The Days of Multi第四部第19章 投稿者: DOM
The Days of Multi
第4部 Days with the Kashiwagis
☆第19章 綾香と長瀬 (マルチ12才)



「まうちおねーたん、あえあえ(マルチお姉ちゃん、あれあれ)。」

「はいはい、高い高いですね?
 マルチにお任せくださぁい。
 …そーれ、たかいたかぁい。」

「きゃははははは。」

 2才半になった香織は、マルチに遊んでもらって上機嫌だ。



 マルチはもともと子ども好きだが、子どもたちもまたマルチが好きらしい。
 今は柏木家からほとんど外へ出ないが、以前浩之と暮らしていた頃には、およそ近所中の小さな子
どもという子どもになつかれていたものだ。

 マルチが人間らしい焼きもちを焼くようになったと言っても、人間の女性一般のレベルから見ると、
決して嫉妬深い方ではない。
 もともとの大らかな性格のせいだろう、ある意味で恋敵とも言える芹香が「ご主人様」に産んだ香
織を、自分の子どものようにかわいがっている。

 嫉妬深くないと言えば、芹香も本来の性格からしてそうらしく、滅多に焼きもちを焼いたりしない。
 楓やマルチのことは承知の上で結婚したせいもあろう。
 …もちろん、耕一がそれ以外の女性にまでデレデレしたりすると、無意識に指が呪いの印(いん)
を結んでいたりすることはあるが。

 ところで、芹香は幼少の頃、両親と離れて暮らしていたせいか、小さな子どもをどう扱っていいの
かよくわからないらしく、我が子とはいえ、香織の面倒を見るのに、柏木家のメンバーにお世話にな
りっ放しだった。

 意外だったのは、家事全般駄目なはずの千鶴が、こと育児に関しては、なかなかの熟練ぶりを見せ
たことだった。
 誰があやしても泣きやまない香織の機嫌を上手に直したことなど、一再ならずある。
 長姉として年の離れた妹三人の世話をした経験があるのは、やはり大きな強みのようだ。
 おかげで、日頃千鶴をけなしている梓を始め、家族全員から見直されて、いささか面目を施した千
鶴であった。

 ただし、千鶴は仕事があるので、日中は育児の手伝いをするわけにはいかない。
 梓も同様である。
 勢い、楓とマルチ、そして、このところの就職難で大学卒業後も家事手伝いをしている初音が、芹
香を助ける役に回ることが多かった。

 末っ子の初音は子ども好きで世話好きでもあるが、本格的な育児は未経験のため、初めのうちは
おっかなびっくりで、楓やマルチのアドバイスを仰ぐことが多かった。
 楓もマルチも、メイドロボとして、育児に関する基本的なデータを持っているため、危なげなく香
織に接することができたのだ。

 というわけで、香織には、芹香と楓、初音とマルチという、4人の母親がいるような感じだった。
 しかも、うちふたりは思いっきり無表情、残るふたりは対照的に極めて表情豊かである。
 そのせいか、香織は、実の母である芹香よりも、にこやかなマルチや初音になついているような面
があった。

 香織の言葉は、幼児音が抜けきらず、特にラ行の発音が怪しいのがなかなか直らない。
 耕一始め、柏木家の全員が、芹香の聞き取りにくい言葉に耳を傾けることに慣れてしまった結果、
香織のわかりにくい言葉をもそのまま受け入れるのが当り前になったせいらしい。



「まうちおねーたん、もっかいもっかい。」

「はい。もう一回ですね?」

 香織は、芹香のことは「ママ」、ほかの柏木家の女性のことは、マルチを含めて全員「おねーた
ん」と呼ぶ。
 耕一が最初「おばさん」と呼ばせようとしたところ、全員(特に千鶴)から猛反対があり、やむな
く「お姉ちゃん」にしたのだ。

