ふたたび毎日新聞「旧暦どっぷり」について

 毎日新聞日曜版に2008〜2009年に連載された松村賢治氏の『「旧暦どっぷり』について、筆者はそのいい加減ぶりを指摘して来た。ところが、2014年7月に大阪で開かれた暦文協シンポジウムで、同氏は従来どおりの主張を繰り広げている。暦文協会員でもある筆者としては捨て置けないので、当時の批判文(一部修正)を再掲載するものである。
2014.9.11

 毎日新聞日曜版に「旧暦どっぷり」という記事が連載されている。読んでみると実にひどい。旧暦についての誤解を助長するような内容ばかりなのである。こんなものが一年も続くという。毎日の見識を疑う。

 「今はまだ旧の五月にもなっとらんけえ、ほんまの田植えは早すぎるんよ・・」。
 地元の古老の間で旧暦のことが話題に上っているのです。
「旧暦どっぷり」2008.11.2

 広島県の田舎で聞いたというのだが、俄かに信じ難い言葉である。「旧の五月」の始まりといえば、小満(新暦では5月21日頃)直後のこともあれば、夏至(6月21日頃)のこともある。田植えの時期が年によって1カ月も違うなどということがあるだろうか?

 井伏鱒二「黒い雨」に、「結構な芒種です」という挨拶が出てくる。広島で被爆した一家が、まさに広島県の農村部に住んでいるという物語である。時代は昭和20年代頃かと思われる。
 芒種なら、新暦6月6日頃と、完全に太陽暦固定である。こちらを田植えの目安にするというのなら、まことに合理的なのであるが、「旧の五月」はそうではない。
 今月は芒種と虫供養がすんで、十一日にはお田植祭、十四日には旧の菖蒲の節句、十五日には河童祭、二十日には竹伐祭と祭が続く。
「黒い雨」pp127(新潮文庫版)

 これの前に「虫供養は芒種の次の次の日」とあり(pp87)、芒種を起点として数えられていることがわかる。「旧の菖蒲の節句」もあるが、これは旧暦五月五日がたまたまここに入ったにすぎない。「お田植祭」は、ここでは旧暦五月二日ということになるが、旧暦の日付で決まっているのか、これだけでは判然としない。しかし芒種が重視されているのは間違いないところである。
 「何でも鯉は、八十八夜から卵を産むそうな」と庄吉さんが云った。
「黒い雨」pp106

 周知のとおり、八十八夜とは立春から88夜目のことである。立春は芒種と同様、紛れもなく太陽暦固定(新暦2月4日頃)であるから、これも太陽暦を重視しているのである。
 重松は家に帰ってから加藤大岳編纂の「宝暦」という暦を見た。旧暦は立待月の六月十七日、聖護院大根、隠元豆、結球白菜など、人参、瓜類の後地に播くに適した日頃となっている。九月の残暑というものを利用した農作経験から得た貴重な教えである。なるほど、これなら鯉の子も育つわけだと思ったが、あと三日で新暦では八月六日の広島原爆追悼日、八月九日は長崎原爆追悼日となっている。
「黒い雨」346

 注意深く読んでみると、『旧暦は立待月の六月十七日』という情報は付け足しに過ぎないことがわかるだろう。その後の『聖護院大根、隠元豆、・・播くに適した日頃』というのは、新暦の8月6日の3日前(8月3日)頃に適切なアドヴァイスであって、旧暦六月十七日のためのものではない。旧暦六月十七日というのは年によってもっと早かったり遅かったりするからである。そして重松、いや著者の井伏はこれを『九月の残暑というものを利用した農作経験から得た貴重な教え』と正しく解釈している。無論この『九月』とは新暦の意味である。おそらくかつての農民の多くは、暦書の記述をこのように正しく理解したはずである。

 要するに、「黒い雨」に見られる昭和20年代の広島県の農民像は、旧暦に頼っているようだが、重視したのは芒種や八十八夜といった実質太陽暦なのであって、旧暦の日付などではない、ということである。
 「黒い雨」は、勿論フィクションである。しかしかつての農民のこのような旧暦の捉え方を、何の足がかりもなしに創作できるだろうか?むしろこれは、実際の当時の農民像を活写したものと考えるべきだろう。それでこそ文豪である。

 「旧暦どっぷり」の「古老」は、「黒い雨」の時代にはまだ若かったはずである。その先輩にあたる当時の古老から何を学んだのか?何が正しく伝わり、何が誤解されたのか?検証の必要があるだろう。「今はまだ旧の五月にもなっとらんけえ、ほんまの田植えは早すぎる」という言葉を直ちに「古老の言葉」として鵜呑みにはできない。

