竹生島の弁財天

  翌朝、長浜から船で竹生島に渡った。琵琶湖がいかに広いかということをこの船に乗って初めて実感した。どこまでも水平線しか見えないこの湖は海と言ったほうがふさわしい。長浜港を出発してから20分ほどしてようやく竹生島に到着する。竹生島には都久夫須麻神社と宝厳寺があり、古来から神の島とされて信仰された。
船を降り、港に程近いところに並ぶみやげ物を抜けると自動券売機があり、これに入島料400円を入れ、出てきたチケットを係員に見せると都久夫須麻神社と宝厳寺のある領域に入れるようになっている。どこかのテーマパークのようだ。

まっすぐに島の山頂に向かって伸びる165段の石段を登りきると、宝厳寺の大きな本堂が目に入る。本堂に祀られるのは弁財天である。弁財天は、もともと古代インドの水の神「サラスヴァーティ」でこの神が仏教に取り入れられ、弁財天となった。この弁才天は秘仏で60年に一度、開帳される。次回のご開帳は2037年と34年もあとのことになる。 本堂を出てさらに島の奥へと登っていくと、三重塔と宝物殿がある。宝物殿で料金を払って入ると、入り口に背中に大きな宝珠が乗せられた長さ1メートルほどの亀の木像が置かれていて驚かされる。説明書きによると、彦根藩から江戸時代に奉納されたもので、その家系の末代までの安泰であることを祈願したものだそうだ。

弁財天の図像と木像があった。弁財天は先に書いたように水の神でもあるのだが、言葉や音楽をも司ると考えられ、学問・芸能の女神として祀られる。そのため、琵琶を持つ像が多くこれを特に妙音弁才天と呼んだりする。 竹生島の弁財天は琵琶は持たず、八臂の手に刀や矢を持ち、さながら武神のようである。さらに興味深いのは弁財天の頭の上には鳥居があり、頭だけ人の顔を持った白い蛇がとぐろを巻いて置かれている。これは宇賀神であり、日本古来の穀物の神だ。この神が弁財天と習合されて祀られるようになった。この習合した弁才天を特に宇賀弁財天と呼ぶ。

宇賀弁財天だが2年前に奈良の西大寺で出会ったことがある。愛染堂の愛染明王の祀られる厨子の裏側に吊り下げられていた図像に愛染田夫本尊というものがあった。愛染田夫本尊は、ハスの上に載ってとぐろを巻く蛇形で、首に宝珠をつけ、愛染明王と宇賀弁財天が習合したとされる。説明書きによれば、次のようないわれがあるという。あるとき、小野の仁海僧正が諸国修行の旅の途上、出雲の田夫(農夫)の家に泊まった。その家主によれば、四代前の父祖が弘法大師を泊めたときに愛染明王の秘法と大師筆の本尊を授かったという。そのときの本尊がこの愛染田夫本尊とされる。その話の真偽は別として、日本の宗教が対立ではなく、他を取り込むことによって成り立ってきたということがこの逸話からも伺え、興味深い。


竹生島に上陸

都久夫須麻(つくぶすま)神社

  登ってきた石段とは別の石段を降りていくと観音堂がある。ここに祀られる本尊は千手観音だ。この本尊も秘仏で60年に一度、開帳される。宝厳寺は西国三十三所観音霊場の一つとなっていて、この日も三十三所巡りと思われる人が熱心に手を合わせていた。
この観音堂と渡り廊下で結ばれた先に都久夫須麻神社がある。祀られる神は浅井姫命、市杵島姫命、宇賀御霊命の三柱。『帝王編年記』という書物には、次のような話が書かれている。 ある時、夷服(いぶき)の岳の神であった多々美比古(たたみひこ)命がその姪にあたる浅井比売(あざいひめ)命の浅井の岳と高さを競った。浅井の岳が急にその高さを増やしたところ、夷服の岳の神が怒って刀剣を抜き、浅井比売命の首を切り落としてしまった。 さらに『竹生島縁起』によれば、その首が琵琶湖に落ちたときに竹生島になった。

市杵島姫命は、宗像三女神の一人であり、この神の本宮は福岡県にある宗像大社であり、海の神とされる。宗像三女神は北九州の有力豪族である宗像氏が崇拝した神だ。 宗像大社は辺津宮、中津宮、沖津宮の三宮に分かれ、辺津宮は三宮の総社として九州本土にあり、中津宮は大島、沖津宮は沖ノ島に位置する。特に沖ノ島は古代の祭祀跡が大量に発見されている島であり、古代から重要な海上交通の拠点だった。 辺津宮には市杵島姫命、中津宮には湍津姫神(たぎつひめかみ)、沖津宮には田心姫神(たごりひめかみ)が祀られる。
市杵島姫命は後世、神仏習合によって弁財天が垂迹した姿であるとされるようになった。

江戸時代初期の絵図を見ると今の都久夫須麻神社の本堂が弁天堂となっている。その前方に拝殿と鳥居があるのは今と同じだ。神仏習合の時代、神と仏は特に区別なく祀られた。鳥居のある場所は宮崎と呼ばれる島から突き出した地形となっている。この宮崎-鳥居-拝殿-今の都久夫須麻神社本堂が直線関係にある。宗像大社もそうなのだが、古代人はしばしば直線の関係に意味を見出し神を祀った。
このことからしても今の都久夫須麻神社本堂の位置で古代に祭祀が行われてきたのではないかと想像できる。その際、神の名はなくただ島の神という認識だっただろう
それが後世になって仏教と習合し、神の祭祀場には弁財天が祀られるようになった。
明治の神仏分離令で都久夫須麻神社を復活させなければならなくなり、その時にあわてて祀る神を決めたような節がある。浅井姫命は上の逸話から、市杵島姫命と宇賀御霊命は弁才天が長くこの島の信仰の中心だったという事情から改めて祭神を決めたということなのではないかと思うのだ。

長浜に戻る船の時間が迫っていたが、その前にかわらけ投げをやってから戻ることにした。かわらけには1枚に願い事、もう1枚に名前を書くようとある。書いたかわらけを鳥居のある宮崎に向かって投げた。ちょうど鳥居の根本のあたりに2枚とも落ちていった。つれはまるであさっての方向に飛ばしてしまい、ひとりくやしがっていた。そろそろ出向の時間だ。まだ、くやしがっているつれの袖を引っ張って船に戻った。


宝厳寺の本堂

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