「…マルチちゃん。」

「あ、楓さん。」

「庭のお掃除、お願いできないかしら?
 香織は、しばらく私が見ているから。」

 掃除にかけてはマルチの右に出る者はいない。
 その点は、柏木家の全員が認めるところだ。

「はい、わかりました。
 それじゃ、香織ちゃん。
 楓お姉ちゃんが遊んでくれますからね。
 マルチはちょっと、お掃除してきますぅ。」

「まうちおねーたん、いっただめ(いっちゃだめ)。
 たかいたかい、すうの(するの)。」

「大丈夫。
 楓お姉ちゃんが、高い高いしてあげるから。」

 ちょっとぐずった香織であったが、何とか楓の腕に抱き取ることができた。
 すかさず、「高い高い」を始めると、きゃっきゃっとはしゃぐ香織。
 その隙に、マルチは掃除をしに行く。

(…かわいい。)

 楓は、香織の笑顔を見ながら、そう思った。

(これが、本当の自分の娘だったら…
 私と、耕一さんの、娘だったら、もっともっとかわいいだろう…)

 楓は、量産型の体のため、性交機能もなく、もちろん子どもも産めない。
 マルチも出産までは無理である。
 耕一の三人の妻のうち、耕一の子どもを産めるのは、芹香だけなのだ。
 そう思うと、楓はつい羨ましさを感じてしまう。

(私も、耕一さんの子どもを産みたい…)

 マルチはそんなことは考えないのだろうか?
 …最初からメイドロボであるマルチには、出産の願望などないのかも知れない。
 香織に対する態度にも、何の屈託も見られない。
 一方、楓は、香織を見るたびにかわいいと思いながらも、心の中に一抹の寂しさと痛みを覚えるの
が常であった。

「きゃはは、たかいたかい、もっともっと。」

 楓の屈託も知らず、無邪気な笑い声で催促する香織であった。



 楓が香織と遊んでいた頃、綾香のもとに、一冊の書物が届いた。
 「メイドロボのいる世界」−−志保が取材・執筆に一年半をかけ、出版したばかりの新刊である。

 彼女はその中で、メイドロボのマスターおよそ30人、および来栖川の開発スタッフに対するイン
タビューを中心に、社会に対するメイドロボの浸透状況、雇用者と被雇用者から見たメイドロボの功
罪、家庭におけるメイドロボの位置づけなどを論じていた。
 志保は単にメイドロボ礼賛をしているのではなく、努めて冷静に、あらゆる角度から、メイドロボ
の存在の意味を分析しようとしていた。

 そして、究極の問題−−メイドロボは人間の道具に過ぎないのか、それとも良きパートナーたり得
るのか…
 志保は、人間とメイドロボの将来については明確な結論を下さず、ただ自分が高校時代に触れる機
会を持った試作型マルチのことを、最後に書き添えていた。
 ただし、マルチが心を持っていたとは明確に記さず、「今の量産型に比べると、ずっと表情豊かで
人間らしかった」と表現するに留まった。
 長瀬たちに対する配慮である。
 志保はまた、自分の友人のひとりがそんなマルチと親しくなり、ついには彼女を助けるために自ら
の命を犠牲にしたことも記し、こう結んだ。

「…彼は幸せだったと思う。
 彼はただのメカフェチなどではなかった。
 彼にとって、マルチは良き伴侶者だったのだ。
 その伴侶者が、たまたま人間ではなくメイドロボだったというだけである。
 彼のことを愚かと笑う人もあるだろう。
 私自身、彼の死の直後にはそういう思いを抱いていた。
 しかし、今は…
 彼は、やはり彼なりに精一杯生き、満足して死んだのだと思っている。 
 なぜなら、彼は、おそらく人生で望み得る、
 最高のパートナーを見つけることができたのだから。」

 …綾香は、一気に読み終えた。
 そして、長い間無言で物思いにふけっていた。



 時を前後して、長瀬ら開発スタッフのもとへも、志保の新刊が届けられた。
 取材に協力してくれたことへの、お礼の手紙と共に。

 長瀬も、一気に読み終えてしまった。
 そして思った。
 志保はメイドロボに対する賛美も批判も踏まえ、公平な目で問題を論じようとしている。
 しかし、少なくとも結びの部分で−−彼女は自分の真意を、注意深い読者にはわかるように示して
いるのだ。
「心を持ったメイドロボなら、人間の良きパートナーとなる可能性がある」と。
 そう考えて、長瀬は、改めて力づけられる思いがするのだった。