 20年ほど前、沖縄の古老から聞いた話のあらすじです。
 (略)
 「二十四節気(例えば立冬)が、旧暦のどこに入るかでその年の傾向が分かる」という古老の話です。「今年は立冬が旧暦十月十日だった」という意味は、冬の訪れが立冬より10日早いことになるのです。なぜなら、旧暦の冬は十月一日からですから、立冬の10日前にすでに冬になっていたというわけです。
「旧暦どっぷり」2008.11.9

 これは「広島の古老」の話と比べてもタチが悪い。
 「旧暦の冬は十月一日から」だから、「立冬が旧暦十月十日」なら冬の訪れが立冬より10日早いというのはたんなる形式論理である。「広島の古老」の場合は、「田植えには早すぎる」という具体的な話があって、その真偽はともかく、何を言いたいのかはわかる。こちらにはそれがない。具体的にどのように「冬が10日早い」のかについては何もない。こんなのは科学的には何も言ってないのに等しい。それでいて、「古老の話」と称して自らの主張を権威付けしようとしている。姑息な文章である。

 そもそも、「古老」とはなんとも大時代な言葉だ。黄門様の印籠よろしく、誰でもひれ伏しそうだ。それはどのような人達なのか?現代の日本では、90歳だろうが100歳だろうが、せいぜい「ご老人」というのが普通ではなかろうか。「古老」などと言われると却って嘘くさく感じるのは、私がひねくれているだけだろうか?

 しかし「古老」など持ち出す必要もなかろう。季節が旧暦の日付で決まる(旧暦十月が早ければ冬が早い)と言いたいのなら、データで実証すれば良い。現在では気象庁のデータはネットで簡単に閲覧できる。それと旧暦を突き合わせてみれば良いのだ。まあ、中学校の自由研究には丁度良いかもしれない。そして請合っても良いが、季節は旧暦でなど決まらないことがすぐにわかるだろう。

 平成21年の旧暦は、五月の次に「閏五月」が入ります。ですから夏は四月、五月、閏五月、六月の4カ月となります。
「旧暦どっぷり」2008.10.26

 ほう、そうですか。ならばこれはどうだろう。
 「2012年には閏三月が入ります。ですから春は一月、二月、三月、閏三月の4カ月となります。」
 「旧暦どっぷり」と全く同じ論法だから、その支持者は当然そのとおりと言うだろう。しかし、上記の閏三月は日本だけに現われるもので、中国や台湾などでは閏三月ではなくて閏四月が現われるとなるとどうだろう?日本では「春が4カ月」なのに、中国他では「夏が4カ月」なのだ!

 閏月の決め方については「旧暦どっぷり」にも説明されている(2008.10.26)。そして基本的に間違いではない(おめでとう!)。しかしここで復習しておこう。
 旧暦の月の名前は「中気」で決まる。中気とは二十四節気のうちのひとつとばしのものである。まず立春の次の雨水が「正月中気」で、これを含む月が旧暦一月、啓蟄の次の春分が「二月中気」で、これを含む月が旧暦二月、清明の次の穀雨が「三月中気」で、これを含む月が旧暦三月、立夏の次の小満が「四月中気」で、これを含む月が旧暦四月、・・・以下も同様である。ところが、中気の間隔は30日強であるのに、朔望月(朔から朔まで、旧暦の1カ月)は30日弱なので、時に中気を含まない月が現われる。これが閏月である。たとえば三月の後に閏月が現われると閏三月となる。

 さてそこで2012年であるが、この年は新暦5月21日0時17分(頃)が小満(四月中気)で、同じ日の8時48分(頃)が朔。したがってこの日からが旧暦四月である。一方、その前の朔(新暦4月21日)からの月には中気が含まれないので、これが閏三月となる。

 つまり「旧暦どっぷり」の論法に拠れば、日本と中国の時差なんてものによって、日本では「春が長く」なり、中国他では「夏が長く」なる、ということになる。日本では閏三月なのに中国他では四月。沖縄ではまだ春なのに海峡を隔てただけの台湾ではもう夏。しかもこれが1カ月も続く。その原因は日本と中国の時差だけ。実に摩訶不思議である。一体これをどう説明するのか、是非伺いたいものである。

 結論から言うと、閏月の置き方なんて人間の都合で決めたものなのである。だから時差なんて要因でも変わってしまったりする。これは季節とは何の関係も無い。閏月が入ったからといって、春/夏が長くなるなどというのは、「一、二、三月を春、四、五、六月を夏、・・」とする「約束事」の中の話であって、そんなもので実際の季節を予測できる訳はないのである。「十月が早ければ冬が早い」などというのも全く同様。馬鹿げたたわごとでしかない。

