして、自分の昼食を作る。
といってもまた缶詰だ。

食べおわると少し休憩して、DATを聞いたりする。
その後は。
昼寝。
どうも癖になってしまった。
最初は、綾波の寝顔をボーッと見ていただけ・・・・・・・それだけでも、綾波に失礼
かもしれないけど、ベッドの枕元にあごを乗せて彼女の顔をボーッと見ていると、
どうも眠たくなる。
綾波の胸の上にかかった布団がゆっくりと上下しているのを見たり、
メトロノームのように規則的な息遣いを聞いていると、
綾波は僕と一緒なんじゃないかと思う。
詳しくは説明できないけど、僕の波に綾波の波を重ねても、強くなったり
弱くなったりしないで、前と変わらない波の速さ、大きさになるような気がする。
そんな優しい気持ちで綾波を見つめていると、僕の目蓋は重くなる。
気が付くと僕はベッドに突っ伏しながら2時間ぐらい寝てしまう。
そして目蓋をこすりながら前を見て、綾波の安らかな寝顔を確認する。
僕はこの時一番安心して、一番不思議な気持ちになる。
彼女と一緒に眠りたい。
変な意味じゃなく、僕は心からそう思うときがあった。
こんな時にミサトさんが帰ってきたら、またあらぬ事を言われそうだ。

起きると、ちょうどいつも3時くらいになる。
昨日は近くの商店に買物にいったけれど、今日は特に必要なものはなさそうだ。
本当は大きい街まで買物にいきたいけど、綾波やミサトさんの事が
心配で遠出ではできそうもなかった。
それにミサトさんから貰ったお金が、底を突きはじめている。
このまま、明日もミサトさんが帰ってこなかったら、僕は水を飲むしかないよな。
だからしょうがなくどうしても必要になったときに開けて、と言われていた
食器棚の引き出しを僕は開けることにした。
お箸や、スプーンの入った下の引き出しを僕は右手で引っ張る。
しかし、何かが引っ掛かって前に出てこない。
一回、押してから、もう一回引っ張ってみる。
すると、今度は引き出しの中身がボロボロとこぼれだす。
それは僕の目のなかに入ってきた。
なんと、壱万円札の束がいくつもある。
一つの束が、なんと10個。
僕はその一つを取ってぺらぺらとめくってみる。
全部に福沢諭吉が描かれている。
「こ、これって、もしかして、100万の札束?」
ミサトさんはどうして、こんなにお金を置いていったのだろうか。
1000万円分もある。
僕はお金を全部取り出そうとした。
その時、一つの札束の下から手紙が出てくる。
白い封筒に葛城ミサトと書いてある。
僕はその封筒を手に取り中身を取り出す。

中には、二枚の便箋が入っていた。











僕はミサトさんの手紙を、読みすすめた。

『碇シンジ君へ。

 私が三日たっても帰ってこなかった場合、私は死んだと思ってください。
 本当はこんなこと言いたくはないけれど、何も知らずにただ待ち続ける
 なんて嫌だよね。だから、シンジ君には全部話します。
 私が第三新東京市に帰った理由は、私たちの足跡を隠すこと。
 今この手紙を書き終わったあと、私はこの家を出ると思うけど、
 私はそのまま車で札幌にいって、小さい部屋を借りてから、第三新
 東京市に飛行機で向かうわ。そして、諜報部にダミーのデータを書き込んで
 から、また飛行機で札幌まで飛んで、レンタカーでここまで戻ってくるつもり。
 こんなに手の込んだことをするのはもちろん、ネルフから逃げるため。
 このぐらいのことをしなければ、諜報部を欺くことは出来ないわ。
 だから、途中で見つかれば殺されるでしょうね、加持のように。
 そう、私がシンジ君と一緒にここまで来たのは、加持が死んだことも関係あるの
 かもしれない。いつもの私が、こんなことするなんて考えられないもの。
 私もシンジ君が言ったように、誰にも死んでほしくなかったのかもしれない・・・・。
 シンジ君。レイのことたのんだわよ。
 お金は少ないかもしれないけど、大事に使って。
 そして、レイのこと守ってあげて、
 あなたしか出来ないことなんだから。
 絶対に逃げたりしないでね。
 あなたを信じている。
 じゃあね。