 あかりも、同じ頃、志保から送られた本を受け取った。
 しかし、彼女は何日か、その本を開くことをためらっていた。
 浩之とマルチに関係しているはずのその書物に目を通すのが、何となくこわかったのだ。

 とうとう志保から感想を求める電話がかかってきたとき、もうこれ以上逃れることはできないと覚
悟した。
 そのときは、「まだ途中までしか読んでないから。」と嘘をついて、感想を述べることを先送りに
してもらい、観念したように本を手にした。
 そのまま、まだしばらくためらっていたが、意を決してページを開いた。
 …そして、そのまま最後まで読み通した。

(志保って、すごい…)

 途中、何度もそう思った。
 いろいろな角度からの問題分析、あかりが考えてもいなかったような社会的影響や将来への課題の
考察など、目を見張る思いだった。
 そして、最後に−−浩之とマルチのこと…

(浩之ちゃん… マルチちゃんも…
 お互い巡り会えて、幸せだったんだね。)

 泣きはらした目であかりがたどりついた結論は、それだった。



 ある日、隆山の柏木家に、綾香から耕一宛の小包が届いた。
 中身は、志保の本だった。
 仕事から帰って来た耕一は、本の内容をざっと見て、まずマルチに読むようにと手渡した。

 翌朝、朝食の際に皆が見ると、マルチは目を真っ赤にしていた。
 ずっと泣いていたらしい。

 マルチが礼を言って本を差し出すと、耕一はそれを楓と芹香に渡した。
 楓は家事があるので、芹香がまずそれに目を通すことになった。
 …やはり涙で目を赤くした芹香は、やがて手のすいた楓にそれを渡した。
 自室で読み通した楓は、涙こそ流さない(流せない)ものの、沈鬱な面持ちになっていた。
 本は、耕一、千鶴、梓、初音の順に回され、数日のうちに柏木家の全員に大きな感銘を与えたので
ある。

 エルクゥの血−−それは柏木家のメンバーにとって、耐え難いほど重い宿命である。
 だが、「メイドロボであること」も、考えようによっては、それに匹敵するほどの重い宿命なので
はないか−−人間と同じような存在として社会に受け入れられるのか、ただの機械で終わるのか、は
たまた一見合理的な奴隷制度の担い手とされてしまうのか、すべては未知数なのである。
 マルチは、そして、ひかり=楓は、ほかのすべてのメイドロボと共に、そのような重い宿命と戦っ
ていかなければならないのだ…
 柏木家の読者は、そのことに改めて気がついた。

 宿命との戦い。
 必ずしも勝利が待っているとは限らない戦い。
 果たして終わりがあるのかどうかさえ、わからない戦いである。
 …マルチも、他の柏木家のメンバーも、そのような戦いを戦い続けることを強いられている点で、
同志であり戦友なのであった。
 耕一を巡る愛憎よりも、苛酷な宿命と戦う同志としての連帯感をますます強める、柏木家の人々、
そしてメイドロボたちであった。



 志保の著作は、内外に大きな反響を呼んだ。
 反響の内容は様々であったが、メイドロボ問題に関する初めての体系的な考察という評価は、おお
むね一致していた。
 現状におけるメイドロボの功罪についても、比較的公正で総合的な分析が行われていることが、各
方面の権威によって認められていた。

 問題は、志保が結論を保留した点−−メイドロボが人間のパートナーたり得るか、ということであ
る。
 この点については、賛否両論さまざまであった。
 メイドロボの未来は必ずしも明るいとは言い切れない−−志保自身が、自らのもとに寄せられた反
響をまとめた結果は、それであった。



 「メイドロボのいる世界」発刊から、ほぼ一ヶ月後。
 綾香は、高校時代の同窓会に誘われて、セリオ同伴で出席していた。
 ふだんビジネスの世界にどっぷり浸っている綾香にとって、学生時代の友人との語らいは、またと
ない息抜きであった。