気候読み商品「衣替え」
 旧暦の知識を衣料品の販売に生かしている会社がある。・・・
 例えば5月初めのゴールデウィーク(GW)ごろの品ぞろえ。来年は、旧暦では閏(うるう)3月が入る関係で、暦の上では春が4カ月と通常より長めとなり、GW過ぎまで春の気候が残ると同社は読む。
 このため「商品を夏物に切り替えても、ベストや羽織ものなど、春物も一部残しておく必要がある」・・・
2011年5月17日 日本経済新聞

 時々目にする珍説ですが、大新聞だから真に受けてしまう人も少なくないかと危惧します。
 しかし既に見たように2012年、日本では閏三月があって「春が長い」のですが、中国などでは閏三月はなく、かわりに閏四月があって「夏が長い」のです。さてこの「春が長い」地域と「夏が長い」地域は、どこで別れるのでしょうか?国境で変わるのでしょうか?
 だとすればうまい手があります。尖閣諸島は来年春が長いか夏が長いかによってその帰属を決めれば良い。・・・
 無論冗談です。「三月までが春、四月からが夏」というのは観念的季節区分です。また閏の置き方は「中気のない月が閏」という約束事で、その中気のない月は人間の決めた国境に左右される時差で変わってしまうことがある。こんなもので実際の季節の長短がわかるわけはない。ちょっと冷静に考えればわかることです。他人事ながら、この会社の業績が悪化しないことを祈るばかりです。
拙著『暦はエレガントな科学』(PHP研究所)より

 動植物のバイオリズムは月の影響だと経験的に認識していたからこそ、太陰太陽暦という高度な暦が編み出され、種まきなどを微調整したと考えられないでしょうか。
「旧暦どっぷり」2008.11.9

 考えられませんね。
 野菜やお茶の旬も微妙です。3日ズレると味が変わります。収穫の最適期を知るために月と太陽の関連を加味し、・・・
「旧暦どっぷり」2008.11.9

 だから「新茶摘み」は八十八夜の頃とされている。前にも述べたように、八十八夜は完全に太陽暦固定なのだ。
 旧暦の日付はアテにならない。だからそれを補うために節気やそこから導かれる八十八夜や二百十日などの太陽暦要素を取り入れたのだ、とは考えられませんか?

 要するに、ここの論旨は事実と正反対なのだ。
 月が満ち欠けを12回繰り返したら元の季節に戻るということは、非常に古い時代から知られていた。しかしそれは正確な1年ではなくて、10日程短いということも次第に知られるようになった。それで閏月を置き、調整することを考え付いた。19年に7回の閏月を置けばほぼ正確な1年になるということは、中国でもギリシャでも知られていた。中東にも同様の暦があったようだ。これが実に紀元前数世紀という大昔であるが、この時太陰太陽暦の骨組みはほぼ出来上がったと言えるだろう。「動植物のバイオリズム」を認識して後から月の要素を採り入れたのではない。純粋太陰暦から出発して、1年という太陽暦の要素を組み込むために多大な努力が払われた。それがこの暦なのである。太陽暦を知らなければ季節がわからない。種まきや刈入れの時期も(野菜やお茶の旬も)わからないからである。

 その後ヨーロッパは純粋太陽暦に移行し、イスラムは純粋太陰暦を採用した。ひとり中国文化圏だけが、この太陰太陽暦を使い続けた。
 誤解のないように言っておくが、これは何もこの暦が時代遅れの劣ったものという意味ではない。むしろ中国暦はきわめて精巧な科学なのである。このことは多くの人に知ってもらいたい。
 しかし「旧暦どっぷり」の内容は、この精巧な科学を全く伝えていない。それどころか、全く誤った根拠のない「新たな迷信」をでっち上げているだけなのである。こんなものを延々と連載しようという毎日新聞には見識がないのか?大いに疑ってしまうのである。

 実際、「旧暦どっぷり」には非科学的な内容が随所に見られる。以下にその一部を掲げておく。
 太陽と月の間に地球が挟まれて一直線になった時が満月です。しかし、月も地球も周回軌道は真円ではありませんから、地球の影が月を覆う「月食」は、本当の一直線になった満月の日にしか起こらないのです。
「旧暦どっぷり」2008.11.23

