The Days of Multi第二部第1章 投稿者:DOM
The Days of Multi
第2部 Days at Laboratory
☆第1章 マルチのリハビリ (マルチ2才)



 本編第一部第7章からの続きです。

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 やがて、マルチは来栖川研究所へ引き取られた。

 長瀬を始め、マルチを娘同様に思っているスタッフたちは、せっかく結ばれた恋人を失って壊れて
しまった「娘」が不憫でならず、それぞれが忙しい時間をさいてはマルチのリハビリに協力していた。

 芹香も、マルチのためにできるだけのことをしようと、長瀬に頼んでマルチの意識との接触を試み
たが、失敗に終わった。
 そもそも自分のアイデンティティーを失っているマルチの心には、満足に接触することすらできな
かったのである。

 スタッフの間では、マルチのデータを白紙に戻して、最初の運用試験の際にとったバックアップを
マルチの中にコピーしたらという案も出たが、結局見送られた。
 浩之と過ごした2年間をマルチに忘れさせるということは、「娘」の心を尊重する長瀬たちには忍
びないことだったからだ。
 そこでスタッフたちは、開発部の一室にマルチを座らせて、絶えず声をかけたり、あいた時間をみ
て散歩に連れて行ったりするようにした。
 あかりが壊れたマルチと話をした時の状況や、来栖川姉妹から聞いたかつての浩之によるリハビリ
法も参考にしてのことである。



「マルチ、おはよう。
 気分はどうだい?」

「マルチちゃん、今日はいい天気よ。
 後で散歩に行かない?」

「ようマルチ、
 おまえの『妹』のひとりが里帰りして来たんだけど、
 お姉さんに挨拶したいって言ってるそうだよ。
 後で連れて来てもいいかい?」

「へっへっへ、マルチ、これ見てごらん。
 お兄さんがおまえのために、とってもセクシーな下着を用意してあげたんだよう。
 ちょっと着てみるかい?
 よしよし、じゃ、まず服を脱いで…」

「こら、この変態野郎!
 『娘』に手を出すとは言語道断!」

「いてて、本気にするなよ…
 メイドロボ用のボディスーツを取り替えようとしただけじゃないか…」



 そんな調子で、結構賑やかしくリハビリを行いながら日を送るうちに、少しずつマルチの様子に変
化が見られるようになった。
 それまで、ただぼんやりとして、ほとんど人の顔を見なかったマルチが、自分に話しかける相手の
顔に目を向けることが多くなってきたのだ。

 回復の兆しと見たスタッフは、喜び勇んで、いよいよリハビリに力を注いだ。
 口さがない所員たちが、「開発部の連中は、本業をほったらかしてメイドロボのリハビリばかり
やっている。」と皮肉るほどの熱中ぶりだった。

 次の変化は、「散歩に行こう。」などと誘った時に自分で立ち上がるようになったことだ。
 それまでは、誰かが手を引いて立たせてやらなければならなかったのである。



 芹香と綾香もリハビリに協力した。
 大学の講議の合間を見ては、研究所を訪れて、マルチと三人でおしゃべりをするのだ。
 もっとも、マルチはしゃべらないし、芹香は例の小声なので、端から見ると、綾香ひとりがしゃ
べっているようなのだが。
 会話の中で浩之の名前が出る度に、マルチはわずかな反応を示した。
 相変わらず、自分自身の名前には全く反応しないというのに。

 ある日、例によって三人がおしゃべりしていると、不意にマルチがこくりと頷いた。
 あかりには聞いていたが、自分たちは初めて見る反応に、芹香も綾香も喜び、なおいっそういろい
ろと話しかけた。
 マルチの反応がよほど嬉しかったのだろう、何とあの芹香がその後20分ばかり(小声ながら)
延々と話し続け、綾香を呆れさせていたほどだ。
 因みに、話題は浩之と共に行なった魔法の実験のことだった。
 マルチはその後も一度だけ頷き、姉妹を感激させた。



 こうしてリハビリは少しずつ進んで行った。
 7月に入ると、マルチは、自分に話しかける人に向かって、頷いたり首を振ったりすることが普通
になった。
 その月の終わりには、頼まれると別室に置いてあるものを取って来たり、お茶を入れて持って来た
りすることができるようになった。

