中世都市・長浜

  その日は長浜の港に立つホテルに宿をとった。チェックインし、さっそく夜の長浜の町を散策しに出かけた。琵琶湖の周囲は、その方角によって湖北、湖東、湖南、湖西という名で呼び分けられている。長浜は湖北に属する。

元正元年(1573)、織田信長に滅ぼされた浅井氏の旧領を与えられた羽柴秀吉は、長浜の北東に位置する小谷城に入る。翌年2年ごろから長浜に築城を始め城下町を開いた。これが長浜の始まりである。長浜は秀吉によって開かれるまでは今浜と呼ばれていた。小谷城が小谷山の山上にあるのに対して、長浜城は琵琶湖の湖畔の平地に立ち、湖を一望できる位置にある。江戸時代に入って廃城となった。今の城は昭和に入って再建されたものだ。

長浜から東に行くと石田三成の生誕地がある。北東には浅井家が居城とした小谷山がある。小谷山の手前には鉄砲を生産した国友という集落もある。ここで作られる鉄砲の質の良さに惚れ込み、織田信長が大量に注文をした。石田三成の生誕地の手前には小堀遠州の生誕地もある。小堀遠州は、建築、造園、茶の湯の世界で活躍した。 こうしてみると、長浜という町は中世の香りがきわめて強い。

その長浜の町を散策する。町の様相は南北に走るJR北陸線の西と東ではまったく異なっている。商店街がある東に行くことにした。ホテルのある西側から長浜駅の陸橋を越え、東口に出るとそこに東西に伸びる商店街があった。先に、中世の香りと書いたが、この商店街は昭和30年から40年の日本を凍結してそのまま残したような感じだ。古びた定食屋や八百屋、旅館などがある。
既に日はすっかり落ちている。既に一日の営業を終えて店じまいを始めているところもある。

ガイドブックに載っていた「千茂登」という老舗の料亭旅館を目指していた。それは商店街から横の小道を入ってすぐのところにあった。老舗らしく古びた旅館であった。のれんをくぐって入るとコンクリートで固めた土間があり、正面の小部屋に宿の人らしいおばあさんがいるのが見えた。「食事、できますか?」と聞くと横から出てきた女将さんが「今日は宿泊のお客さんでいっぱいで」と申し訳なさそうに答えた。

つれと「なかなかよさそうな店だったのにね」と残念がりながら、その旅館をあとにした。 元の商店街に戻り、別の路地に入り込んでみると、家の2階からにぎやかな歌声が聞こえる。どうも軍歌のようだ。手拍子に合わせて老年の男女が歌っている。デジャブのような不思議な感覚に襲われた。この時点で完全に時代感覚が麻痺した。古びた家々と聞こえてくる歌声。いったい、今はどこの時代なのだろうか。

少し歩くと東西に伸びる道に突き当たった。この道は、江戸時代ごろと思われる建物が立ち並んでいる。まさしく中世の趣が残っている。
その中に「のっぺいうどん」と書かれた看板を出す店があった。屋号は「茂美志”や」とある。のっぺいうどんとはどんなものかと興味に惹かれて中に入った。
店内は取材を受けたときの写真と色紙がところ狭しと壁に貼ってあった。ただし、知っている顔や名前はなかった。彼ら(彼女ら)は関西では有名人なのかもしれないが。
客は他に子供を連れた家族ずれが3組と夫婦2人ずれが1組だった。そのうちの夫婦2人ずれが典型的な関西人だった。中年の男性はねぐせのついたような髪形でめがねをかけていて、関西人特有の軽い感じのしゃべり方でひっきりなしに相手と話をしていた。その姿としゃべり方は、上方の漫才師だと言われても信じてしまいそうな感じで、関西圏に来たんだなあという実感を湧かせてくれた。そのうちうどんが来るのを待ちきれなくなったのか、来客が感想を書いたノートを声を出して読み上げ、2人で面白がっていた。
そんな関西人の様子を眺めているうちに、頼んだうどんが来た。濃厚なとろみをつけた熱い汁の中にうどんが沈んでいる。やや柔らかめのうどんを箸ですくうととろみのついた汁がまつわりついてくる。汁は醤油味の素朴な味だ。
以前、伊勢にいったときに伊勢うどんというのを食べたことがある。かなり柔らかくて太いうどんが醤油だれに浸っているというもので、伊勢に巡礼に来た人が足を止めることなく、すばやく食べられることだけを考えて作られたものではないかと思ったくらいに味よりも食べやすさを重視した代物だった。
こののっぺいうどんは、伊勢うどんとは対極にある。熱いとろみのついた汁がからみつくことで、つるつるっと食べるわけにはいかない。とろみと格闘し終わったころには汗だくになっていた。夏の食べ物としては向いていない、ということは確実に言える。


これがのっぺいうどん

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