神の棲んでいた山、伊吹山
世代閣を出て車に乗り込み、南へと向かう。
南下するにつれて伊吹山の姿が見えてくる。伊吹山は古事記や日本書紀に出てくる山で、東国平定を命ぜられた倭健命(やまとたけるのみこと、日本書紀では日本武尊)が、平定を終えて帰ってきたときに、伊吹山の神を討ち取りに行ったところ神の怒りに触れ、それがもとで命を落とす。 伊吹山は神の棲む山だけあって、威容を誇っている。遠くにかすんでいた矢吹山はやがてはっきりと見えるようになってきた。山の形が削り取られたようにおおきくえぐられている。セメント工場が山を削ってしまったらしい。スキー場もあるようで、これではかつて神の棲んだ神秘の山もまるで形無しだ。 倭健命は伊吹山から下りた後、玉倉部の清水で休み、正気を取り戻した。その清水を名づけて居醒の清水というと古事記に書かれている。その居醒の清水とされる場所がいまでもある。行きたかったのだが、場所がよくわからず、日も落ちかけてきたので、先を急ぐことにした。 |
神の山、伊吹山 |
お伊勢参らばお多賀へも参れ
国道8号線を南下する。のどかな田園風景がトンネルを抜けると一転して建物の多くなった。彦根だ。国道306号線へと左折し、しばらく走ると多賀大社に着いた。
多賀大社は、古事記の神代の巻に「伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)は、淡海の多賀に坐すなり。」と書かれる古社だ。現在の多賀大社は、伊邪那岐大神、伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)の二柱を祀る。
多賀大社の東北東4キロ先に杉坂峠がある。ここは、伊邪那岐大神が天降り、食事に使った箸を地面に挿したところ、成長したとされる杉の大木があるところだ。当初、この山上で祭祀が行われていたことを示している。
多賀の里の神だった多賀大社はやがて全国規模の信者を持つ神社となる。 夕方ということもあり、大鳥居の前に横たわる参道はひっそりとして人の気配がなかった。多賀大社へは車の場合は、彦根と桑名・亀山を結ぶ国道306号線のある東から行くことになるのだが、これはかつての参道とは逆の方向から入っていくことになる。もともとは神社の西にある中仙道から一の鳥居をくぐり約3キロの参道を歩いた。 神社の前の参道には、お土産屋と旅館があるのは当然としても、本屋や肉屋などの地元の人のための商店もあった。この参道の長い歴史を感じさせる。
大鳥居をくぐると正面に、太鼓橋があった。多賀大社の場合、太閤秀吉の寄進を受けて作ったため、太閤橋と呼ばれている。こうした太鼓橋は古くからある大きな神社でよく見かける。神が通る橋なので、通常参詣人は渡れないという神社もある。多賀大社の場合は渡れるのだが、あえて勾配が急な太鼓橋を避けて、横にある平らな橋を渡った。 境内では何かの工事中で、作業員が小型のパワーショベルで穴を掘っていた。作業員の一人はなぜか犬を連れていた。もしかして、犬が地中に埋まるお宝を見つけたのか、と思ったが、作業員の間にお宝発見の緊迫感はただよっているわけではなく、ただの工事であるようだった。それに作業員の一人と見えた犬を連れた人物も作業員風の服装をしていた近所の散歩のおじさんだったようで、やがて工事現場を離れていった。 |
多賀大社の太鼓橋 |
彦根城下
日本では古来から藤原京、平城京、平安京など、計画的な都市は皆、格子状に作られてきた。井伊家が琵琶湖畔に建てた彦根城の城下町も、きれいな格子の道が作られている。 家康は江戸には格子状の都市は作らなかった。外的からの防御のためにわざと入り組んだ道を作ったのだと言われている。そのために今の東京の道はひどく入り組んでいる。家康が伝統どおりの都市を作っていたら、今の東京の様相はまるで違っていただろう。
彦根の駅前のスーパーマーケットで食材を買った。今日からの宿はキッチン付きのリゾート型宿泊施設なので、滞在中の食材をここで買い込んだのだ。途中、近江牛を売る肉屋があった。いい肉は結構な値段がするのだが、やはり買わないわけにはいかない。普段の生活では絶対に買わないような金額の肉を買った。 |
二度と買うことがあるかどうかという高級近江牛 |