2002年
水戸の屁のこと
ろうそく能
ヤボったさの価値

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水戸の屁のこと

小川芋銭の絵を見に行った。小川芋銭は「カッパの芋銭」と呼ばれたほど、カッパの絵をよく描いた。カッパ以外にも妖怪や魑魅魍魎の類いも多く描いている。牛久沼のほとりに住み、夕暮れなどには沼に妖怪がよく現れた。少なくとも芋銭の目にはそのように見えたようだ。芋銭の描く妖怪たちに怖い感じは受けない。むしろ優しく、親しみやすい表情をしている。
その芋銭の絵が茨城県立近代美術館で公開されていたので、行ってみたのだ。水戸市の千波湖のほとりに整備された公園内のきもちのいい場所にある。偕楽園はその対岸にある。良く晴れた天気の良い日で、秋の日差しが心地好い。
美術館に行って見ると大きく「ドイツ表現主義の芸術展」と書かれた看板がかかげられていた。「あれ?芋銭展じゃなかったのかな?」と思って探してみると、常設展示室でひっそりとやっていたのだった。
そんなわけで、常設展の料金で入ることができた。
出てから気がついたのだが、企画展の「ドイツ表現主義の芸術展」ではカンディンスキーの絵が出ていたらしい。「ドイツ表現主義」と言われてもピンと来なかったのだが、カンディンスキーがあるなら、見てもよかった。
常設展示室に入る。最初に目に入ったのは、老婆を描いた油絵だった。意外に思ったが、芋銭が最初に学んだ絵は油絵だったのだ。そして、後に日本画を独学で学んだ。 芋銭の絵は日本画というよりは文人画と言った方がふさわしく、絵のうまさというよりは、親しみやすい柔らかな感じを楽しむものだ。
水辺のほとりなどの妖怪たちの楽しげな世界にしばし現実を忘れて楽しんでいた時のことだった。近くで絵を見ていたおじさんがいきなり放屁した。隠れるように「ぷ」という音を出したのではなく、体に溜ったすべての気体を最後まで音を出しながら放出したのだ。
静かな美術館のこと、その音は室内に大きく響いた。まったくの確信犯である。当人は何事もなかったかのように、どこかに去っていった。
その出来事にびっくりしたものだが、その先にあった芋銭の絵を見て納得した。それは巻物なのだが、始めに多くの男達が芋やご飯を食べている絵が描かれている。男達は食べ終わったところで、おもむろに尻をめくり、放屁している。二人が放った屁が空中でぶつかっていたりして、ものすごい。しまいには、近くにいた動物達も鼻をつまんで退出する始末だ。
さっきのおじさんもこの絵の登場人物だったのか。
それに、ここ水戸は黄門様のゆかりの地ではないか。妙に納得した。
(2002/10/13)

