例えば、街であったイベント。
例えば、デパートの中であった出来事。
例えば、電車の中から一瞬だけ見えたシーン。
例えば、新聞やテレビで報道された事件。
例えば、自分が遭遇した場面。
そんななかで、「これはこれは・・・」と思った事柄について、その感想をつらつらと書いているページです。(勿論、ノンフィクション)
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変化の年 | なんにもならない |
早期改正を望む | 足りないこと |
少し早いが、今年はいろいろなことがあった。
一つ前に書いたこともそうだし、自分の勤める会社が無くなってしまうのもそうだ。(実際にはまだあるのだが、実体は別会社に吸収合併されてしまい、僕自身も既にそちらに異動しているし、引っ越し済みである)
日頃、考えても見なかったようなことが起きる。いや、冗談などで話題に上ったことはあるが、誰もがそれ以上のことがあるとは思ってもみなかったはずだ。ニュースでは似たようなことが繰り返し報道されていて、そういう世の中にどっぷりと浸かっている自分があることは確かなのに、自分を除外している自分に気が付いていないところが、なんとも間抜けな話である。
会社の変化は、それを支えてきた人材にとって非常に大きな変化でもある。勤務地の異動は当人とその家族だけでなく、周りの人々にも影響する。こんなことが無いと思っていた人々は土地や持ち家などの扱いに苦慮するし、中堅以上の人は長年培ってきた生活基盤が失われることになる。もちろん、子供が学校に通っていたり、進学先を選定することだって頭の痛い問題だ。
当然、どうしてもこのような変化が受け入れられない人がいて、何人もの仕事仲間が退職し、あるいは予定している。
積み上げられてきたモノが崩れていくタイミングはそれこそいろいろあるはずなのだけど、これはいわば、自分(会社)の都合で自分の足下を掘っていくようなイメージである。しかも、掘るだけで埋めようという意欲が感じられない。これではその渦に巻き込まれる自分自身の今後のスケジュールが見通せないし、会社を見切る理由につながってしまう気がするのだ。
失われるのは人材だけでなく、それに伴う技術も同じだ。表向きの技術の伝承はできるが、脳味噌の中身までは無理である。技術は脳から生まれる。書類や写真などで伝えられることはほんの一握りでしかない。一つの技術の後ろにはそれぞれの人の頭から飛び出してくるたくさんのアイデアやその卵がある。逆に言えば、その中の卵を上手く孵すことできたモノが一つの技術になるのだ。だからこそ、人材は大事なのであって、リストラや組織の改編などで手早く切り離すことは非常の最終手段でなければならない。
失われ、失われつつあるモノを、つなぎ止め、それ以上のモノにするために、残された者は努力するしかないのだ。掘られた穴もそのままに。
ある日、出社したら、斜め前の机に白い花が飾られていたら。
そんなことが実際に起きるなんて、これっぽっちも思い浮かべたことはなかった。僕より6〜7歳上。若くはないけどそんなに年は離れているとは知らなかった。
もう長いこと勤めているから、同じ部署でも何人かは亡くなった人がいる。でも、これほど近しい人ではなかった。大いに頼れる人だっただけに、その後、何も考えられない時間が突然発生するような、なんだか足が地に着かない日々が続いた。極力、悟られまいとして、いつも通りに振る舞おうとしていたけど、そんな感じに気が付いた人がいるかもしれない。でも、みんな同じだったのだろう。
通夜で、棺の小さな窓から見た顔はまるで、こんな筈ではなかった、と言いたげで胸がつまる。
なんにもならない。なんにもならないのだ。
ようやく、そう思えるようになった。今でも棺の中の顔が閉じた瞼の先に見えることがある。でもそれは、机の上にパソコンや書類が置かれていた頃の顔にだんだん戻ってきている。
同じように、足跡が、仕事が、いろいろなことが薄れていく。
だいたい、人間が一度に複数の事柄に意識を向けるのは難しいのだ。
何が言いたいのかというと、運転中のケータイ電話だ。
前に、ケータイを使いながら走っている自転車にぶつけられた話を書いたけど、歩きでも、車でも、ケータイに目を奪われながら行動する人のなんと多いことか。
昨年、自動車の運転中にケータイ電話を使っている場合に罰則を科せられるという、道路交通法の改正案が出ているというニュースがあった。既に、ケータイが原因で事故を起こしたりした場合は罰則があるらしいが、これは危険な状態にならない限り問題にされないということの裏返しでもある。
車の運転をしていて最も重要なのが視覚情報であろう。驚いたことに、ケータイでメールを打ちながらハンドルを握っている馬鹿者を見たことがある。
歩いているときに、電柱にぶつかると痛い。
当たり前である。
人には「前を向いて歩かないからだ」と言われるはずだ。
自転車で、ドブに落ちると非常に痛い。
当たり前である。
人には「前を向いて漕がないからだ」と言われるはずだ。
車で、他の車にぶつかると、どうなることか分からない。
当たり前である。
人には「注意して走らないからだ」と言われるはずだ。
注意とは何か?
周囲の状況と、自分のおかれている状況を把握できることなのではないか。ケータイを使うことによって、周囲の状況変化に気づくことが難しくなり、なにしろ、自分の行動がケータイに縛られてしまうことで、運転操作自体がぞんざいになるはずだ。
昨日まで大丈夫だったことが、今日もうまくいくとは限らない。
他人が大丈夫だから、自分も大丈夫だとは限らない。
そして、自分が大丈夫だとしても、他人が大丈夫じゃないかも知れない。
交差点で曲がってくる車の運転手が、片手でケータイを持っていたら、まずは「危ないな」と気づかなければ、いつまでたってもダメなのだ。
そういうことで、道路交通法の早期改正を望んでいる。危険は規制をしてでも排除しなければならないところにきている。最早、モラルやマナーを叫ぶだけでは改善することは出来ないのだ。きっと。
最近、よく見かける光景。
救急車がサイレンを鳴らして向こうからやってくる。
その前には何台もの車が走っている。
救急車は先を急ごうとしているようだが、なかなか前に出られない。
教習所で習ったはずだ。救急車両には道を譲るように、と。
あるいは、常識として、教習所以外でもそういう話を聞いたことがあるはずだ。
こういう場面にも良く遭遇する。
駐車場のないコンビニの前。
すぐ前に車が1台駐車する。
反対車線にも、コンビニの向かい側に1台駐車する。
この時点で、コンビニの前の道は、漏斗状に絞られたようになり、対向車に注意して駐車車両の脇を進まなければならない。またたく間に渋滞する。
この二つの場面だけみても、その後の状態が「絶対に良くならない」ことがすぐに分かるはずだ。じっくり考えてみなくても。
それでは、なぜこういう事が減らないのかというと、おそらく「想像していない」からなのではないだろうか? 単に、救急車がいる、コンビニがある、といった情報のみを受け取るだけで、次に自分はどうしたらいいのか、というところまで考えていないのでは。
考えることを拒否している?
自分のことを、向こう側から見てみるとどうだろう?
近頃足りないのは、行動に対する想像力なのではなかろうか。
新年早々、つまらない話なのだが、つまらないことの積み重ねで世の中良くなったり悪くなったりするんだろうな。