 何故、周回軌道が真円でなければ「本当の一直線」にならないのか?そんなことはない。
 この理由は、地球の公転軌道が乗っている面(黄道面)と、月の周回軌道面(白道面)が同じではなく、5°ほど傾いていることにある。もしこの2つの軌道面が一致しているなら、軌道が真円であろうとなかろうと、新月の時には必ず日食が、満月の時には必ず月食が起こる。ちょっと考えれば誰にでもわかることである。
 ノーベル物理学賞の益川さんのお父さんは、銭湯の行き帰りに「何故日食月食は毎月起こらないか」といった話をされたそうな。もし「旧暦どっぷり」のようないい加減な説明を受けていたら、益川さんの後のノーベル賞はなかったろう。親の責任は重い。

 旧暦時代の天文学では、日食も月食も暦の上で予測できていました。
「旧暦どっぷり」2008.11.23

 間違いとは言えないだろうが、むしろ「暦と天文学が一体だった」と言うべきだろう。精密な天体観測によらなければ、この種の暦は作れないのだ(どこがスローライフなのだろう)。

 894年、菅原道真の具申で遣唐使が廃止されました。以来、690年近く中国からの暦情報が入らなくなり、誤差が生じて二日の日食が起きたのです。さらに100年がたち、誤差は2日に増えてしまいました。1684(貞享元)年、江戸幕府の天文方、渋川春海は日本独自の「貞享暦」を編纂し、2日の誤差を修正しました。
「旧暦どっぷり」2008.11.23

 別に690年(?)情報が入らなくなったから日食に誤差が生じたのではない。貞享の改暦まで800年以上(!)使われていた「宣明暦」の日食の予測精度は、時が経ったからといって特に落ちたわけではない。元々この程度だったのである。貞享の改暦の前には、その頃渋川春海が推していた元朝の「授時暦」の日食の予測が外れ、逆に旧来の宣明暦の予測が当たるという皮肉な事態も起きている。当たることもあれば外れることもあったのである。
 ただ、宣明暦は800年使われている間に、冬至および各季節の指標である節気が実際より2日ほど遅れた。宣明暦では1年を365.2446日としていたためである。実際の1年は365.2422日だから、これは0.0024日長い。それを愚直に毎年365.2446日ずつ加算したものだから、800年では2日のずれとなったのだ(0.0024×800=1.96)。これは日食月食とは何の関係も無い。
 「永年の間に誤差が生じて日食を外すようになった」という誤解は多くの書物に見られるものである。だから「旧暦どっぷり」ばかりを責めるわけにはいかないかもしれない。しかしこれに関しては既に昭和50(1975)年発行の内田正男編著「日本暦日原典」に明確に記されていることである。大新聞に連載するなら、せめてこれくらいは調べてほしいものである。
 だいたい、「690年で1日の誤差」が生じて、それが「次の100年で2日になる」というのは、どんな算法なのか?正確な事情を知らないで何かの受け売りで書いているから、こんな愚かな間違いを犯すのだろう。
 因みに、冬至や節気がずれたということは、旧暦の月の決め方を考えれば、月名が本来と異なることが起こりえたということになる。つまり、日本と中国その他とでは月が異なることが往々にあったと考えられる。「旧暦どっぷり」流に言えば、日本ではまだ春なのに中国、朝鮮ではもう夏などという滑稽な事態が。なるほど、貞享の改暦の真相を知ることは、「旧暦どっぷり」にとっては墓穴を掘ることになるか。

 「894年、菅原道真の具申で遣唐使が廃止され」たというのは間違いではないが、実際に行われた遣唐使は、その60年ほども前、慈覚大師円仁らの時が最後である。そしてこの遣唐使では宣明暦は伝わらなかった。それはその後、渤海国からもたらされ、日本では貞観四(862)年から用いられた。だから道真から数えて690年という数字は、ここでは何の意味もない。そもそも暦と遣唐使は奈良時代を除いてほとんど関係がないのである。
 宣明暦行用から数えれば、「本能寺の変」までは720年ほど、貞享の改暦までは823年で、先述のようにその間に冬至、節気が2日ほどずれたのである。

旧年ふるとしに春立ちける日よめる       在原元方
 年の内に春はきにけり一とせを去年こぞとやいはん今年とやいはん

 暦法を少し知っていれば「年内立春」なんてたいして珍しくもないことはすぐにわかることである。立春の次の雨水が「正月中気」なのだから、旧正月はほぼ半分の確率で立春の前または後になる。それを、「立春」という言葉の意味にばかり拘って、つまらないことを大袈裟に謳っている。科学としての暦への理解も敬意も全く感じられない。
 古今和歌集が編纂されたのは十世紀初頭とされる。宣明暦行用からは半世紀ばかりか。既に暦に関してはこんな無知が罷り通っていたわけだ。遣唐使廃止の影響は、このような知性の堕落にこそ見ることができるだろう。そして「旧暦どっぷり」は、このような「伝統」を今に受け継ぐもののようだ。

Dec. 10, 2008

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