平成13年10月16日

広隆寺

   朝9時に広隆寺に到着。事前に寺との約束でこの時間に行くことになっていた。Kさんが受付でその旨を伝える。受付の人は取材など聞いていないと、どこかに電話していた。連絡が行っていないのだろうかと少し不安な気持ちでしばらく待っていると、担当の人がやってきた。ようやく話の通じる人が来たと思ったが、その人も、今日の取材についてはまったく知らないようで、電話をかけた受付の人と話をしていた。とりあえず今日の取材の趣旨を話し、まず、境内を撮影したいと言うと、撮影に付き添ってきた。国宝となっている建物は撮影できないとのことで、仁王門や宝蔵館をKさんと2人でデジカメで撮影する。今回の取材を通じて撮影や取材に担当者が付き添ってきたのは、ここ以外にはなかったことだ。以前、かなり勝手なことをされたためだという。
 撮影が終わった後は、原稿を書くために宝蔵館の中に入れてもらう。宝冠弥勒と泣き弥勒の二体が今日の目的だ。他にも十二神将や千手観音、地蔵菩薩など多くの優れた仏像が安置される。ページに限りがなければすべてを紹介したいところだが、そうもいかない。
 ここは三度目か四度目の訪問になるだろうか。宝冠弥勒の前には祭壇が作られ、お供えもしてあって、ほの暗い感じはお堂の中にいるように思わせる。確か、以前は弥勒菩薩にスポットライトが当たっていたような気がするのだが、それはなくなっていた。  
 仏像の前でメモを取っているとさきほどの担当の人がやってきて、撮影については聞いているが、中に入って取材することは聞いていないから、とりあえず出てくれと言われる。始めの受付のところまで行き、撮影だけではなくて取材もお願いしていたはずだと言うと、受付脇の門をくぐって、中の建物までつれていかれた。玄関で待つように言われ、しばらく待っていた。
 玄関は三和土(たたき)になっていて、床にはついたてが置いてあった。結構、古そうな建物だ。普通の観光客では入れない場所でちょっと得した気分だ。しばらくすると副貫主だという女性が現れた。厳しそうな僧侶が現れるのではないかと思っていたのだが、拍子抜けする。街中で会っても普通の主婦にしか見えない感じの人だ。
 実際、2年前までは主婦だったという。広隆寺に嫁いできて、貫主であった夫に先立たれたために今は広隆寺の副貫主としての毎日を送っているのだという。あるきっかけから仏さまから霊験をいただくようになった話など、初対面の我々に対してにこやかに気さくに話をしてくださった。原稿を頼まれて書いている最中で、文章を書くのは難しいとおっしゃっていたが、その文章は、小学館の『週刊古寺をゆく』別冊5号『広隆寺と嵯峨野の名刹』に載せられている。
 我々に対してはにこやかに話をしてくださったが、担当の職員には厳しく叱った。その態度に、この2年の急激な身の回りの変化に懸命に対応してきた副貫主の気持ちがかいま見れたような気がした。
 結局、宝蔵館に再び戻ることを許され、再び仏像の前に戻る。副貫主は「仏はおがめば必ず何かをくれるものだ」とおっしゃっていた。この言葉が印象的で、頭から離れなかった。
 宝冠弥勒の前のベンチに座り、必死に五感を研ぎ澄まし、その像のすべてをこの身に吸収しようとした。宝冠弥勒のスポットライトをやめたのはあの副貫主なのではないかと、ふと思った。

法金剛院

   広隆寺の北東、花園駅のすぐ近くに法金剛院はある。極楽浄土を模した、池のある庭には人がいない。庭を掃く箒の規則正しい音だけが聞こえる。この寺には鳥羽天皇の中宮待賢門院彰子が祀ったという阿弥陀如来が安置される。その両脇には僧形の文殊菩薩、地蔵菩薩、十一面観音が並ぶ。待賢門院彰子という人は美人に生まれたが故に、波乱に満ちた運命を送った人だったようだ。晩年はずっとこの寺で過ごしていたようだ。どのような思いでこの仏に手を合わせていたのだろうか。
 妙心寺の隣にある花園会館というところで昼食を取る。この花園会館というのは妙心寺が経営しているらしい。信者のための宿泊施設でもあるようだ。法衣や笠など関連グッズも販売している。

庭の端にある青女の滝。
本来はここに水が流れている。

二尊院

   ここから一気に嵯峨野の二尊院へ。総門からまっすぐと伸びる紅葉の馬場が有名な寺だ。葉は少し色づいているもののまだ完全に紅葉しきっていない。紅葉シーズンには人でいっぱいになるらしいが、まだ訪れる人はそれほど多くはない。本堂には釈迦如来と阿弥陀如来が二体並ぶ。現世では釈迦如来がさあ進めとあと押しし、阿弥陀如来は浄土に向かう信者を手招きする。浄土宗でこんな考えが流行ったらしい。この二体の像を祀るために二尊院という。
 小倉山ふもとに3つある時雨亭跡の候補地の一つも境内にある。

  清凉寺

   広い境内に着くとお堂からは読経の声が聞こえてくる。この像は五臓六腑が入った生身の釈迦として拝まれた。体に張り付くように巻き付けられた布のひだが規則正しく彫られている。写真で見るとこのひだが特に強烈な印象を与え、長く見ていると気分が悪くなってくるのだが、実物はそんな印象はまったくなかった。繰り返し模様は人に強烈な印象を与える。そうしたことからか、模様の繰り返しには古くは呪術的な意味合いも込められた。その印象から、実物を拝観したいとは思わなかったため、いままで一度もこの寺を訪れたことはなかった。今回、訪問して思ったのは写真と実物はまったく別物だということだ。呪術的な印象さえあった写真の面影は実物にはまったくなく、むしろ優しいおだやかな印象を受けた。
 江戸時代にはこの像は何度も出開帳され、輿(こし)に乗せられて、各地の寺を廻ったらしい。その輿が脇に展示されていた。輿に乗るといっても立像なので、人間のように座って乗ることはできない。横に寝かせた状態で人が四方の棒を持ちあげて、行脚するのだ。だから、輿といってもそれはあたかも棺桶のような形をしている。
 本堂の周りには他にも寺に伝わるさまざまな物が展示されていた。その中に一遍上人の絵があった。一遍上人は全国を行脚し、庶民の中にあって念仏踊りを広めた。時宗の開祖。その顔はまるで赤塚不二雄の漫画に出てくるキャラクターのように斜め下に向かって歯が出ているのがおかしい。他でも一遍上人の絵を見たことがあるが、ここまで極端ではないものの、出っ歯だったのは事実であるようだ。
 本堂の裏からは他のお堂へとつながる廊下がせり出し、そこから庭を眺めることができる。いつしか降り出した雨に庭の紅く色づいた葉が洗われていた。
 本堂を出て、霊宝館へ行く。源融(みなもとのとおる)をモデルにしたという阿弥陀如来など多くの優れた像が安置される。四天王に踏まれた邪気がかわいらしい。足で踏まれた頭がつぶれてゆがんでいたり、ほおづえをついたりしている。
 外へ出るとすっかり雨は本降りとなっていた。
 同行のKさんは夜の新幹線で東京へ戻っていった。帰りに地元のスーパーマーケットにより、晩と朝食の食材を購入。 

清凉寺本堂奥の庭。

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