                      葛城ミサトより
                                     』

僕は、その手紙をくしゃくしゃに握り潰す。

そんな気はしていたんだ。
ミサトさんは、もう帰ってこないって。
僕達を置いて逃げたんじゃないかって、二日目の夜そう思った。
でも、ミサトさんは僕達のために、命を投げ出した。
死んでしまうとわかってて、第三新東京市に行った。
僕にはわからない、ミサトさんの気持ちが。
どうしてこんな卑怯で情けない僕のために死ねるんですか。
逃げたなんてこと考える僕なんかのために、どうしてミサトさんは
死んじゃうんですか。

僕は・・・・僕は、ミサトさんが好きだったのに。





「ここ、どこ?」
脱け殻になった僕に、後から誰か語りかける。
その彼女の独特の声は、僕に驚きと静寂を与えてくれた。
「あ、綾波。」
涙は止まっていた。
「碇君?」
「あ、綾波、気が付いたんだね。」
「ここ、どこ?」
「うん、話せば長くなるんだけど・・・・・・・・・・ここは秋田の田舎町なんだ。」
綾波は、天井を見上げてから、今度はベッドの横にある南側の窓に目を移す。
「どうして、こんな所にいるの?」
僕は、本当のことを話すか、話すまいか迷った。
でも僕は・・・・・・・・・・。
ミサトさんの励ます声が、僕の心に響くような気がする。
「うん、正直に言うよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 実は、綾波は、僕を救けるために、エヴァのコアを破壊して、・・・・・・・・・・
 自爆したんだ。そして、全身傷だらけになったんだ。」
僕は一回、話を止めた。
「それで?」
綾波は、僕の瞳をじっと見つめている。
僕は、それが絶えきれなくて、そらしてしまった。
「それで、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・綾波の代わりに
 他の綾波が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・生まれてしまったんだ。」
「そう。それで、私は、どうしてここにいるの?」
と彼女は僕に詰め寄る。
「え、うん。そして、綾波が生きてるのを知った僕はミサトさんにお願いして、
 ここに連れてきてもらったんだ。そうしなきゃ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・綾波は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 殺されていたかもしれないから。」
僕の言葉がどれほど綾波を傷つけたかわからない。
もっと、違う言い方があるはずなのに、僕は。
「そう。じゃあ、碇司令もこのことは知らないのね。」
「え、う、うん、そうだよ。」
「そう。」
綾波はどうして、悲しそうな素振りをしないんだろう。
悲しくて辛いけど、現実を気丈に直視しようとしているのだろうか。
彼女はしばらくの間、何か考え込んでいるしぐさをしてから、
ゆっくりと、起き上がろうとした。
「あ、だめだよ、まだ起き上がっちゃ。」
綾波は苦痛に顔を歪め、上半身を起こし、ベッドから足を出して立ち上がろうとする。
「うっ。」
と唸り声を上げ、前のめりになって倒れる綾波。
僕はとっさに両腕で抱えようとした。
「あ、綾波。」
綾波は自分が転んだ理由に気が付き、右足を見る。
「これ、どうしたの。」
冷たい目で、僕を睨む。
逃げちゃだめだ、ミサトさんだって言ってたじゃないか。
「そ、それは、あ、綾波が、じ、自爆したときに。」
「そう。」
綾波の心に氷柱を突き刺したはずなのに、彼女の表情は変わらなかった。
「碇君。」
と僕の方を見る。
「な、なに。」
「電話貸して。」
と言ったように聞こえた。
綾波がなんでそんなことを言うのか、まるでわからない。
「ど、どうして?」
「碇司令に電話するの。」
一瞬、僕の周りの時間が止まる。
「な、何を言うんだよ。父さんに電話したら綾波は殺されちゃうんだ。
 だから、僕は大変な思いをして、綾波をここまで連れてきたんじゃないか。
 それに、僕達を救けるためにミサトさんは・・・・・・死んじゃったんだよ。
 僕だって、綾波の面倒を色々と・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」


僕の言葉は途中でさえぎられた。

パンッ

綾波の右手が、僕の頬をたたく。


「勝手なことしないで。」





そうだった、綾波は言っていた。
自分には、エヴァしかないって。
エヴァに乗るのは、みんなとの絆だって。



僕は綾波の絆を断ち切っただけだったんだ。



僕は、必要とされてはいなかった。

 


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