朝倉氏

日下部氏
越前守護代、相伴衆(守護と同格)。
家紋は三つ盛木瓜ほか。

◆朝倉一族、足利高氏のもとへ参陣。

朝倉氏は、越前守護斯波氏の守護代である。本姓は日下部氏で、開化天皇の皇子丹波彦坐命(たんばひこますのみこと)を祖神とする但馬国造家の流れを汲み、『日本書紀』孝徳紀における但馬国朝来郡・養父郡の郡司朝倉君として初出される。また、『朝倉始末記』は孝徳天皇皇子表米親王、『越州軍記』は景行天皇をそれぞれ祖とする異説を掲げている。『平家物語』巻十二には、平家の残党追捕に但馬国の朝倉高清が命じられた、という記事が見え、元弘三年(1333)、足利高氏が丹波篠山に挙兵すると、朝倉一族は斯波高経の軍に属し、建武四年(1337)、高経にしたがって越前へ下った。以後、北朝方として新田義貞を破るなどの戦功をあげ、名実ともに越前の支配者として勢力を浸透させていった。

朝倉広景建長七年(1255)―文和元年(1352)
孫右衛門尉、黒丸右衛門入道。越前朝倉氏の祖。『平家物語』に登場する高清から八代の後胤とされる。足利高氏が丹波篠山で鎌倉幕府に対し、反旗を翻した際、これに従う。のち南北朝の抗争に入ると、斯波高経に従って、越前へ侵攻し、新田義貞を破る。戦功により、坂南郡黒丸城を得、以後、朝倉孝景が一乗谷に移るまで朝倉氏歴代の居城となる。北庄神明神社の社殿復興などを手がけている。文和元年二月二十九日、九十八歳の高齢をもって没す。法名空海覚性。


◆足利尊氏と室町幕府への忠誠

宮方として鎌倉幕府を滅亡させた足利尊氏は、間もなく後醍醐天皇と対立、南北朝動乱の幕が上がる。朝倉広景の子高景、孫氏景は越前に根を下ろし、北朝方として転戦。主である守護職斯波高経の幕府への叛逆にも与せず、ひたすら尊氏と幕府への忠誠を貫く。勢力を弱めた斯波氏にかわり、朝倉一族は幕府の絶対的な信頼を勝ち得ることになる。

朝倉正景正和三年(1314)―応安五年(1372)
彦三郎、高景、弾正左衛門尉、遠江守。文和四年の京都東寺南大門の合戦において戦功を上げ、足利高氏(尊氏)より一字を与えられ、高景と改名。その母衣に足利尊氏自ら「弾正左衛門尉高景」と大書してもらった。延文二年十二月、足羽郡預所職を宛行われる。のち、越前の領地七ヶ所(宇坂・棗・東郷・坂南本郷・河南下郷・木部島・中野郷)の地頭職となり、守護代となった。応安五年五月二日没(59)。法名徳巌宗祐。


朝倉氏景延元元年(1336)―応永十一年(1401)
孫次郎。父とともに北朝方として活躍し、文和四年の京都合戦の功によって、足利高氏より一字を与えられ、氏景と名乗る。一乗谷に熊野権現を勧請。法名大功勝勲、大功宗勲と伝わる。