 ひさしぶりに顔を合わせた旧友2、3人と談笑していると、そこへ近づいて来たひとりの女性がい
た。

「?」

 何やら妙な雰囲気を感じた綾香たちは、おしゃべりを中断して、その女性に目をやった。

「あら、来栖川綾香さん。
 …ずいぶん楽しそうですこと。」

 綾香たちと同じく、こうした同窓会に相応しい程度に着飾ったその女性は、何となく毒のある口調
でそう言った。

「…ええと?」

 綾香は、その女性が誰か思い出そうとした。
 確かに見覚えはあるのだが、名前がわからない。

「あら、お忘れ?
 …そうでしょうね。
 来栖川のお嬢様ともなれば、
 私のようなその他大勢のことなんか、
 いちいち覚えていられないでしょうからね?」

 そのとき、セリオがそっと綾香に近づくと、耳もとにささやいた。

「−−山科晴美さんです。」

 言われて綾香は思い出した。
 晴美は、同じクラスでありながら、綾香とほとんど接点がなかったので、度忘れしてしまったのだ。

「晴美さん?」

「思い出してくださったの?
 まあ、なんて光栄なんでしょう。
 来栖川グループの次期会長様に、
 名前を覚えていただけるなんて。」

 相変わらず刺のある言い方だ。
 一体どうしたというのだろう?
 晴美とは、格別親しくもなかったが、反感を買うような真似もしたことがないはずなのに…

「どうかなさったの?」

「…別に、どうも致しませんわ。
 ただ、呆れているだけです。
 あんなことがあったばかりなのに、
 よくもそんな涼しい顔で、
 同窓会においでになれたものだわ、と。」

「『あんなこと』?」

 綾香には心当たりがない。

「まあ。
 やっぱり、下々のことには関心がない、というわけね?」

 綾香の怪訝そうな顔に対して、晴美はいよいよ憎々しげな表情を見せる。

「永山工業の一件も、
 とっくの昔にお忘れになったのでしょう?」

 その件なら知っている。
 永山工業は、来栖川系列のある会社とかなり以前から激しい競合を繰り返していたが、ワンマン社
長の病死をきっかけに一挙に劣勢に転じ、つい先だって来栖川に吸収合併されてしまったのだ。
 綾香はその件に直接タッチしていなかったものの、その合併の直前、永山工業の後を継いだばかり
の若社長が交通事故で死んだと聞いて、いささか寝覚めの悪い思いをしていたのである。

 でも、なぜ晴美が…?

 そのとき、綾香の隣にいた旧友が慌てて耳打ちした。

(晴美さん、永山工業の社長さんと、結婚の約束を交わしていたんですって。)

「!?」

 事故死した若社長のフィアンセだったのか…

「あなたがた、来栖川にとっては、
 そこらの企業の一つや二つつぶすぐらい…
 いえ、人の命の一つや二つ失うぐらい、何でもないのでしょう?
 永山さんを殺したあなたが、
 そんな平気な顔で、同窓会に出席しているのですものね?」

「私が…殺した?
 …何を言っているの?
 大体、永山さんが亡くなったのは事故で…」

「違う! あれは事故なんかじゃない!」

 晴美は言い切った。

「あの『事故』の直前、
 あの人は、私に電話をかけて来たの。
 『もう疲れてしまった。これ以上生きていく気力がない。』って…
 あれは自殺よ。
 …いえ、あなたが殺したのよ!」

「ど、どうして、私が…?」

「永山さん、電話で話してくれたわ。
 あなたたち、来栖川グループが、
 永山さんの会社を吸収するために、どんな卑劣な手段を使ったか…
 その陣頭指揮をとっていたのが、
 綾香さん、あなただということもね!」

「ち、違う…」

 それは誤解だ。
 綾香は、今度の吸収合併の件は、何もかも終わった後で報告を受けただけなのだから。

「永山さん、来栖川を…
 そして、特に綾香さん、あなたを恨んで死んでいったのよ!
 なのに、あなたは、こんな所でのうのうと…
 よくもそんな、虫も殺さぬような顔をして!」

 晴美はいきなり綾香につかみかかった。
 綾香は反射的に身を避ける。
 バランスを失った晴美は、派手に転んだ。
 床に倒れた晴美を呆然と見下ろす綾香。

 晴美は顔をあげると、きっと綾香を睨みつけ、なおも叫んだ。

「人殺し! 人殺し!…」



 綾香はふらふらと歩いていた。

(人殺し! 人殺し!)

