石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)とおーモーレツ
翌朝、滞在中に飲むお茶を買うために、寺町通りの一保堂に行った。京都の老舗の茶屋で享保年間に近江屋という屋号で創業し、当初は茶、茶器、陶器を扱っていたという。その後、近江屋の茶が評判となり、山階宮から「茶、一つを保つように」と「一保堂」の屋号を賜ったとのことだ。今の建物はいつ建てられたものなのかわからないが、かなり古そうだ。店内では常連らしい人が白衣の店員から大きめの手提げ袋いっぱいに入ったお茶を受け取っていた。
その後、石清水八幡宮へ行った。神社は木津川、宇治川、桂川の合流点にある男山の頂上にある。かつては雄徳山と書いておとこやまと読んだようだ。西暦859年に奈良・大安寺の僧・行教が九州の宇佐神宮に参ったときに「われ都の近くに移座し国家を鎮護せん」との神託を得、翌年、清和天皇の命により、この男山に社殿が建立された。
石清水八幡宮の祭神は誉田別尊(ほむだわけのみこと)・比売大神(ひめおおかみ)・息長帯比賣命(おきながたらしひめ)。誉田別尊は応神天皇であり、この神のことを八幡神と呼ぶ。 応神天皇は、神功皇后の新羅出兵のときにおなかにいた子供で、事が終わって帰るまで生まれないで欲しいと石を腰にはさんで祈った。そして、新羅を降伏させ筑紫に戻ってから天皇を生んだと日本書紀・古事記に書かれている。
ところで、神功皇后の夫、仲哀天皇には不思議な話がある。仲哀天皇が熊襲征伐のために九州・筑紫に赴いたときのことだ。天皇が琴を弾いているとき、皇后が神がかりになり、「西の国には金銀の財宝が山のようにある国がある。私がその国を服従させてあげよう。」と神の言葉を言った。しかし、天皇は信じないでいると、その神は怒り、「そなたはこの国を治めるべきではない。黄泉の国に行け」といい、やがて天皇の弾く琴の音が聞こえなくなった。周囲のものが火を灯してみると天皇は事切れていた、という話が古事記に載っている。神功皇后は、このあと新羅に出兵し、帰国後応神天皇を生む。
それにしても仲哀天皇の立場の弱さはどうだろう。
だいぶ話がそれたので元にもどそう。 やがてケーブルカーが動き出すと、車窓からはるか遠くに木津川流域の街が見えてくる。トンネルを抜けると頂上の駅に到着した。 少し登ると本殿前から両側に石灯籠がびっしりと立ち並ぶ長い参道の横に出た。 ほとんど何も調べないで行ったのだが、到着した前日には大きな祭礼があったらしい。祭りの後の静けさで、境内はひっそりとしていた。
帰ってから調べるとそれは石清水祭といい、午前2時に3基の御鳳輦(神輿)に三座の神霊が移されるところから始まる。移された神霊は、神人(じにん)と呼ばれる人々にかつがれ、松明に照らされた闇の中を厳かに本殿から麓の絹屋殿へと運ばれる。そこで里神楽や神馬の牽き回し、雅楽の奉納が行われたあと、朝8時に男山の東を流れる放生川で魚や鳥を放つ放生行事があり、胡蝶の舞が奉納され、夕刻に再び本殿に神霊が戻り終了するというものだ。 参拝を済ませ、まっすぐな参道を戻ると神馬舎があった。馬の姿は見えないが、どこからともなく音楽が聞こえてくる。横に回ると白馬がいるのが見えた。ちょうどおじさんがラジオをかけながら馬を洗っていたのだった。 再びケーブルカーに乗り込み、山を降りる。麓のホームに置かれた「ひえぞうくん」がだんだん大きくなってくるのが見えてきて、やがて到着した。
山の麓には一の鳥居があり、この鳥居の奥に高良社(こうらしゃ)という神社がある。徒然草に石清水八幡宮に詣でた僧の話が出ている。この僧は石清水八幡宮に参拝しに出かけたが、勘違いして麓の高良社に詣でただけで帰ってきてしまった。「皆、山に登っていたが自分は神に詣でるのが本意だから、山登りはしなかった」という僧の言葉を引いて、兼好法師はその僧の半可通さを皮肉っている。 |
石清水八幡宮の一の鳥居 |