とよティーの喫茶室
 

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■「主権者のための社会科教科書」誕生の経緯

私の授業スタイルの変化

 ここでは、私が高校教員として働きはじめた頃からの授業スタイルの変化を追い、「主権者のための社会科教科書」がどのような歴史的背景の下で作られてきたかを述べます。

@1991年度〜1995年度(5年間) R高校(初任校)

 全日制普通科の高校。地域の拠点校というわけではありませんが、生徒の学力程度・学習意欲は比較的高い水準にありました。

 「現代社会」の他に「政治経済」・「倫理」・「世界史」も授業していましたが、「現代社会」では赴任した初年度から教科書をほとんど全く使わず、1つの学期に1〜2つのテーマ(人権問題)を掘り下げる授業を実施していました(自分では一点豪華主義と命名しました)。具体的には戦後補償問題や冤罪事件などについて、大量の資料プリントを配布して説明する授業で、例えば冤罪事件の授業では自白調書をプリントして生徒とともに読み、自白が強要されたものかどうかを議論するようなことをしていました。

 教科書をほとんど全く使わなかった理由は、(@)既成の「現代社会」教科書は、「政治経済」と「倫理」の教科書をつなぎ合わせただけのような、独立科目としての統一性に乏しい構成で、特に戦後補償問題や冤罪事件などの人権問題に関する記述がほとんどないことに大きな不満があった、(A)教科書を忠実に教える授業よりも一点豪華主義のほうが生徒の反応が良かった(と思えた)からです。当時、家永三郎先生の教科書検定訴訟を支援する運動に熱心に関わり、その中で出会った教科書会社の人たちから「最近の教科書は以前よりも良くなっていますから、ぜひ教科書も使ってください」と頼まれ、それゆえ自分の授業では教科書を全く使っていないということに内心矛盾を感じつつも、それでも積極的に授業で教科書を使う気持ちにはなれませんでした。いっぽう生徒からは、「ニュースをよく見るようになった」、「現代社会を深く知ることができた」等の高い評価がある反面、「大学受験の試験科目に選択できない」、「内容が偏っていた」等の不満も寄せられていました。

 この当時の授業実践については、拙稿「「人権問題」を中心テーマに据えた「現代社会」の授業構成―731部隊・家永教科書裁判の授業実践―」,『教育』第48巻第5号(1998年5月号),国土社を参照してください。その稿中、「授業の枠組みを根本から変える個性的な教科書が出版されるように期待したい」(同p84)と述べたことが、今回提案する「主権者のための社会科教科書」につながっています。

A1996年度〜2001年度(6年間) N高校

 農業系の実業高校。ほとんどの生徒が基礎学力に乏しく、教科の学習よりも生徒指導に手がかかる学校で、当時の卒業生の進路はほとんどが就職でした。

 この時期の「現代社会」の授業は、R高校時代よりも扱うテーマの数を増やし個々のテーマの掘り下げは浅くしましたが、基本的には同じスタイルの授業を展開していました。多くの生徒が私の授業を消化しきれていない様子でしたが、私は一点豪華主義のほうが生徒の学習意欲を喚起できるはずだ、との考えから、生徒の実態に授業を合わせる配慮はほとんどしませんでした。

B2002年度〜2008年度(7年間) N養護学校

 病弱児のための養護学校で、小学部から高等部まであり、ほとんどの児童・生徒が隣接する病院に入院しています(自宅からの通学生も少数ながら在籍していますが)。小学部・中学部・高等部いずれの学部にも、重度障害の児童・生徒、知的障害の児童・生徒、および知的障害のない児童・生徒がそれぞれ在籍しています。この学校に勤務したことが、私の授業スタイルの大きな変化につながりました。