 晴美の叫びが、怒りと憎しみと悲しみに満ちたまなざしが、綾香の脳裏によみがえる。

(違う。…私じゃない。私のせいじゃ…)

 幾度も否定する。
 しかし、彼女の心の奥底で、

(本当にあなたには責任がないの?
 若い男が死を選び、その婚約者が悲嘆に暮れているというのに、
 あなたは知らん顔をするつもりなの?)

 そういう声がする。

 自分も…来栖川の一員。
 しかも、グループの中核をなす、来栖川エレクトロニクスの社長。
 全くの無関係ですますことは、できないだろう。

(でも、私じゃない。私じゃないの…)



 …どこをどう歩いたのか、ふと気がつくと、見覚えのある場所に来ていた。

(ここは…?)

 そうだ。大学時代、姉と共に足繁くおとなった場所。
 来栖川の研究所だ。
 綾香の胸に、長瀬ののほほんとした顔が浮かんだ。
 急に、その顔が見たくなった。しかし…

(こんな時間にいるはずがないか…)

 もう夜だ。
 同窓会の会場で晴美になじられて、そのまま夢中で飛び出して来た。
 後を追って来たはずのセリオもどこかで振り切ってしまったらしく、綾香は暗い路上にひとり佇ん
でいる。

(ひとり…か…)

 自分はたったひとりでもやっていける、と思っていた。
 しかし、今夜はやけに人恋しい。
 ひとりでいることが、無性に辛く感じられる。

(長…瀬…さん…)

 そして、長瀬のことがひどく懐かしく思われる。
 どうしたというのだろう。
 綾香は、そのまま、ひとりぼっちで立ち尽くしていた。



 …どれくらいの時間が過ぎただろう。

「…綾香お嬢様?」

 怪訝そうな声が聞こえた。

 綾香がはっとして目をあげると、そこには…
 残業を終えて帰途につこうとした長瀬主任が立っていた。

「長瀬…さん…?」

 綾香は、思わずその影に向かって歩き出した。
 どことなく足もとがふらついている。

「ど、どうなさったんですか?」

 綾香の覚束ない足取りを危ぶんだ長瀬が駆け寄る。
 綾香はその胸の中に倒れこんだ。

「な、長瀬…さん… 長瀬さん…
 うっ、ううっ…」

 綾香はそのまましゃくり上げ始めた。
 長瀬は彼女に抱きつかれて、ただうろたえるばかりだ。

 …と、そのとき。

「−−綾香さん。こちらでしたか。」

 という静かな声が聞こえた。
 セリオだ。

「−−ずいぶん探しました。
 遅くなりましたので、そろそろ帰りましょう。
 ただ今、車の手配を致しますので…」

「…いや。今夜は帰らない。」

 綾香は、長瀬の胸に顔を埋めたまま、そう言った。

「お、お嬢様…?」

「−−旦那様や奥様が心配なさいますよ?」

「いいの!
 今夜は、この人と一緒にいるの!」

 駄々っ子のように言い張る綾香の様子をしばらく見ていたセリオは、

「−−そうですか。
 まあ、主任がご一緒でしたら、間違いはないと思います。
 …では、お家の方には適当に言い繕っておきますので。
 主任。綾香さんをお願い致します。」

「お、おい。セリオ?…」

 戸惑う長瀬を残し、セリオはさっさと姿を消してしまった。



 綾香は、ホテルの一室で、長瀬に抱かれていた。
 …と言っても、この場合は、文字どおりだっこされていたのであるが。

 長瀬は、綾香を連れて社宅に帰ったりしたら誰に見られるかわかったものではないと思い、綾香の
提案に従って、ちゃんとしたホテルにチェックインした。
 酔っぱらった綾香の介抱、という名目である。
 なぜか、いざチェックインという段階になって、姿を消したはずのセリオが現れて同行したので、
長瀬が妙な目で見られることもなく、スムースに部屋に案内してもらうことができた。
 ホテルの案内人がいなくなると、セリオは再び姿を消してしまった。

