◆天下を震撼させた中興の英主

高景・氏景のあと、朝倉氏は貞景、教景、家景と続く。この間、一貫した幕府方として南朝の残党、鎌倉公方と戦い、足利持氏の乱(永享の乱)、結城合戦においては、遠く関東の地まで出陣した。教景は結城合戦における春王丸・安王丸を生け捕りにした功により、将軍足利義教より一字を拝領した。やがて、足利義教の暗殺(嘉吉の変)以後、幕府の屋台骨は揺らぎ出した。越前斯波氏の内紛、畠山氏の家督争い、伊勢一族と山名持豊の権力抗争は、ついに応仁の大乱へと発展してゆく。将軍足利義政の信任を得た細川勝元らの東軍に対し、賊軍となるのを恐れしりごみする西軍の中にあって、一人気を吐く男がいた。越前より上洛、山名持豊の陣に投じた朝倉孝景である。しかし、孝景は洛中の戦火を拡げた後、越前守護代任官を名目に帰国。戦国大名化への第一歩を記すのである。


朝倉孝景正長元年(1428)―文明十三年(1481)
小太郎、孫右衛門尉、弾正左衛門尉、繁景、敏景、教景。「敏景」とするのは、『朝倉始末記』系統のものである。家景の嫡男。母は悟渓通妙。室は鳥羽将景の女(円渓真成)。後室に逸見氏(桂室永昌)。
応仁の乱では、当初、斯波氏の家督争いの関係から同じ斯波義廉を推す西軍の山名持豊方に応じ、その主力となった。西軍が斯波義廉の降服を容れる条件として、孝景の首を要求するほどの重要人物であった。しかし、文明三年、越前守護代任命を条件に東軍へ寝返る。長期化する中央の政局を尻目に孝景は帰国。前守護代甲斐氏を追い、越前の支配権確立に努めた。また吉崎御坊の蓮如と結び、一向門徒を西軍勢力に当たらしめた。
文明十一年、斯波・甲斐・二宮連合軍と対陣中に死去。甘露寺親長は「天下に悪事の始まった張本人」(『親長卿記』)と記し、その死を喜んだ。法名英林宗雄。
朝倉敏景十七箇条』は、子の氏景に示したものといわれる。



◆斯波氏領国三分割、朝倉氏自立に成功。

朝倉孝景が戦乱治まらぬ京都をあとに帰国した後、その息子氏景はなお在京して将軍家、細川家を頼り、朝倉家への協力をとりつけるべく奔走していた。氏景は細川成之の協力によって将軍足利義政への謁見に成功。幕府は越後上杉房定、尾張織田伊勢守、近江朽木貞綱、若狭武田国信らに朝倉孝景の援助を命じたのであった。文明四年、孝景は守護代甲斐氏を破り、越前をほぼ掌中に納めた。文明七年にはついに甲斐氏にかわって朝倉氏の守護代が認められた。これに不満を持つ甲斐一族は斯波義敏の子義良(松王丸)を奉じて抗戦。孝景はその掃討を行うことができないまま、文明十三年、世を去った。かわって当主となった氏景も英明の資質を持ち、父の遺志を継いで文明十三年九月、甲斐氏を破る。文明十五年四月三十日、和議が成立し、斯波義良は尾張へ引き移り、越前守護代朝倉氏、遠江守護代甲斐氏、尾張守護代織田氏の支配権が認められた。主人屋形斯波氏は、以後、実権を持たない存在となっていく。


朝倉氏景宝徳元年(1449)―文明十八年(1486)
阿君、孫次郎、孫右衛門尉。孝景嫡男。母は鳥羽氏。応仁の乱では父孝景に従って上洛、父の帰国後も京都にとどまり、政治工作を行い支援した。六年という短い治世ではあったが、この間に父孝景以来の課題である斯波・甲斐氏との抗争終結、越前支配権の確立という難問を解決した。その越前統治は、斯波義廉の子を越前に迎え、名目上のお屋形となし、国内の寺社に所領安堵状を発給するという周到なものであった。文明十八年七月三日、没。法名子春宗孝。



◆斯波氏の逆襲、内部抗争を克服。

領国を三分割され、権威を失墜させた斯波家の当主義寛は、長享元年、越前の回復を幕府に訴え出た。しかし、朝倉方は「越前は尊氏より直接宛行われた。このため、公方の被官であって、斯波氏の被官ではない」と反論した。結局、この争いは幕府の仲介により一時棚上げとされたが、強力な軍事力を背景に朝倉方は一歩も引かず、実質的な勝利をおさめた。文亀三年四月、一枚岩とも思われた朝倉家に内乱が起こる。貞景の後見役であった敦賀郡司朝倉景冬の子景豊が英林孝景の子景総、教景(宗滴)らと連合し、挙兵したのである。貞景はこの抗争に勝利、越前国主の地位を不動のものとした。


朝倉貞景文明五年(1473)―永正九年(1512)
孫次郎、弾正左衛門尉。朝倉氏景嫡男。母は織田孫左衛門尉の女(瑞渓妙祥)。室は美濃国守護代斎藤利国の女(祥山禎公)。幼少にして家督を嗣いだため、大叔父慈光院光玖が後見。越前をめぐる斯波氏に勝訴し、同国の支配権を確立し、斯波氏との主従関係をも脱した。朝倉景豊の乱鎮圧後、朝倉宗滴を敦賀郡司に任じる。画才に秀で、天皇にまでその評判が聞こえていたという。京都清水寺に法華堂を建立、一乗谷においても仏閣の再興をすすめた。永正九年三月二十五日、鷹狩の途次急死。法名天沢宗清。



◆朝倉氏の絶頂期・一乗谷文化の結実

朝倉氏は内外に敵を有しながらも、代々、傑出した当主が続き、危機を乗り越えていった。一乗谷第四代朝倉孝景は、その黄金期を現出し、一乗谷文化を畿内に知らしめた。この間、大外記清原宣賢・枝賢、公家大覚寺義俊、四辻季遠、飛鳥井雅綱、臨済僧宗牧、神道家吉田兼右ら一級の文化人、宗教家が越前へ下向した。そして、ついに天文七年四月七日、孝景は相伴衆に列し、守護大名に伍する地位へ上った。一方、国外への出兵も盛んに行われ、足利義稙を京都に還住せしめるなど、その実力は天下に鳴り響いた。その軍事指揮をとったのが、先に主家に謀反を企てた朝倉教景(宗滴)である。



朝倉孝景明応二年(1493)―天文十七年(1548)
孫次郎、弾正左衛門尉。入道性安斎。朝倉貞景嫡男。母は斎藤利国の女(祥山禎公)。室は若狭武田氏の女(二位の尼、広徳院)。足利義稙の帰洛を助け、のちに白傘袋・毛氈鞍覆・塗輿を免許され、相伴衆に列す。英林寺、天沢寺、性安寺などを創建し、和歌・蹴鞠にも堪能、一乗谷文化の最盛期を築き上げた。天文十七年三月二十二日、波着寺参詣の帰途、急死。法名大岫宗淳。會祖父・英林孝景と区別するため、大岫孝景、あるいは宗淳孝景と呼ばれる。