南画講座
新しい南画はこう描く

阪本雅城
        


画は役にたつものです。
会合の席で「ちょっと一筆、どうぞ」と、たのまれた時、色紙をよごすぐらいのお家の芸があってもよいでしょう。
サインの代わりに水墨画。そんなてほどきをやってみましょう。


南画はどんな素人でも描けます。だれでも、自由に思うままに腕がふるえます。そして、ほんとうの意味の芸術精神を盛り込むことのできる大芸術です。

 ひょうたんです。この画のもとは東嶺禅師のひょうたん図にあります。東嶺は白隠禅師の第一のお弟子さんで、画が上手で画のほうでは白隠の師匠といってよいほどでした。
 線だけで描いたかんたんな図です。まづはじめに口、つぎが左の半分を一気に描きます。さいごに、右の半分、これも一本の線で、一と息に描きます。禅画は気合がこもっています。墨をなすりつけるように、力強い線で全精神を叩きつけるような勢いです。

 禅のお坊さんは、よくひょうたんを描きます。それは禅の「趙州録」という本の中にある話から出ているのです。ある時、ひとりの坊さんが、趙州に「いかなるか。これ祖師西来の意」とききました。すなわち、禅宗の本意はどういうものなのですか、ときいたのです。すると、趙州和尚は、「その壁に、前からひょうたんがぶるさがっているが、いつ頃からだったかのう」と、いった話です。
 東嶺の瓢の図は、達磨さんの後ろ姿にも見えておもしろい画です。瓢の口は小さくて、入りにくいところが禅に似ている。入るとようやく境界が開ける。つぎに狭い関門にぶつかります。そこをぬけると、もっと広々とした湖上に出た感じです。やがてそこもぶち破って、ほんとに自由な世界に出ることができます。これが禅というものだ、と教えています。
 そんな意味で、禅の坊さんたちは、好んで瓢の図を描きます。形が単純で、気の気合いで描ける手頃の題材でもあるのでしょう。





 この自由が、また禅画を定義ずけるものの一つでもあります。大森曹玄老師は、禅と芸術と題する文の中で、「なにものの拘束もつきやぶった絶対的自由のないところには禅の芸術はない」といってます。絶対的自由の世界は、一切を肯定する創造的世界であり、その自由無礙の生活、遊戯三昧の行為が、具体的に行動的に表現されたものが禅芸術である、というのであります。だから、「〇」一つ描いても、「△」を描いても出格自在の風韻が自づからにじみ出るのが禅画なのであります。


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