 ただ、どういうわけか、自分の名前が「マルチ」であることがどうしても認識できないらしく、マ
ルチの目が届かない所から呼び掛けても反応しない。
 マルチの視野に入る所で声をかけると反応する。
 要するに「マルチと呼ばれるから反応する」のではない、「自分に対して声をかけられているとわ
かれば反応する」ということらしい。



 同じ7月の終わり頃、来栖川姉妹はまた嬉しい進歩を見い出した。
 おしゃべりをしているうちに、マルチが突然「はい。」と返事をしたのだ。
 リハビリが始まって以来、初めてマルチが言葉を発したのである。
 興奮した綾香は(綾香によれば、芹香も興奮していたそうなのだが、スタッフにはそう見えなかっ
たらしい)、近くにいたスタッフに片っ端から触れ回り、開発部に熱狂的な喜びをもたらした。
 どこまで本当かわからないが、あの長瀬ですら、業務を1時間早く切り上げて臨時の祝賀会を開こ
うと提案したという噂がある。
 さらに言うと、長瀬の提案がどうであれ、結局は開発部の総意で本当に祝賀会を行なったらしい。



 ところが。
 8月初め、マルチのリハビリに燃える開発部の全員に冷水を浴びせかけるようなことが起こった。
 それは来栖川会長から来た一つの命令だった。
 −−マルチの廃棄を命ずるという。



 浩之がメイドロボのマルチをかばって死んだことは、当時結構話題となり、メイドロボの普及に伴
う一つの問題として騒がれかけたことがあったが、結局は世の中のメイドロボ肯定の雰囲気に押され
て、大した盛り上がりを見せないまま、忘れられようとしていた。
 ところが、マルチがどうやら特別仕様のメイドロボらしいということを、あるゴシップ記事専門の
雑誌社がどこからか聞きつけたらしく、盛んに嗅ぎ回り始めた。
 もちろん、相手が来栖川グループでは、証拠もなしにスキャンダラスな記事を書くことはできない。
 下手をすれば、会社ごと潰されてしまうのが落ちだからだ。
 そこで件の雑誌社は、メイドロボ発売によって来栖川に大きく水をあけられてしまったライバル会
社に話を持ちかけ、協力を頼んだ。
 ライバル会社はその話に乗って、雑誌社の取材活動をひそかに支援するようになったのである。
 雑誌社は、強力なバックアップを得て、具体的な証拠ないし証言を得ることに集中し始めた。

 この動きは、やがて来栖川の情報網にキャッチされ、会長に報告された。
 会長は、マルチが心を持っていたこと、その心をいじって特定の人物を好きにならせたこと(会長
はいまだにそう信じていた)、そして特に例の機能を持っていたことが世間に知られれば、自分の進
退はもとより、メイドロボ販売により未曾有の売り上げを経験しつつある来栖川エレクトロニクスに
も大打撃を与えることになると判断、研究所に回収されたと聞くマルチの処分を命じたのである。
 一番の直接証拠であるマルチさえ処分すれば、後はいくらでも対処できると考えたのだ。



 開発部に届いた命令は徹底したものだった。
 第一、試作型マルチの本体は、会長の派遣する調査員の立ち会いの元に破壊、廃棄すること。
 第二、試作型マルチに関するデータ、プログラムの類いは、初期運用試験のバックアップも含め、
すべて抹消すること。
 要するに、マルチの存在はなかったものとされ、また、二度とマルチと同じメイドロボを作ること
ができないようにする、という内容だったのだ。

 命令は午前中に届き、その30分後にはもう、会長の派遣した数名の男たちが確認にやって来た。
 「調査員」と呼ばれるこの連中は、会長に直属し、来栖川グループ内での微妙な問題を、たいてい
は極秘裡に処理することを仕事としている。
 彼らはメインコンピュータを確認して、マルチ関係のデータがすべて抹消されていることを確認す
ると、開発部内の全コンピュータを調べ、さらにスタッフの私物に至るまで丹念に調べ挙げた。
 バックアップコピーを取った可能性もあるからである。
 なお、命令書が届いた時点で、開発部の出入りを禁じたので、バックアップを外に持ち出すことは
できなかったはずだ。
 また、外部との回線を一時遮断したので、通信ソフトを使って外に流すことも不可能だった。



