The Days of Multi第四部第28章パート1 投稿者: DOM
The Days of Multi
第4部 Days with the Kashiwagis
☆第28章 引っ越し (マルチ13才) Part 1 of 2



「移転する?」

 千鶴は驚いた。

「ええ…
 長瀬ともよく話し合ったんですけど、
 やっぱりそれがいいんじゃないかと…」

 綾香は申し訳なさそうな顔をする。

「そうですか…」

 千鶴にはその理由が何か、見当がついた。

「芹香さんの傍で…?」

「…はい。
 大したことはできなくても、
 せめて近くにいてあげられたら、と。
 すみません、
 お店のことではすっかりお世話になっておきながら、
 勝手なことばかり言って。」

「いえ。…ふたりきりの姉妹ですものね。
 お気持ちはわかります。」

 千鶴は、自分の姉妹のこと−−前世と現世の−−を思いながら、答えた。

「耕一さんも、本当は傍にいてあげたいのに、
 それができなくて、いらいらしているようですから…
 せめて綾香さんたちだけでも、
 ついていてあげてください。」

「ありがとう、千鶴さん。」



「え? 何だって?」

 耕一は寝耳に水、と言った顔をする。
 食卓を囲む他のメンバーも同様だ−−千鶴とマルチを除いて。

 柏木家の夕食後。
 居間で団欒の時を楽しんでいた一同は、綾香が口にした「アドベンチャー・ナガセ」の移転話に唖
然としていた。
 ただし、事前に相談を受けていた千鶴は、冷静に聞いている。
 マルチは、いきなり話すと泣き出す可能性があるので、これまた事前にとくとくと理由を説明して、
納得させてある。

「せっかく今の場所で順調にいっているのに…
 駅前にでも進出するつもり?」

 耕一は、それが隆山市内での移転だとばかり思っているようだ。

「いえ、そうじゃなくて…
 東京近郊を考えてるのよ。」

「へ?」

 梓が頓狂な声をあげる。

「あ、綾香さんたち、引っ越しするつもりなの?」

 初音が不安そうな目を向ける。

 楓は…無言で、澄んだ瞳にかすかな憂いを滲ませていた。
 移転の理由を察したらしい。

「どうしてそんな遠くへ?」

 耕一はわけがわからないらしい。

「少しでも芹香さんのお力になるため、
 傍にいてあげられるように、です。」

 千鶴が落ち着いた声で言った。
 耕一、梓、初音がはっとした顔をする。

「今までさんざんご迷惑をかけながら、
 勝手なことを言うとお思いでしょうが…
 セリオがついているとはいえ、
 実質上ひとりで闘っている芹香さんのためには、
 綾香が傍にいることが、
 少しは励ましになると思うんですよ。」

 長瀬も説明する。

 耕一は、苦しそうな表情を浮かべた。
 自ら芹香を助けてやれないことへの自責の念であろう。

「あやかおねーたん! どっかいくんですかぁ?」

 香織が心配そうにたずねる。

「心配しないで。
 香織のママの傍に行くだけだから。」

 綾香が言うと、

「ママのそば? どうしてですか?」

「だって、ママはひとりぼっちで寂しいからよ。」

「ひとりじゃないですぅ!
 せりおおねーたんも、いっしょですぅ!」

「…ママのお仕事はとっても大変だから、セリオだけじゃ足りないのよ。」

「あやかおねーたん、いったらだめですぅ!」

 香織は聞き入れようとしない。

「本当は、香織のパパがママの所に行きたいのよ。
 でも、こちらで大切なお仕事があるから、行きたくても行けないの。
 だから、せめてお姉さんが行って、お手伝いしようと思うの。
 …それとも香織は、お姉さんがここにいて、
 パパが遠くへ行っちゃう方がいいの?」

 業を煮やした綾香がそう言うと、さすがに香織は黙ってしまった。
 父を母に取られたくないのだ。

 結局、店の移転に反対できる者はいなかった。



 綾香たちの引っ越しを数日後に控えたある日。
 夕食後、耕一は目を通すべき資料があったため、早めに部屋に引っ込んだ。

「…ご主人様。お茶をお持ちしました。」

「おっ、マルチか? ありがとう。」

 マルチは耕一の傍に湯呑みとお茶受けを置くと、

「あの… ご主人様?
 ちょっとお話がありますが…
 今、よろしいですか?」

 いつになく改まった調子で切り出した。

「ん? 何だい?」

「実は…
 私も綾香さんたちといっしょに、ついて行きたいのですが。」

「ついて…行く?」

 突然の申し出に、耕一は、わけがわからないといった顔をする。

「芹香さんは、私の大切なお友だちなんですぅ。
 その芹香さんが、会長さんと社長さんをいっぺんに引き受けて、
 とても大変そうなのに、何もお手伝いできないのは辛いですぅ。
 綾香さんのお供をして、少しでもお力になりたいですぅ。」