ろうそく能

能を見に行った。普段と違い電灯を消してろうそくの明かりで照らす趣のあるものだ。舞台の周囲に何本もの太いろうそくを並べてあり、意外なほどに明るかった。演目は狂言が「金藤左衛門」、能が「百万」。
狂言の方はあまり面白くなかった。たいていの場合、会場が一回は沸く場面があるものだが、この日のはそういうことが一度もなかった。
能の「百万」は、こんな話だ。子供を連れた僧が嵯峨野の清凉寺を訪れると、物狂いの女が踊る場面に遭遇する。その女は子供と生き別れになり、そのために物狂いになったのだが、僧の連れていた子供が自分の子供であり、再開を果たす。百万とは女の名前だ。
これは世阿弥がその父・観阿弥の「嵯峨女物狂」を元にして作ったものとされる。
ちなみに梅原猛氏は「京都発見」で、その子供とは壬生寺の中興の祖・円覚上人のことであろうと指摘している。
円覚上人は、藤原広元の子として生まれるが、広元は舅・伊賀光宗の謀反に連座して、討ち死にする。母は幼児を抱いて逃げるが、やむなく東大寺の傍らに幼児を捨てる。その子はたまたま春日社に詣った京の商人に拾われ、東大寺に送られ僧になった。のちに法隆寺夢殿に詣でたところ、聖徳太子からのお告げを受け、融通念仏を広めることになる。融通念仏とは良忍が始めたもので、阿弥陀如来から直接、融通念仏の教義を授けられたという。その教義とは
一人一切人
一切人一人
一行一切行
一切行一行
是名他力往生
十界一念
融通念仏
億百万遍
功徳円満
というもので、一人の念仏は他のすべての人のため、他のすべての人の念仏は一人のためというもの。自他に融通することから融通念仏と呼ばれるらしい。
このいわくのある話に関係しているということを事前に知っていたので、能「百万」を見るのを楽しみにしていた。
もう一つ、楽しみにしていた点がある。それは、母親と子供の再会の場面である。ひしと抱きしめるのか、それとも想像もつかないような抽象的な表現でそれを表すのかという点だ。
先日、北朝鮮から帰国した5人と家族が空港で再開した時の様子を海外のメディアが「感情をあまり表に出さなかったという点で、北朝鮮人ではなくまさしく日本人の姿であった」というような報道をしていたという記事を読んだ。同じ日本人からすれば十分に感情を表に出しているではないか、と思うのだが、外国人からすると、そうでもないらしい。
そんな記事を読んだこともあって、能ではこの再会の場面をどう表現するのかを楽しみにしていた。
その場面だが、ひしと抱きあうことはなかったが、母親が子供の肩を軽く抱いて、両人とも正面を向き、言葉でその再開の喜びを語っていた。もっと思いもつかないような抽象的な表現があるかもしれないと思っていたが、まあ能らしい表現方法だろう。
能では感情をできるだけ抑えて表現する。あらゆる枝葉をそぎ落とした中に、ものごとの本質を見いだすというのは、能ばかりではなく短歌や俳句、禅にも共通する。
万葉の時代から短歌の三十一文字(もそひともじ)に親しんできた日本人にとって、こうしたそぎ落としは理想とするものであり、こうした中から繊細な感情を培ってきた。 外国人からは無表情と言われる日本人だが、その中には繊細な感情が込められている。別にそれでいいではないかと思う。それが日本人なのだから。 (2002/10/24)

ヤボったさの価値

駒場の日本民藝館で棟方志功展をやっていたので、見に行った。
駒場といえば大学の卒業研究で、ここにある宇宙科学研究所によく通ったものだった。
卒研の研究室の先生が多忙だったためか、同じ研究室の大学院生が三鷹の国立天文台の先生のところに通わされていて、その道ずれで行くことになったのだ。
ただ、三鷹までいくのは遠すぎるからということで、そこの大型コンピュータと接続されているコンピュータがある宇宙科学研究所に行くことになった。インターネットが普通に使えるようになるはるか前のことだ。今なら通うことなくインターネットを通して大学からでも作業ができただろう。インターネットは便利だが、もし、その時に駒場に通わずに作業をしていたら、この街に対して何の思い出も残すことはなかった。
渋谷から井の頭線に乗り換え、駒場東大前で降りると駅前には東大があり、その脇の道を静かな住宅街を抜けて研究所へ行った。その途中、日本民藝館の案内標識があるのは知っていたが、行ったことはなかった。
その当時は、バリバリの理系であったし、若かったこともあって民藝という言葉の持つヤボったさに良さを感じなかった。
ヤボったいものが持つ「味」に良さを感じ始めるようになったのは30歳を超えたころからだろうか。
ともかく、その日本民藝館のある駒場におよそ18年ぶりにでかけた。
日本民藝館は、柳宗悦が創立した。柳宗悦は、今まで芸術的価値があるとは思われてこなかった民衆が使う普通の道具に価値を見いだし、陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎らと民藝運動を起こした。
棟方志功は柳宗悦らによって見いだされた画家、板画家である。そんな由縁もあってこの日本民藝館に多くの作品が収蔵されている。
棟方志功という人はどこか縄文の香りがする。三内丸山遺跡など縄文時代の遺跡も多く発掘されている青森県の生まれであるということもあるが、その風貌や行動にも現代人離れしたものがあったためだろう。彼の作品には古代の人間が持っていた原初的な力強さと優しさを感じさせ、その感じがまた心地好く、心の内に素直に入ってくる。 学生時代、駒場に通っていた頃だったら、この人のヤボったさを感じさせる作品を好きになることはなかったように思える。
宇宙研へ行く道は思い出せなかった。記憶の中にあった駒場の街は以前とは違う感じがしたけれども静かな住宅街に、日本民藝館の落ち着いた古い建物はその場にふさわしくたたずんでいた。
(2002/11/4)

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