 スタッフのボディチェックを含む念入りな調査が終わったあと、バックアップを取った可能性がす
べて否定されたので、彼らは、長瀬たちが会長命令に従順であったことをほめた。
 ほめられて嬉しくなるような心のこもった賞賛とは程遠かったが。

 …実の所、調査員たちは直接会長命令をたずさえてやって来てもよかったのであるが、わざと先に
命令のみ届け、自分たちは遅れてやって来た。
 長瀬たちに悪あがきの時間を与えたのである。
 彼らが何の小細工も弄することなく命令に従えばそれでよし、悪あがきをしたならば、それを摘発
して責任を追及する。
 会長に忠実な人間を選別するために、調査員たちがしばしば使う「手」であった…



 最後に、いよいよマルチ本体の破壊が行われることになった。
 調査員たちは、マルチを連れて来るように促した。
 長瀬は、別室に控えさせてあったマルチを連れて来た。

「君の名前は?」

 調査員のリーダーと思われる男が、感情のこもらない声で質問すると、

「はい、えーと、
 私は、来栖川のメイドロボで、HMX−12といいますぅ。
 でも、スタッフの皆さんは、マルチという名前をつけてくださいましたので、
 よろしければマルチとお呼びくださぁい。」

 質問者よりもよっぽど人間らしい、可愛い声で答えた。

 量産型マルチと違う、そのあまりに人間くさい様子に、調査員たちも不審に思ったらしく、

「これは本当にメイドロボなのか?」

 と別のひとりが聞いた。

 人間を身代わりに立てても、破壊しようとする際にばれることなので無意味なのだが、思わずそう
聞きたくなるほど人間らしかったのだ。

「マルチ、左手をはずして見せてあげなさい。」

 長瀬はもっとも手っとり早い方法をとることにした。
 マルチは、はい、と言って左手首をはずすと、中が見えるように相手に示した。

「なるほど…
 特別仕様とは聞いていたが、これほどのものとはね。」

 ずっと感情らしいものを示さなかった男たちの声に、初めていくらか感心するような調子がこもっ
た。
 しかし、すぐにそれも消えると、リーダーが、

「それでは、裸になってくれ。」

 とマルチに命令した。
 量産型になくてマルチのみにある、特殊な機能について調べるためだった。

「え? ええーっ!?
 そ、そんな、恥ずかしいですーっ!!」

 マルチは顔を真っ赤にして恥ずかしがった。

「つべこべ言わずに脱ぎなさい。」

「で、でも、でもーっ!」

 マルチは泣きそうになって嫌がる。

「…おい、君から、裸になるように命令してくれ。」

 業を煮やしたリーダーが言うと、長瀬は無言でマルチに近づき、その背後に手を回した。
 小さな音がして、マルチががっくりとくずれる。

「何だ? どうしたんだ?」

「メインスイッチを切ったのです。
 娘には、人間の女の子同様の恥じらいがあります。
 意識のある状態で裸になれと命令しても、
 見知らぬ男性の前で服を脱ぐことなど、到底できません。
 ですから、娘を意識のない状態にして、
 私が服を脱がせてやろうと思ったのです。」

「『娘』ね。
 …なるほど、娘が恥じらう姿は可哀相で見ていられないので、
 気を失わせたというわけか。
 それが『親心』ってもんかね?」

 長瀬は黙っていたが、明らかに不愉快そうだった。

「まあいい。
 それじゃ、さっさと服を脱がせてくれたまえ。
 あまり時間がないものでね。
 …何なら、手伝おうか?」

「結構です。」

 不愛想に言うと、長瀬は娘を手近にあったデスクの上に横たえ、その服に手をかけた。
 すまなそうな顔で脱がせていく。
 …やがて、娘の裸身が男たちの視線にさらされることになった。

