観音の里へ

  再び同じ船で長浜港に戻る。ホテルの駐車場に置いておいた車に乗り込み、国道8号を北へと走らせ、渡岸寺へと向かった。
周囲がだんだんと田園風景となり、そのうち「十一面観世音菩薩」と書かれた案内標識が見えた。道端に誰かが置いた案内標識ではなく、道路の設備としての標識だ。寺の名前ではなく「十一面観世音菩薩」という標識は始めて見た。さすが、観音の里と呼ばれるだけの事はある。

その標識に従って右折すると、渡岸寺の駐車場があった。車を置き、古びた家々の間の小道を通ると向源寺があった。よく「渡岸寺の十一面」という言い方をするが、渡岸寺は地名で寺の名前としては向源寺だ。十一面観音は本堂ではなく飛び地の観音堂にある。向源寺の前の三つ辻を曲がり少しいくと渡岸寺観音堂に行き当たる。観音堂というから小さなお堂があるのかと思っていたのだが、本家、向源寺よりも大きいではないか。広い境内に立派な門とお堂が建っている。

門の両脇には阿吽の像。門をくぐると境内右手に「御尊像埋伏の地」と書かれた石碑がある。ここの十一面観音は、戦国時代の戦火を避けるために、地元の住民によって地中に埋められたという。その場所がこの石碑のある場所だ。 さっそく観音堂に上がり、十一面観音と対面する。

写真やいろいろな人の文章を読んで思っていたほど官能的な印象はない。少し横にひねった腰は女性的だが少しのいやらしさも感じさせず、肩からゆるやかにかけた布とともに像に軽やかな印象を与えている。まぶたを静に閉じ、楽しい思い出でも思い浮かべてでもいるかのように、かすかな微笑みを浮かべている。内面からにじみ出てくるような笑みだ。
そして、見るものに親しみやすさを感じさせるとともに、手の指先、足の置き方など凛とした態度からはそこはかとはない気品も漂わせている。
両耳の後ろからは、歯をむき出してこちらを睨む小面がニュッと突き出ている。背後に回ると、頭の背面には怪しく笑う暴悪大笑面が見られる。歯をむき出し、すべての人間を嘲るかのように口を開けて笑っている。
本体の美しい顔が真実なのか、はたまた小面の瞋恚の表情が本当なのか。その対比に惑わされる。いや、惑わされるものがあるからこそ、人は惹かれるのだろう。

初めてこの十一面観音の存在を知ったのは10年ほど前に見た土門拳の写真ではなかったかと思う。
それは、耳の背後から生える小面や暴悪大笑面をそれぞれアップで捉えた写真だった。土門のレンズは内面をえぐりだすような迫力で像にせまっていた。 写真展の会場で足が震える思いをした。
この写真を見て以来、実物を見たいと思っていた。
ようやく来ることができた。


渡岸寺観音堂の山門

休日の石道寺

  車1台分の幅のまっすぐな道は正面の高野神社に向かってゆるやかに登っていく。道の両側はこじんまりとした石道の集落。それぞれの家の前には花が植えてあり、こざっぱりとしている。高野神社で突き当たる道を左折すると石道寺の駐車場がある。
実は、ガイドブックによると月曜日は休みと書いてあった。この日は敬老の日で祭日だった。
「今日は祭日だからやってるかもよ」
というつれに
「店じゃないんだから」
と返しながら、石道寺への道を歩く。東側の1000メートル級の山に抱かれるようにして、石道寺の小さなお堂があった。
人は誰もいない。お堂の扉も閉まっていた。格子の隙間から覗いてみると、中央に厨子があるのが見える。だが、その厨子の扉も閉まっている。この厨子に目当ての十一面観音が安置されているはずなのだが、その姿を拝み見ることはできない。
石道寺は無住の寺で、この集落の人たちが交代で管理しているようだ。 狭い境内には休憩所と書かれた小さな東屋が建てられ、集落の人の心遣いを感じる。家の前の道を掃き清め、花を植える心優しい人たちが守る寺。セミがせわしく鳴く声に包み込まれている。
お堂の縁側に座っているうちに、いつしか「百寺巡礼」ごっこをやっていた。今、テレビ朝日で毎週土曜日にやっている番組で、作家の五木寛之が百の寺を巡り、視聴者を案内する。その五木寛之の口真似をしながら、石道寺の特徴を言い合ってしばし遊んだ。

開いてなかった石道寺

己高庵って何?

