抜群の演出、浄土寺

  石清水八幡宮を出て高速に乗り、兵庫県小野市にある浄土寺に向かう。
この地には平安末期に奈良・東大寺の荘園が作られた。その後、東大寺は平重衡による南都焼き討ちにより焼失する。そのときの東大寺再建を重源という僧侶が担った。重源は全国各地に勧進を行い、再建費用を集めた。この地は特に荘園があったということもあり、東大寺との繋がりが強く、再建に協力してもらうためということもあって浄土寺を建てた。重源は阿弥陀如来に強く帰依し、自らを「南無阿弥陀仏」と名乗った。そして、この重源と密接な関係があった仏師に快慶がいる。快慶も重源の影響を受け、阿弥陀如来に帰依し、仏像の署名として「安阿弥陀仏」と記した。

この浄土寺は重源と快慶による共同作業によって生まれた。浄土寺浄土堂に安置される仏像はもちろん阿弥陀三尊だが、これが普通ではない。阿弥陀如来は、像高5.3メートルもの大きな像で、お堂の西向きに開いた透かし蔀戸から入り込んだ西日が阿弥陀如来の背後から差し込むようになっている。つまり、地上に西方阿弥陀浄土を演出しているのだ。 お堂が西向きから光が入るようになっているだけではなく、すべての柱は朱に塗られ、天井板ははらずに棟木がそのままむき出しになっている。すべての垂直に立つ円柱と円柱の間は2段の棟木が水平に交わり、柱が交わる部分は雲形の肘木が支えている。これらの柱によって、夕日の赤と柱の朱が交ざり、西方浄土を強調するのだ。

浄土寺の駐車場で車から降りたのは4時頃。夕日に染まる阿弥陀如来を見るにはちょうどよい時間だ。
さっそく浄土寺浄土堂に入る。まず、阿弥陀三尊の大きさに息を飲む。背後からはわずかに赤く染まった夕日が入り込んでいる。その場に座ると光の反射によって顔の表情が変わる。下から見上げる阿弥陀の顔は威厳があり、それでいて慈愛に満ちた包容力のあるまなざしで見守ってくださる。
そのまま座って見ていると夕日が沈んでくるに従い、表情が変わってくる。差し込んでくる光が弱くなると、明らかに金箔が貼られた体に反射する朱の色がだんだんと濃くなってくる。
阿弥陀如来は、臨終の際に阿弥陀浄土から迎えに来てくれる仏とされる。こんな仏が迎えに来てくれたらどんなに心が休まることか。

2人とも言葉もなく、気がつくと30分ほどじっと座っていた。あまりのすごさに動けなかったと言ったほうが正解かもしれない。

浄土堂を出て、境内を歩いた。さほど広くない境内の中央には池があり、それを取り囲むようにいくつかの建物が建っている。その中に経蔵と書かれた建物があった。格子戸の向こうに維摩居士らしき像が見えた。その格子には2つの絵馬がくくりつけられていたのだが、1つは平成5年、もう1つは平成6年のもので10年近く経っている。その前の賽銭箱には短冊のついた笹が乗せられている。七夕からはすでに2ヶ月も過ぎている。旧暦の七夕だとしても1ヶ月だ。ここは時間が止まっている。

浄土堂の阿弥陀浄土の印象を引きずったまま浄土寺をあとにした。 来る途中に見えた小野サティに寄った。ここでは阪神優勝セールをやっていた。ここに来てようやく我々の時間は現代に戻り、食材を買い込んで京都の宿に戻った。


浄土寺浄土堂

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