 長瀬は苦渋に満ちた顔をしていた。
 「父親」としては当然であろう。

 男たちは無遠慮にマルチの体を眺め続けた。
 やがてリーダーが、

「なるほど…
 まさに人間そっくりだな。」

 と言いながらマルチに近づき、ぴったり閉じ合わされていた両足を大きく開かせた。

「何をするんだ!?」

 長瀬はたまりかねて、男の腕を掴んだ。
 男は平然と、

「ちゃんとした構造になっているかどうか、確かめなければならないのだよ。
 見せかけだけなら、にせものということになるからな。」

 と答えた。
 量産型マルチに見せかけだけのものをつけている可能性がある、というのだ。

 長瀬は唇を噛み締めながら、脇に下がった。
 男たちがマルチを調べ始める。
 長瀬は、娘が汚されていくのを指をくわえて見ている父親のような無念の思いで、両の拳を握り締
めていた。



 やっと「確認」を終えた男たちは、長瀬の無念にもそ知らぬ顔で、

「よし。このメイドロボは、問題の機能を持っていることが確認された。
 現在のところ、このような構造を持ったメイドロボは、HMX−12のみである。
 よって、今我々の前にあるこのメイドロボは、HMX−12にほかならないと結論される。
 異議はあるかね?」

 他の男たちは一斉に首を振る。
 全員一致でこのメイドロボをマルチと断定したことを、確認しておいたのだろう。

「よろしい。
 それでは会長命令に従って、HMX−12の破壊、廃棄を実行するものとする。
 …早速やってくれたまえ。」

 男は長瀬を促す。

「木原君。内田君。
 …すまんが、手伝ってくれ。」

 長瀬は、少し離れたところで、やはり男たちの仕打ちに怒りを燃やしていたスタッフのうち、ふた
りを呼んだ。
 かつて、浩之が心の病にかかったマルチを連れて来た時、マルチのチェックを担当したふたりであ
る。
 長瀬が最も信頼する部下に、マルチを破壊する任を与えたのだ。
 もちろん、長瀬も加わってリードする。
 上司として、マルチの破壊という辛い作業を、部下にのみ押しつけることなどできはしない。



 長瀬ら三人は、マルチを専用のテーブルの上に乗せると、それぞれがツールを手にした。
 ツールの電源を入れる。

 ウィィィィィィィィン

 三人は無言で、マルチの体の各部にそれぞれのツールを当てた。

 ガガガガガガ 

 キキキキキキ

 マルチの頭が胴からはずれる。
 マルチの脚がはずれる。
 マルチの腕がはずれる。

 ウィィィィィィィィン

 作業はさらに進み、マルチの体は次第に細かく切り刻まれていった。

 長瀬たちの顔は脂汗でいっぱいだった。
 皆涙を流していた。
 思わず知らず「マルチ… 赦してくれ…」と呟いていた。

 ウィィィィィィィィン

 …やがて、マルチの体は、もはやもとがメイドロボであったことすらわからないほど、滅茶滅茶に
なっていた。



「…ふむ。それくらいでよかろう。」

 リーダーが声をかける。
 手を止めた長瀬たち三人の顔は、土気色に変わっていた。

 男たちは用意してきた大きくて丈夫そうな袋を取り出すと、その中に滅茶滅茶にされたマルチの体
を慎重に入れ始めた。
 どんな細かい部品も後に残さないように。

 見ていたスタッフのひとりが口を開く。

「あの…
 せめて記念に、マルチの体の一部でも、もらいたいんですけど…」

「駄目だ。
 会長命令により、このメイドロボの体は完全廃棄処分にする。
 いかに小さな部品と言えど、ここに残すわけにはいかない。」

「センサーの一つぐらい、いいでしょう?」

 別のスタッフが怒ったように言う。

「駄目だ。」

 男は素っ気ない。

「それじゃ髪の毛一本だけ。
 それなら問題ないでしょう?」

 さらに別のスタッフの言葉。

「駄目だ。」

 男は譲歩する気はないらしい。
 それこそ髪の毛一本も残さないようすべてを袋に収納すると、男は長瀬に向かって言った。

「君たちの協力により、会長命令を滞りなく果たすことができた。
 感謝する。
 下手な小細工をいっさい労することなく、
 従順に会長命令に従った君たちの忠誠心は、賞賛に値する。
 このことをお耳に入れれば、会長もきっと感じ入られるに違いない。
 今後とも来栖川グループのために、いっそうの努力を願う。
 …それでは失礼。」

