古佛の穴

阿弥陀如来
弥陀如来は極楽浄土の主尊です。極楽浄土は日の沈む方向、つまり西方にあり、その距離は十億万土を越えた所にあると考えられました。ここには宝池があり、蓮華が咲き乱れ、人々は死ぬとこの蓮華の上に往生して、阿弥陀如来に救って貰えるのだ、と考えました。この世は苦に満ちています。しかし、極楽浄土に行ければ苦から逃れることができると考えました。
極楽浄土に行くためには、臨終の時に心をじっとこらして阿弥陀仏とその世界を観想し、その世界がありありと目の前に浮かぶまでにならなければならないとされています。 人々は仏像や仏画を見てその世界を自分の中のイメージとして取り込みました。
阿弥陀如来は飛鳥時代から造られていましたが、平安時代中期に源信という人が地獄と極楽の様子を描いた「往生要集」を記した頃から特に多くなったようです。 「往生要集」は特に当時の貴族の間で広く読まれ、その後の日本の文化にも大きな影響を与えました。また、仏教諸派の中で最も日本で広まった浄土宗系の元となりました。 その頃、ちょうど末法思想が流行っていました。釈迦滅後、初めの千年間を正法、次の千年間を像法、その後を末法といいます。当時、紀元前1000年頃に釈迦が生まれたとされていましたので(現在では、紀元前500年頃と考えられています)、ちょうど平安時代頃に末法に入ると思われていました。「末法灯明記」には1052年(永承七)に末法に入ると書かれ、また、その頃に飢饉や伝染病などが相次ぎ、末法思想は仏教界や貴族達を深刻な恐怖に陥れました。こうしたこともあり、貴族らは真剣に極楽浄土への往生を願い、多くの寺院や仏像、仏画が作られました。
その後、法然、親鸞へと浄土宗として引き継がれたると、貴族から一般庶民へと浄土思想は広まっていきました。また、当初座像の多かった阿弥陀像は立像が多くなっていったようです。
それは、死の際に、北枕で顔を西の方に向け、南無阿弥陀仏と唱えながら阿弥陀如来のいる極楽浄土を思い浮かべると、極楽浄土から阿弥陀如来が雲に乗り、観音菩薩、勢至菩薩を初めとした二十五菩薩や楽隊を引き連れて降りてきて、その人を連れて極楽浄土へと戻っていくと考えるようになったため、座っていてはその様子を表現できなかったためです。

阿弥陀二十五菩薩来迎図

た、鎌倉時代になると早来迎図と言って、到着するスピードを強調した図も描かれたようですが、こうなるとピザ屋の配達のようで有り難みが薄れますね。 もともとの仏教はあくまでも自力本願と言って、自らの精神の力で自らを克服していく厳しい宗教だったのですが、こちらはそれとは正反対の他力本願で、慈愛の気持ちに溢れたやさしさのある宗教となっています。
かつての日本人にとって死後、地獄に落ちることは最大の恐怖でした。そして、極楽に行くことを望みました。阿弥陀如来の像はこうした人々の恐怖を受け入れ、人々の気持ちを安らかにしてきました。この像を見る度にそうした人々のことを思います。
 

必見の阿弥陀如来
京都・平等院鳳凰堂

平等院は平安時代後期に藤原頼道が父道長の別荘をあらためて寺院にしました。その中の鳳凰堂は唯一の平等院創建当時の建物です。平等院は極楽浄土を現したもので、建物も非常に美しく、また鳳凰堂を正面から見るとその形が阿字池という池に映り、その姿はまさしくこれが浄土なのかとみまごうばかりです。
その鳳凰堂の中に平等院創建時に作られた阿弥陀如来像があります。この像は像高278.8cmもあり、蓮華台の上に座禅を組み瞑想しています。光背は円光の外側に雲を形作り、その雲の中を天女が飛び交い、楽器を演奏している像が取りつけれています。
また、浄土を演出するのは建物の外観と如来像ばかりではなく、建物の内部の長押(なげし)の上の壁には52体の雲中供養菩薩像が取りつけられ、それぞれが雲に乗り楽器を演奏したり、踊ったりしています。扉や壁には来迎図が描かれ、宇治付近の山や川を背景に雲に乗り地上に降りてくる如来や菩薩達の絵が描かれています。
まさに平等院全体が浄土をあらわし、平安貴族の浄土に対するせつないまでのあこがれがよく現れています。
休日に行くと観光客が押し寄せていてじっくりと見ることができないのが唯一惜しい点です。

 

京都・浄瑠璃寺

平等院鳳凰堂の少し前に本尊薬師如来と共に建立されました。
中心に大きな池があり、その東に三重塔があります。その中には秘仏の薬師如来像があり、毎月八日と正月三ヶ日、春秋彼岸の中日の好天の日に開扉されます。その池を挟んで反対側の西には阿弥陀堂があり、九体の阿弥陀如来があります。阿弥陀如来は真ん中に大きな如来座像があり、その両側の一直線上に四体ずつの如来座像があります。
薬師如来の項目で説明したように東の瑠璃光浄土の方向に薬師如来があり、西には極楽浄土の阿弥陀如来があるという配置になっています。この瑠璃光浄土が寺の名前の由来となっています。また、九体寺とも呼ばれます。 阿弥陀如来は、寺建立後50年を経てからの作です。
他に一部で人気のある吉祥天女像があります。これも秘仏で正月一日から十五日までと三月二十一日から五月二十日まで、十月一日から十一月三十日までの間、開扉されます。 2度ほど行きましたが、まだここの薬師如来にはお目にかかっていません。

 

奈良・法隆寺金堂壁画

昭和二十四年一月二十六日の朝、解体修理中に失火、炎上し、世界に誇るこの壁画は永遠に失われてしまいました。
金堂壁画の各方向の壁面には南に釈迦浄土、東に薬師浄土、北に弥勒浄土、そして西に阿弥陀浄土が描かれているとされています。各壁にどの仏が描かれているのかということについて、西壁の阿弥陀如来を除いて古来よりいろいろな説があったのですが、現在ではこの説に落ち着いているようです。
実際には金堂の南は正面入り口となっているので、上で南と書いたのは東面の壁、東と書いたのは北面の壁の東側、北と書いたのは同じく北面の壁の西側という位置関係になっています。西の阿弥陀浄土だけはそのまま西面の壁に描かれています。これは、この壁画が描かれるときに阿弥陀浄土が最も重要視されたことの現れなのかも知れません。
和辻哲郎氏は金堂炎上前に訪れた時の印象を『古寺巡礼』でこのこの西面の画を「まことにこの画こそは真実の浄土図である。」と絶賛しています。阿弥陀如来の説法の印を結ぶ手の美しさには「驚くべきものがある」とし、その顔については「人の美しい顔を描いてこれほど非人情的な、超脱した清浄さを現したものは、まず比類がないといってよいであろう。」と記しています。そして、両脇の観音、勢至菩薩は「恐らくこの画家は人体の美しさのうちに永遠なるいのちの微妙な踊躍を感じていたのであろう」とその神妙な美しさを称えています。
焼けた壁画は一般には公開されていませんが、樹脂で固めてそのままの状態で現在も保管されてあるそうです。 現在の金堂壁画は、炎上当時、取り外されて難を逃れた天井下の小壁以外は模写による再現壁画がはめこまれています。

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