山中越から比叡山へ
翌朝、車で東大路通りを北上し、北白川別当という交差点を左折する。左折するとすぐに山間のうねった道となる。この道は、京都と琵琶湖畔の坂本を志賀峠を経由して結ぶ山中越と呼ばれる道にほぼ沿って通っている。平安時代には志賀の山越え、中世には今道越と呼ばれた。北白川のあたりには、後高倉院の北白川殿(どの)、藤原公任(きんとう)の北白川別荘などがあった。その名残なのか、いまでも瀟洒な山荘風の家が目につく。
関東に住んでいると、近くの山に行くだけでもそれなりの時間がかかるものだが、京都は街と山が接近していて、にぎやかな街からほとんど時間をかけずに山中に入れる。東山だと山の麓ぎりぎりまで街があるので、街と山の中間が存在せず、急にまるっきりの山中に入ってしまうのが面白い。
その山中越から比叡山ドライブウェイへと折れ、比叡の山々へと登る。 ここに聖地のイメージはなかった。
気を取り直して国宝殿に入る。入るとすぐのところにお経を印刷するための木製の組まれた活字が展示されていた。文字の隙間を調整するためのスペーサなどもあり、なかなか本格的だ。 比叡山の高僧たちの図像もあった。中でも往生要集を記した恵心僧都源信がおだやかな顔をしているのが印象に残った。往生要集とは、念仏往生のための入門書のようなもので、どのようにすれば阿弥陀如来のいる極楽浄土に行けるのかが書かれる。そしてもっともこの巻物を有名にしているのは地獄の様子が微に入り細に入り描かれているという点だ。その作者であれば、閻魔大王のような顔をしているのではないかと勝手に思っていたのだが、実際はどちらかというと人のいいおじさんタイプだった。 国宝殿を出て少し登ったところに大講堂が建っていた。本尊として胎蔵界大日如来が祀られる大きなお堂だ。お堂には法然、親鸞、栄西、道元、日蓮の画像が比叡山の高僧に交ざって置かれていた。いずれも比叡山で修行し、やがて山を降りて自らの宗派を作った祖師だ。降りた理由は、当時の比叡山の僧の腐敗や教えに疑問を抱いたためだったはずだし、比叡山がそれら新しい宗派に対して弾圧を加えたこともあったはずなのだが、今の比叡山はその彼らをここから生まれた祖師として讃えている。虫がいいというか、今の比叡山にかつての権力がなくなったからというべきなのか、少し不思議な感じがした。
ここを下ったところに根本中堂があった。最澄が延暦7年(788)に一乗止観院を建て、自ら刻んだ薬師如来像を安置した場所が、今の根本中堂のある場所とされている。門を入ると中庭があり、中庭を囲む回廊を通ってお堂に入るようになっている。 |
比叡山から見た景色 |
西塔、そして横川
東塔から車で西塔に移動する。駐車場で練馬ナンバーのプジョー206XSが止まっているのを発見する。グレードまで同じ車と同じ駐車場で鉢合わせするのは初めてだ。 林の中の道を降りていくとにない堂と呼ばれる建物が見えてくる。にない堂は法華堂・常行堂の2つの建物を総称して呼ぶ。この2つの建物は渡り廊下でつながっている。常行堂には修行中なので静粛に、と書かれた立て札が立てられていた。近寄ると中から低い声が漏れ聞こえてくる。声明の練習だろうか。 ここから長い石段を降りていったところに釈迦堂がある。建物の構造は根本中堂と同じで、内陣と外陣がある。ただし、内陣は根本中堂ほど深く掘り下げられていない。釈迦堂は正式には転宝輪堂とよばれる。本尊は清凉寺式釈迦如来像。
再び車に乗り込み横川へ。横川中堂は舞台造りの建物で、本尊は聖観音となっている。一体一万円で納められた小さな聖観音が室内を取り囲むようにずらりと並んでいる。横川中堂を出てしばらく歩くとやがて四季講堂がある。四季ごとに法華経などをここで論議するのでこの名があるのだという。ここは元三大師の住房の跡で、元三大師が本尊として祀られている。元三大師は10世紀に実在した人物で、その名前を良源といった。正月三日に亡くなったので元三大師と呼ばれる。 駐車場に戻るとさっき西塔に置かれていた206がすぐ横に停められていた。 |
西塔の常行堂 |