「つまり… この家を出て、芹香の傍にいたい、ということだな?」

「はい。どうかお許しをいただきたいですぅ。」

「この家を出る理由は…ほかにはないのか?」

「…………」

「あるんだな?」

「…………」

「楓ちゃん…のことか?」

「…はい。」

「マルチ。おまえが気にすることは何も…」

「いいえ…
 もう、私が『代わり』をする必要はなくなりましたし。」

 マルチ同様、耕一との愛の営みを不自由なくできるようになった楓である。
 マルチとしては、「代わり」の意味がなくなってしまったのだ。

「俺は、マルチのことも好きなんだよ。」

「いいえ。」

 マルチはきっぱりと言い切った。

「ご主人様の恋人は、楓さんひとりだけですぅ。」

「…それは…俺が芹香に同行するよりも、
 柏木家に留まることを選んだからか?」

「そうじゃないですぅ。
 最初から、ご主人様には、
 エディフェルさん…楓さんしかおいでにならなかったんですぅ。
 芹香さんも私も、それは承知の上でご主人様のもとに参りました。」

「…………」

「今、ご主人様のお側には、元通りの楓さんがおいでですぅ。
 ですから、私がこの家にいても、あまりお役に立てません。
 きっと芹香さんのお側にいる方が、何倍もお役に立てると思うんですぅ。」

「…………」

 耕一は、言葉を失っていた。



「ふえええん。
 まるちおねーたん、いかないでくださああい。」

「か、香織ちゃん、泣かないでくださああい。
 マルチまで悲しくなりますぅ。…うう、ふえええん。」

 言葉も泣き方も、まるで双子のように似通ったふたり。
 長瀬夫妻とマルチの出発の朝である。

「香織。マルチお姉さんを困らせてはいけませんよ。」

 楓が静かに諭す。

「だってぇ… うう…」

 楓に対しては、不思議に聞き分けのいい香織だった。

「…ご主人様。楓さん。
 長い間お世話になりました。
 私ったら、ご迷惑のかけっぱなしで…
 本当に申し訳ありません。
 何のご恩返しもできないうちに、出て行くことになって…
 いつまでもいつまでも、おふたりのご恩は忘れませんから。」

「おいおいマルチ…
 今生の別れじゃあるまいし。」

「いつでも遠慮なく帰って来ていいんですよ。」

 耕一と楓がそう言うと、

「はい。そうさせていただきますぅ。」

 と答えた。

 だが、耕一も楓も、マルチがもう帰らないつもりだということを、うすうす感づいていた。

「千鶴さん、梓さん、初音さん。
 お世話になりました。どうぞいつまでもお元気で。」

「マルチちゃんも元気でね。」

「たまには電話しろよな。」

「芹香さんによろしくね。」

 マルチは、トラックの荷台に乗り込んだ。
 マルチも荷物はほとんどないが、長瀬夫婦の荷物もそれほど多くない。
 店の移転は先に終えていたので、今日荷台のスペースの大半を占めているのは、メイドロボたちで
ある。
 長瀬の店で働く、マルチタイプとセリオタイプそれぞれ五体ずつだ。

「あ、マルチお姉様。どうぞこちらへ。」

 先に乗り込んでいたメイドロボの一体が、マルチのためにスペースを見つけてくれる。

「ありがとうございますぅ。」

 車のエンジンがかかった。
 運転は長瀬、助手席には綾香が座っている。
 やがて車は動き出した。

「バイバーイ。」

「またねー。」

 別れの言葉が行き交う。

 マルチは手を振りながら、次第に遠離る柏木の屋敷を見つめていた。
 耕一と過ごした日々が、走馬灯のように、マルチの脳裏に蘇っては消えて行く。

(さようなら… ご主人様。)

 マルチの頬を涙が伝った。


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