  石道寺の東北の方向に己高山という名の923メートルの山がある。この山は近江の国の鬼門にあたるところから、特殊な霊山とされ、五ヶ寺とその別院六ヶ寺が造られた。その中に鶏足寺という寺があった。その寺の寺宝がいま己高山の麓に作られた己高閣(ここうかく)という収蔵庫に収められている。
己高閣に向かう途中、案内板がいくつかあったので、その矢印に従って車を走らせる。が、その案内板はよくみると己高庵と書いてある。
つれに向かって「己高庵って書いてあるけど、行くのは己高閣じゃなかった?」と聞いてみた。
「己高閣だよね。己高庵っていうのは蕎麦屋かもよ」
とりあえずその己高庵と書かれた案内板の矢印に従って車を走らせた。
やがて、大きな鳥居が見えてきた。與志漏(よしろ)神社と書かれてあり、鳥居の奥には丘の上に向かって石段が続いていた。己高庵の案内板はなおも先を指しているので、その丘の周囲の道路を走らせていると、ふいに己高閣の標識が現れた。その標識によると、細くて急な上り坂の土の道を登っていかなければならないようだ。
この坂を上ることに不安を覚えたので、おそらくこの近くにあるであろう己高庵に向かった。その己高庵はやはりすぐ近くにあった。
鉄筋コンクリートの新しい建物で、蕎麦屋ではなかったが、レストランと風呂のある施設のようだ。 空腹を覚えていた我々はまずそこで食事をとる事にした。が、その日はレストランは貸切になっていて食事はできなかった。

諦めて己高閣に歩いて向かう。さっきの與志漏神社の本殿と収蔵庫らしき建物が見えてきた。その収蔵庫のひとつが己高閣だ。ここにはもうひとつの収蔵庫があり、こちらを世代閣(よしろかく)といい、こちらには世代山戸岩寺の寺宝が収められている。
まず己高閣に入る。地元の人らしい男性が先客に説明をしていた。我々の姿を見ると「どちらから?」と聞いてきたので、「東京から」と返すと、「それは遠くからようこそ、テープを回しますからまずそれを聞いてください。」と言って、カセットテープを回し始めた。

己高閣の中央には鶏足寺の本尊十一面観音が立っていた。肌には黄土色の塗料が塗られていたあとが残っている。吊り上がり気味のまなこに、あごのあたりの豊満な感じが印象的だ。右側には七仏薬師如来立像が置かれていた。七体の薬師如来が皆、右手を胸の高さに上げ、手のひらをこちらに向け、左手には薬壺を乗せている。皆、顔も背の高さも違っていて、うち一体は手を上げた右手と反対の方向にわずかに首を曲げている。 旅館で客を見送るために仲居さんが勢ぞろいして手を振っている様子を思ってしまった。 七仏薬師の像はめずらしく他に千葉県の寺にしかないとのことだ。

テープの説明が終わると、さきほどの男性が「どちらから?」と再び同じ質問をしてきた。はあ?さっき答えたのにと、とまどっているとつれが「東京からです」と答えると「それはそれは遠くから」とまた同じようなことを言った。そして、自分で説明を始めた。しかし、もにょもにょとしゃべるので何を言っているのかよく聞き取れない。 聞き取れない説明を背中で聞き流し、適当にあいずちをうちながら、展示されている仏像などを見た。

己高閣を出て、すぐ隣に立っている世代閣に入る。
ここにも別の説明をする人がいて、説明のテープを回し始めた。戸岩寺本尊の薬師如来が中央に安置されている。どっしりとした体に逆三角形の頭をしていてユーモラスだ。両脇は日光・月光菩薩、そして十二神将が置かれる。 横には魚藍観音が安置されていた。上半身裸で手には魚の入った籠を持っている。平安初期の作であるらしい。魚藍観音の作例自体が珍しいのに、平安時代まで遡るというのは、かなり古い部類に属するのではないだろうか。


與志漏神社。その名前から古代の渡来人の面影を感じる

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