とよティーの喫茶室
 

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■「教科書を教える」授業は駄目なのか?

 教員の世界では、教科書を無用の長物のように扱うことが時々あります。もちろん教科にも差はあって、国語や英語では教科書が中心的に使われていると思いますが、特に社会科の授業では一般的にそれほど教科書は使われません。教科書は脇に置かれて、担当教員が作ってきたオリジナルの穴埋めプリントなどを中心に進められることが多いのではないでしょうか。

 昔から教員の世界には、<「教科書を教える」授業よりも「教科書で教える」授業を>という言葉(標語)があります。簡単に整理すると、「教科書を教える」授業とは、教科書に書かれてある内容をそのまま教え込むような授業のことをいい、いっぽう「教科書で教える授業」とは、教科書も教材の一つとして活用しつつ、むしろ教科書には記載されていないような、生徒の心を揺さぶる優れた教材を使って、教科書が想定している水準を超えた深い認識に到達させることができるような授業のことをさし ます。そして、<「教科書を教える」授業よりも「教科書で教える」授業 を>という言葉(標語)は、「教科書を教える授業」より「教科書で教える授業」が良い、という価値観を表現した言葉なのです。

 それゆえかどうかはよく分かりませんが、教員の世界の一部には、教科書通り授業するような教員は、未熟者か、あるいは教育委員会にゴマスリするタイプの人間だ、というような暗黙の価値観があります。じっさい私自身、教職員組合が主催する教育研究集会で教科書に沿った授業実践を報告したところ、教科書をほとんどまったく使わないでもっぱらオリジナル教材を用いた授業をしている先生から、「あなたは管理職から指導されて教科書どおり授業するようになったのですか?」と、いささか同情的な質問をされたことがあります。この質問が象徴しているように、特に意欲的な教員の間では、「教科書を使わずに、オリジナルの教材を使って、いかに魅力的な授業をするか」が競われているような面があるのです。

  

 それは、決して悪いことではありません。しかし、では「教科書を教える」授業は駄目なのでしょうか? 私は、そんなことはないと思います。

 もちろん私は、「教科書で教える」授業を否定するつもりはまったくありません。私自身、少なくとも数年前までは「教科書で教える」授業を真剣に模索していましたし、現在も決してその意欲を喪失したわけではありません。教員は専門職であり、専門職であるからには、与えられた教科書から一歩も踏み出せないようではいけないと思います。教員は現実に甘んじることなく、大いに学び、研鑽すべきなのです。しかし他方で、「教科書で教える」授業がうまくいくためには、現実には、ある程度熟練した教員と、ある程度の基礎学力と学習意欲をもった生徒たちが必要だ、とも思います。それゆえ、ふつう一般には、まず第一には、「教科書を教える」授業すなわち「教科書を勉強させる」授業にしっかり取り組むべきではないか、と思うのです。

 読者の皆さんは、私が矛盾したことを論じているような印象を受けるかも知れませんが、そうではありません。私は、十分に条件が整っていない場で無理に「教科書で教える」授業を展開しようとしても、あまり有効ではない、ということを言いたいのです。時間をかけて一つのテーマを深く追求する授業は、成功すればたいへん魅力的な授業になります。(理想を言えば、私たちはそのような魅力的な授業をどんどん実践できるような学校と、それを認める社会を作らなければならないと思います)。しかし他方で、一つのテーマに多大の時間をかけていると、そのために犠牲になる内容もまた多くなります。小・中学校のうちに修得しておくべき基礎的な事柄が十分修得できていないまま入学してくる高校生が増えているように思われる昨今、まず教科書に沿って学習し、教科書の内容を全部ひと通りは学んで おくようにする努力を、私たち教員はこれまで以上に考慮する必要があるのではないでしょうか。

 また私は、教科書の内容の是非について大いに議論の余地があることも、もちろん承知しています。そのことを否定するものでもありません。教科書が間違っている場合に間違いを正すこと、教科書が触れていない重要事項を授業で補う必要があることは、当然です。しかしその上でなお、教科書には概ねまず第一に学ぶべき基本的内容が盛り込まれているということも率直に認め(かつて教科書裁判が起こされた頃に比べれば、教科書の内容は平均的には少しずつ良くなってきていると私は思います)、特に初学者に対しては、まず教科書の学習に徹するよう指導すべきだ、と思います。

  

 ところで、このように考えてくると、次にこのようなことに思い至るのではないでしょうか。もし、「教科書で教える」授業が結果的に実現するような「教科書」が作られ、そういう教科書「を教える」授業ができれば良いのに、ということです。自画自賛になるかもしれませんが、私は「主権者のための社会科教科書」が、いわばそういう可能性をもった教科書になれば良いなあ、と思うのです。

 

>>教科書読破主義の授業の進め方(例)


2009/12/29 初出

2010/2/14 一部加筆