kuro963 on the way (10)

会社への職場復帰を期に「珍道中日記」を終わらせようと思う。それはそれで喜ばしいことなのだが,病気のことを書くことが少なくなってきたからだ。ひょっとしたら再開するかもしれないが,その時はその時だ。(2001年12月吉日)


転ばぬ先の杖になる「がん保険」


期せずして「慢性骨髄性白血病」などという病気にかかってしまったわけだ。それまでは大きな病気とは無縁の生活を三十数年以上続けていたわけなのだから。でも,大学を卒業して社会人として独り立ちした時に,漫然と「がん保険」に加入していたのは自分自身に何か予兆のようなものがあったのかもしれない。がんの中でも「白血病」の治療には最も多くの費用と時間がかかるのだ。結果的にこれが病気と向き合う際の経済的な支援になった。20〜30歳台での生命保険は,死亡保険金の多さではなく入院保障や休業補償に重点を置いた方が良いと思う。

と書いたが、生命保険については「保険クリニック裏病棟」が詳しい。また差額ベッドについてはこちらへ。(2005年9月1日追記)


自分だけではどうにもならぬ


多くの血液疾患で「造血幹細胞移植(骨髄移植,臍帯血移植など)」は実績のある治療法の一つだ。また,私が発病を知った98年頃では慢性白血病の治療薬としてインターフェロンが第一選択薬だった。この薬で効果を見つつ,(兄弟とはHLAが一致しなかったので)骨髄バンクに患者登録して条件が合えば骨髄移植をする,という方針がたてられた。私自身もこれに同意し,さっさと骨髄移植してこの病気とのケリを付けよう,と思っていた。もちろん移植に伴うリスクがあることも理解していた。が,インターフェロンという薬はたしかに有効かもしれないけれど,病気へのトドメの一発にはならないだろう,という直感がしていた。数千〜数万人に一人という確率でしかドナーは見つからない,と言われていたが,1〜2人くらいはすぐに見つかるだろう,そしてとっとと移植しよう,と。ところがぎっちょんちょん,話はスムースには進まなかった。登録して半年ほどで見つかった適合ドナー5名のうち,2名は健康上の理由からコーディネイト中止,残る3名からは断られてしまう,という状況になってしまったのだ。さてこうなると,インターフェロンを続けるしか道はない。この薬で急性転化するまで時間稼ぎしてドナーは見つかるのか?見つかったドナーは果たして骨髄を提供してくれるのか?という疑心暗鬼の心境と,連日のインターフェロンの注射による針の痛みと,副作用による身体の倦怠感と精神的な落ち込みで,まさに迷走,珍道中の毎日であった。そこには,ドナーさんによる「善意による骨髄の提供」が無ければ自分の行く末が無い,という現実が目の前にあったのだ。


嬉しかった友人・仲間の応援


そんな毎日を過ごしていたある日,自分の病気の記録をしたHPを立ち上げた。同じ病気を克服してHPで公開している先輩患者さんいることは以前から知っていたし,他人に向かって発信できる情報は自分にはこれくらいしかない。それよりもなによりも鬱々とした生活の気分転換になると思ったからだ。そして,こちらから一方的に情報発信するだけでなく,このHPを通じてネット上で知り合った友人たちとのやり取りは心の支えになった。また,私の病気のことを知った会社の同僚たちが,職場内でドナー登録の話を進めてくれたり(9名がドナー登録してくれた),個人的にHLA型を検査して(なんと!検査費用はみんな自腹で)くれたのだ。結果的には,みんなとはHLA型が合わなかったけど,みんなの気持ちが嬉しかったナー。


思ったよりつらくなかった移植入院


発病を知ってから2年ちょっとで,恐れていた「急性転化」がついにやってきた。インターフェロン治療をしていた病院で,慢性状態に戻すための化学療法を3発。しかし,骨髄中には芽球が何割か残ってしまって時間切れ。急性転化直前に見つかったいた1座不一致ドナーからの骨髄移植に一縷の望みをかけて,移植病院に転院して移植。骨髄移植した先輩患者のHPを見て知っていた移植に伴う治療によるツラク厳しい入院生活が現実となることに。しかししかし,「吐き気」み関しては,移植直後に一日だけ「吐き気」が強まった日があったが,吐き気止めのおかげで一度も戻すことなく終わった。また,「痛み」に関しては,前処置で尿道に管を通したのが唯一だった。しかも,先生からこんなにヒドイのは初めて見た,と言われたほどの口内炎だったが,痛み止めのモルヒネを使うことにより,痛みを感じることもなく時間が経つとともに治っていった。もちろん味覚異常,食欲不振,脱毛などなどあったが,こんなのは屁の河童。それまでは,あてどもなくインターフェロンを毎日毎日注射するという暗闇の中を手探りで進んでいるような状態だったのに比べて,きっちりとした投薬計画がたてられ,一日一日それをこなして行けば良い,というのがはるかに楽だった。もちろん急性転化した状態での移植は非常に成績の悪いことは知っていたが,逆に言えば,こうするしか方法が無い,という追い込まれた状況が良い意味での開き直りを生んだのかもしれない。もし状況の良い慢性期の時の移植だったら,移植なんかせずにインターフェロンを続けていた方が良かったかもしれない,なんて思ったりしていたかもしれない(自分はそうは思わないけど,周囲の人たちがそう言ったかも)。


大きくすっころんだ人生だが


大きな病気をしてしまって順風満帆というわけにはいかなかったが,まあ人生こんなものなんだろう。会社勤めの身で1年半以上も仕事を休んでしまってサラリーマン的に言えばこんなロスはない。が,元々そんなに上昇志向があったわけでもない(負け惜しみではない)し,自分の一生というスパンで見れば,会社生活なんて大きくはない(小さくもないが)。白血病にかかり骨髄移植をするなどという体験は,自ら好んでしたいと思う経験ではないが,誰でもが経験できるものでもない。見知らぬ人から命の一部を分けて貰う,という貴重な体験は決してマイナスなものではないと思っているし,マイナスにはすまいとも思う。


最後に一言


自分はこうやってまあまあ元気に生きているが,同時期に移植をした仲間たちの中には,移植後のGVHDの悪化などで先に逝ってしまった方がいる。この違いは一体何?運?紙一重の差?などと時々考えることがある。何にしろ,みんなのことは忘れるわけにはいかない。


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