 私がこの「主権者のための社会科教科書」の執筆の直接のきっかけとなった高等部の生徒たちは、知的能力の面では普通の高校生と差はありませんでしたが、多くが筋ジストロフィーという病気を患っていました。筋ジストロフィーは全身の筋肉が萎縮していく遺伝性の病気で、現在のところ治療法はありません。幼児期に発病し、成長とともに身体がやせ細っていきます。病気が進行すると車いすの生活となり、筋力低下により自力で呼吸できなくなると、24時間呼吸器が必要となります。個人差もありますが、おおむね高校生の時期には自力で手足や頭を動かすことは難しくなり、自分で教科書を開いたりノートをとることはほとんどできなくなります。自力でノートがとれないため、教室には「OAボード」(=ホワイトボードにスキャナ読取機が付いた事務機器で、ホワイトボードに板書した内容が電子的に読み取られ付属のプリンターで印字される機械)が設置されています。こうして高等部の生徒はほとんどが車いすやストレッチャー(車輪がついたベッド)で学習・生活しており、学習活動はもちろん、排泄や食事など日常動作の多くの部面にも介助が必要でした。卒業生の多くは継続入院で、少数が通信制大学に進学します。

 生徒たちは、入院生活が長いために社会生活の経験が乏しく、例えばコンビニで買い物をしたことがない、電車やバスに乗ったことがない、銀行預金をしたことがない、ということもありました。それゆえ知的能力には問題がなくても、知識の面では小中学生並みということも少なくありません。また特に文章読解力の不足は著しいものがありました。しかも在籍の生徒数が少なく概ね1クラス2〜4名ですので、生徒との距離が近いぶん基礎学力の不足がまともに教員に見えてしまうのです。

 こうした環境にあって、私はそれまでの授業スタイルを大きく変更する必要に迫られました。それまでの授業スタイルでは、たくさんのプリントや教科書・資料集などを扱う必要がありますが、筋ジストロフィーの生徒にそのような動作を求めるのは難しいからです(例えばふだんの予習や復習あるいは試験前の勉強の際に、病棟のベッドに一人横たわっている筋ジストロフィーの生徒に向かって「自力で複数の教材を扱いながら勉強しなさい」とはなかなか言えません。多忙な看護師の援助に期待することも困難です。このあたりの事情は実際に経験の無い方には理解しがたいかもしれませんが・・・)。そこで私は、生徒の読解力の養成にも役立つであろうとの期待もこめて、自分の授業スタイルを根本的・劇的に変え、「全巻通読」を目標に教科書だけを忠実に読み進めるスタイルにしたのです(自分では教科書読破主義と命名しました)。 誤解を避けるために念のため付け加えますが、私が「教科書読破主義」の授業を始めたのは、校長や教頭など管理職から圧力を受けた結果ではありませんし、生徒から要望があったわけでもありません。100%完全に私自身の判断によるものです。授業で使用する教科書を採択する際には、授業中にページをめくらなくてすむよう見開き1単元になっている教科書を積極的に採用しました。そして担当した「日本史」・「政治経済」・「倫理」の授業では、実際に教科書の全巻読破を達成するようになりました。すると生徒からは、「(教師が作った穴埋め式の)プリントを使って授業するよりも良い」という声がくるようになり、また模擬試験や資格試験(歴史検定)でも良い成績を収められることがわかってきました。

 こうしてN養護学校に勤務している間に、私の授業は基本的に「教科書通り」の授業になっていったわけですが、しかしながら「現代社会」の授業に関してだけは事情が違いました。以前R高校在勤中に感じていたことが原因で、「現代社会」だけは既存の教科書どおりに進める授業では満足できなかったのです。そこで私は、既存の教科書の中身をなるべく取り込みながら、同時に(既存の教科書には書かれていないが)主権者として学んでおくべき内容をも積極的に盛りこみ、全体を日本国憲法を軸に統一的にまとめた、“本当の意味で自分の授業に合った教科書”、すなわち「主権者のための社会科教科書」の開発に取り掛かることになったわけです。本格的な執筆は2007年度の半ば頃から開始し、執筆が終わったページから授業に使用すると共に、このWebサイトにも公開するようになりました。

   

 以上のような前史があって「主権者のための社会科教科書」が生まれてきたわけですが、こうしてみれば、「主権者のための社会科教科書」は、いわば「一点豪華主義」と「教科書読破主義」の折衷的なところに位置づけられることがお分かりいただけると思います。

 

>>教科書読破主義の授業の進め方(例)


2009/12/29 初出