 密室に若い女性とふたりきりになった長瀬は、自分の置かれた状況に、改めてうろたえていた。
 その他の面ではなかなか老獪なところもある長瀬だが、男女の仲となるとさっぱりなのだ。
 綾香は、さっきから長瀬にしがみついたままである。
 長瀬は、とりあえず、相手を一人前の女性としてではなく、子供と見なすことにした。
 綾香を馬鹿にしているわけではなく、そうしないと精神の平静を保ちづらいからである。
 幼子をあやすようなつもりで、おっかなびっくり綾香をだっこしているうちに、少し落ち着いたの
か、綾香が口を開いた。

「…長瀬さん。
 ごめんなさい。ご迷惑をかけて…」

「いえ。迷惑だなんて。
 …ただ、少し驚いただけです。
 …何があったのか、よろしければ話していただけますか?」

 綾香は、ぽつぽつと今夜の出来事を語った。そして…

「今夜は帰りたくないの…」

 そう言って、長瀬の顔を見上げる。
 その顔は、はっとするほどなまめかしかった。

「そ、そうですか…」

 長瀬は、間の抜けた返事しかできない。

「…長瀬さん、私みたいな『子供』は嫌い?」

 綾香は、自分が長瀬よりもずっと年下であることを今さらながら意識したように、そう尋ねた。

「え? いえ、そんな…
 お嬢様は、とても、魅力的な方だと思いますよ。」

 長瀬は、綾香を子供だと思い込もうとしているのを見すかされたような気がして、慌ててそう言っ
た。

「ほんとう?」

 綾香の目は潤んでいる。
 いつもの、勝ち気で人を小馬鹿にしたような綾香は、どこへ行ったのだろう?

「私… 私ね…」

 それほどアルコールが入ったわけでもないのに、綾香は自分がひどく酔っぱらっているような気分
だった。
 今夜ばかりは、心の奥に秘めていることをことごとくさらけ出しても構わない、そんな思いに駆ら
れていた。

「私… 長瀬さんのことが…」



「お早うございます、社長。」

「お早う! 今日もいい天気ね!
 さあ、張り切って、ばりばり仕事といくわよ!」

「はあ…」

 社長がいつになく上機嫌な様子で立ち去るのを、怪訝そうに見送る部長。
 一夜明けた朝、来栖川エレクトロニクスの社内での情景である。



 …昨夜、綾香の思い切った愛の告白に、大いにうろたえた長瀬であるが、言われてみると、自分も
かなり以前から綾香に引かれていたことに気がついて、さらに戸惑った。
 しかし、ありのままの自分をぶつけてきた綾香の真情にほだされて、こちらも正直な気持ちを伝え
たのである。
 因みに、長瀬の名誉のために付け加えておくと、同じベッドで一夜を過ごしながら、綾香に妙な手
出しは一切しなかった。
 安心して寝息を立てる綾香をそっと抱き締めながら、そのままの格好で朝を迎えたのである。
 長瀬は、多分父親譲りであろう、こういうことには妙に潔癖な面があるのだ。



「ふわぁ…」

「主任、大丈夫ですか?
 夕べの残業、よっぽどこたえたみたいですね?」

「ん? …いや、それほどでも…」

 ああいう状況だったので、長瀬はいささか寝不足気味だったのだ…


−−−−−−−−−−−−

綾香ファンの皆さん、「何でよりによって長瀬主任なんだ!?」というお怒りはごもっともです。
私だって同じ思いです(おい)。

が、ほかにボーイフレンドをつくる暇もなかった綾香さんにしてみれば、
10年前マルチを助けるために協力して以来の同志です。
そういう意味で気心も知れているし、信頼もできるし、綾香さんが舌を巻くような知恵もあるし、
それでいて自分の恋愛沙汰になるととことん無器用な長瀬主任は、好ましい存在だと思うのですが?


余談ですが、綾香さんって、実は強さの中にもろさを持っているようなところがあるのでは、
と勝手に想像しています。
逆に芹香さんは、弱さの中に芯の強さがあるような気がしますが… いや、やっぱり「謎」ですね。


分岐<千鶴編>にもあるように、千鶴さんは育児上手という設定です。
一方、芹香さんは…


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