ハロウィーンは節分だった!

 10月31日、渋谷のスクランブル交差点は仮装した若者たちでごった返す。ハロウィーンである。クリスマスなどと同様、本来の宗教的意味とは関係なく、TDLやUSJなどのイヴェントとして広まっているようである。
 しかし実は、このハロウィーンは立冬とおおいに関係がある。これについて見て行こう。
 まず、ケルト族には季節の祭がある。それは以下のものである。

(ケルトの暦)
イモルグ(Oimelc)冬至と春分の中間にあたる日1月31日〜2月1日
ベルティネ(Beltain)春分と夏至の中間にあたる日4月30日〜5月1日
ルーナサー(Lughnasadh)夏至と秋分の中間にあたる日7月31日〜8月1日
サウィン(Samhain)秋分と冬至の中間にあたる日10月31日〜11月1日

 ここで、「冬至と春分の中間にあたる日」、等々の回りくどい言い方は、東アジアでは「四立しりゅう」と言えば済むこと、つまり立春、立夏、立秋、立冬である。既に述べたように、神宮外苑では立春にダイヤモンド富士が見える。そしてそれは立冬にもう一度見えるのであるが、さらに千葉県の館山では立夏と立秋に見える。これら二至(冬至、夏至)と二分(春分、秋分)の中間点は中国では1年を4等分する日として重要視されて来たのだが、ケルト族にもまさに同じ概念があったことがわかる。おそらくそれはストーンヘンジの時代から受け継がれて来た伝統なのであろう。その中でもサウィンは特に重要で、これがケルトの新年である。東アジアでは立春が新年であるが、ケルトでは立冬がそれにあたり、そのサウィンの前夜がハロウィーンである。「節分」というのは現在の日本では立春の前夜だけが残っているが、本来は四立の前夜はすべてが節分である。その論法を適用すれば、ハロウィーンは立冬前夜の節分なのである。

 ところで、近年の四立の日付は次のとおりで、上記のケルトの祭とは3〜6日の違いがある。これについて説明する。

立春2月4日頃
立夏5月5日頃
立秋8月7日頃
立冬11月7日頃
 サウィンはその後キリスト教の となった。それは9世紀頃、ウィキペディアによれば835年のことという。 。これは唐の大衍暦によるもので、立冬は洛陽の時刻で決められているから、ケルトの住んでいたヨーロッパとは8時間ほどの時差がある。だから向こうでは11月1日であってもおかしくはない。この時代にサウィンやハロウィーンの日付が固定され、それが現代まで続いていると考えられるのである。

 では何故、現代では11月7日頃の立冬が9世紀には11月2日頃だったのか?最も大きな原因はJ暦の不正確さにある。そもそもこの暦は古代ローマのユリウス・カエサルによって制定されたのだが(BC45年)、平年は365日、4年に1度の閏年は366日とした。平均は365.25日となるが、これが少し長すぎた。実際の1年(平均太陽年)は365.2422日ほどなのである。したがってこの暦では400年で3日ほどのずれが生ずる。
 そしてローマ教会は、 。この時代には実際そうだったのだが、J暦の誤差のため実際の春分(太陽が真東から昇り真西に沈む)は9世紀には4日早くなった。この誤差は立冬(を含む二十四節気)にも及ぶ。実際、先の承和二年十月七日庚辰は現在のグレゴリオ暦(G暦)に換算してみると11月6日となる。
 もうひとつ、現在の二十四節気は太陽の動きの遅速を考慮した定気法なのに対し、古い時代には1年を単純に24等分する平気法だったことによる誤差もある。定気法で計算すれば、835年の立冬は11月7日になる。
 なお、G暦はJ暦の誤差を解消するために1582年にローマ教皇グレゴリウス13世により制定された。このとき、同年10月5日〜14日の10日間を飛ばし、また閏を400年に97回とした。これにより春分はもとの3月21日頃に戻り、長年月にわたってほとんど誤差がなくなった。これが現在日本を含む多くの国で使われている暦である。

 再整理すると、ハロウィーンはサウィンの前夜で、そのサウィンはケルトの立冬だった。キリスト教の浸透の中でサウィンは『諸聖人の日』となったが、その時代にはJ暦11月1日だった。その日付が固定されてG暦になった現在にも残ったため、本来の立冬(G暦11月7日頃)からはずれてしまったのである。
 してみると、ハロウィーンは10月31日ではなく神宮外苑でダイヤモンド富士が見える日、 渋谷は外苑からは指呼の間だから、渋谷でも(高いビルに登れば)ダイヤモンド富士が見える日の前日に行うのが正しいのかもしれない。
 ここには、ケルトとローマの文化の大きな違いが見られる。
 ケルトは、おそらく非常に古い時代(ストーンヘンジの時代?)から太陽をつぶさに観測し、二至二分さらには四立までも知っていた。その暦は当時としてはかなり正確だった。
 一方ローマは、 をもとにJ暦を制定したが、その後観測による修正は行わなかった。ただ、キリスト教の儀式のために春分の日付を決める必要があったが、それを不正確なJ暦上で「3月21日」に決めてしまった。
 やがてケルトにもキリスト教が及び、その中でケルトの祭もキリスト教に採り入れられたが、その時、観測によって決められる日取りではなく、J暦上の決まった日に固定されてしまったのである。暦に関してはローマはケルトより劣っていたのだが、キリスト教の影響力は、劣ったローマの暦をケルトにも押し付けることになったのである。

 東アジアに目を向けてみる。日本では承和二年の立冬がJ暦11月2日に当たること、そしてこれは唐の大衍暦によることを述べた。その後、貞観四(862)年からは同じく唐の宣明暦に代わった。いずれも、1年の長さを365.2444〜365.2446日としている。これはJ暦の365.25日よりは少し正確であるが、それでも誤差は免れない。実に800年に渡って宣明暦を使い続けた結果、季節が2日ほどずれた。J暦の400年に3日と比べればカワイイとも言えるが、観測による修正を行わず不正確な暦を使い続けたことの帰結という意味では共通する。
 その間、ご本家中国では暦は改良を続けた。そもそも前漢の太初暦で1年を365.25日としており、これはJ暦より60年ほど早い。そして唐代には先の大衍暦や宣明暦の値となり、元代の授時暦ではG暦と同じ365.2425日を採用した。これはG暦より300年早い。
 これらの改良はすべて観測を通じて行われた。中国では古来、影の長さを計って冬至を決めたのである。その観測精度が次第に高くなり、正確な1年を決めることができたのである。
 日本には、吉備真備が大衍暦を持ち帰った時、「測影鉄尺かげをはかるくろがねのしゃく」つまり冬至の影を測る鉄の棒(ノーモン)も伝えたのだが、この時は「学ぶものなく」という有様であったという。その後も暦法どおりに計算するだけで、観測により暦自体を改良するということは江戸時代になるまで行われなかった。はじめてそれを行ったのは渋川春海で、彼が作った貞享暦は貞享二(1685)年から採用された。

日本のホライズン・カレンダー


Mar. 2016
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