阪本雅城のご紹介


            


 明治28年(1895)東京都 あきる野市 五日市に生まれる。
本名、坂本雅城。
小学校5年生のおり、先生にたのまれて校章をデザイン。今日でもその校章は五日市小学校で用いられている。

 
 明治45年(1912)府立第二中学校(現立川高等学校)卒。本画を独学。画家として独立するが生計たたず。岡本一平にすすめられて漫画家の看板をあげる。

 昭和 9年(1934)ロボット漫画「タンク・タンクロー」を講談社「幼年倶楽部」に連載。号を追うごとに人気を博す。昭和の子ども文化に貢献。
           


 昭和14年(1939)「子ども漫画」も軍部から冷たい目でみられるような時代となり連載を中断。中国大陸へ満州開拓総局の嘱託として招かれ離日。その間、水墨画を本格的にはじめる。


昭和18年には銀座の菊屋画廊で水墨 画の第1回個展開催。

昭和21年(1946) 中国から引き揚げ。戦後は漫画家としての筆を折り、禅の修行と水墨画に専心。天竜寺派高歩院大森曹玄老師の鉗槌をうく。

昭和28年(1953) 第 2回個展 上野松坂屋 58歳。

昭和34年(1959) 第 5回個展 日本橋高島屋 64歳。

昭和42年(1967) 第12回個展 新宿京王百貨店 72歳。

昭和47年(1972) 第14回個展 大丸東京店 77歳。

昭和48年(1973) 没 享年78歳。



昭和50年(1975) 遺墨展  新宿京王百貨店

昭和54年(1979) 遺墨展  多摩信ギャラリー

平成 4年(1992) タンク・タンクロー展 ふるさと工房五日市

平成 8年(1996) 阪本雅城仏画展 高幡不動尊金剛寺 京王帝都電鉄後援



南画家の雅城について


 阪本雅城は絵がメシより好きで、中学に入学したときは、すでに画家を自分の天職と決意していたという。毎日のように放課後になると学校の周辺でスケッチをして回った。多摩川の清らかな流れや武蔵野の静かな雑木林のたたずまいは、いくら描いても描きつくせない美しさだった。

 雅城の画業には画についての師を求めた記録はどこにもない。機会もないままに、レンブラントを師と仰ぎ、中国の画僧・牧谿(もっけい・13世紀)や梁楷(りょうかい)の芸術の深さは、その境涯の高さを示すものであると感じ、禅の修行と自習自得の錬磨の道をたどったのである。伝統の画にはそれなりの流派の臭味とでもいうものが意識されるが、雅城の作品にはそれがない。
    戦前は漫画家で名をなした雅城も、昭和二十年終戦となり満州(中国東北部)から逃れ北朝鮮で暮らすことになる。その間の忍苦は、言語に絶する一年間であったが、雅城を慰め鼓舞したものは橋田邦彦著「正法眼蔵釈意」の一冊と裏山に続く松林だった。雨の日も雪の日も雅城はこの松林を歩かない日はなかった。監禁同様の身で人目をはばかりながら、山に入りわずかな間をのがれて心を癒した。そして、赤松のいかに美しいかもここで知ったようだ。自然のふところの暖かさに涙し、現成公案の真意義の探求も松林においてだった。紛々と雪の降る松林の中に立って、赤松の幹々の友禅の模様の如き美しさに驚きつつ、道元禅師の心身脱落の悟徹などが想い合わされて心おどるのをおぼえた。雅城はその間、松を眺め石を友として暮らした。
 雅城を水墨画(南画)にかりたてていったものは大陸での生活経験だった。
 雅城は[大陸的な物と人(33年1月23日美術新聞)]の中で次のように語っている。
 「わたくしは中国北部の承徳から興隆という町まで旅をしたことがある。途中は文字通りの山亦山である。大陸の山の大きさとおそろしさをわたくしはこの時ほど強く感じたことはない。この盤々たる、この茫然たる自然にぶつかった時わたくしははじめて中国芸術の芒大さがわかったような気がした。そして日本の絵の倭小(わいしょう)が、いかにも寒々とみすぼらしく思われてならなかった」
 また、その中国芸術の深さについて、「禅文化」(京都花園大学発行第48号)に次のような一文をよせている。
 「牧谿の崇高、幽玄の根底になるものは何であろうか、それは尨大極りない中国大陸の自然であると思う。道教や神仙思想に裏打ちされた自然であると思う。水墨の駆使、濃淡の案配だけでは生まれて来ない。途方もない四維上下だ。あちらの平原に立つと、地平線が円く見える。地の果てに流れる雲が、足よりも低いところに見える。山にしても、海のうねりのように、次第に高く盛り上がって行く。前方に山の連亘の如く見える稜線が、知らぬ間に足の底に消えてしまうような怪奇な平原なのである。日本の山頂に立っても宇宙は感じないが、あちらでは平原にいても宇宙の悠久を憶う。牧谿の画は、かかる自然を描いているのだ。一本の樹でも半個の石でも大自然につながる一樹一石で、山も人も大陸の一角なのである。

『無相の自己の不在のところに、禅芸術の生まれでてくる余地はない』と大森曹玄老師のことばにあるが、牧谿も芸術の深さは、その境涯の高さを示すものである」

 戦後の雅城は禅の修行を大森曹玄老師に師事し、画家として南画に終始したのである。
 そして雅城は病床に伏すまでかたときも筆を休めず、崇高と幽玄の世界を追い続けたのである。


京王線 高幡不動尊本堂の雅城筆「富士図」大額は一般観覧できる。

禅画はギャラリー雅城で常設展示。



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