 男たちは、袋を持って開発部から出て行こうとした。

 出口の近くに、モップを持ったメイドロボが控えている。
 この研究所の至る所で見かける量産型マルチの一体だ。
 男たちが出て行ったら、部屋の掃除を始める気なのだろう。

 彼らは出がけに、そのメイドロボを見るとはなしに見た。
 無表情な顔立。見るからに機械然とした様子。
 先ほどの「マルチ」とは全く雰囲気が違う。

 「…量産型か。」

 誰かが呟いた。
 男たちは去って行った…

 しばらくの間、沈黙が部屋を支配する。

「ちっきっしょーーーーーーっ!!」

 突然スタッフのひとりが、机の上にあったバインダーを手にすると、思いきり壁に叩きつけた。
 そして、再び重苦しい沈黙…



「くそじじい!!
 今度という今度は容赦しないわよ!!」

 綾香の体が宙を飛ぶ。
 会長をかばおうとした警備員のひとりが、大きく吹き飛ばされた。

「さんざんマルチを利用しておいて、
 都合が悪くなったら廃棄処分!?
 そんな勝手なことが赦されると思うの!?
 あんた、いっぺん死になさい!!」

 さらに綾香の背後から取り押さえようとした別の警備員も、鮮やかな後ろ回し蹴りを食らって轟沈
する。

「待て。綾香。これにはわけが…」

「問答無用!!」

 以前同じような状況で来栖川翁に丸め込まれたことのある綾香は、金輪際聞く耳持たぬという様子
で怒鳴る。
 来栖川会長一世一代の危機であった。



 今日、いつものようにマルチとおしゃべりしようと、姉と共に研究所を訪れた綾香は、マルチが会
長命令で廃棄処分にされたと知った。
 姉の芹香はいとも悲し気な顔で、

(浩之さんのお墓にお詫びに行って来ます。)

 とセバスチャンを伴って墓参りに行った。
 一方の綾香は、とあるひとりの老人を墓送りにするために、こうして戦っているのだった。



 頼みの綱のセバスチャンがいない状態で孫娘の殴り込みを受けた翁は、やむなく非常ベルを鳴らし
た。
 これは警察等に自動的に連絡が行くタイプではなく、屋敷中の警備員を集めるためのものである。
 以前セバスチャンが言った「もしかしたら綾香を取り押さえることができるかも知れない方法」を
試みたのだが…
 綾香の回りには、すでに十指にあまるほどの警備員が目を回して倒れている。
 この分だと、すべての警備員が倒されるのも時間の問題であろう。
 翁の命は風前の灯であった。


 綾香は翁をさんざん罵りながら、行く手を阻む連中をひとりまたひとりと血の海に沈めていく。
 翁が本気で警察を呼ぶことを考慮しなければならなくなった頃、突然大勢の足音がしたかと思うと、
何十人という警備員が現れて、半分は翁の前に厚い壁を作り、もう半分は綾香を遠巻きにした。
 警備員のひとりが、自分の属する警備会社に連絡を入れ、大至急の増援を要請していたのである。
 この男は綾香の実力を熟知していた−−以前組み手の相手をさせられたことがあるので。
 そういうわけで、彼は「綾香が暴れ出した」と聞いた途端、すばやくその後の展開を見越して行動
したのである。

 さすがの綾香も、屋敷にいた警備員のほとんどすべてを自分ひとりで轟沈させたため、かなり息が
上がっていた。
 その上にこの人数の応援では、会長に手を触れる前に取り押さえられてしまうであろう。
 綾香は勝敗の行く末を見極めると、潔く諦めることにした。
 彼女は決して馬鹿ではないのだ。



「ふん… 運がよかったわね。」

 綾香は構えを崩すと、腕を組んで会長を睨みつけた。

「今日のところはこれで堪忍してあげるわ。
 …でも、覚えておいて。」

 綾香は、ぴしっと翁を指さすと、

「もうあたしは、あんたの孫なんかじゃない!
 今日限り縁を切るわ!
 もうあんたとは、口も聞かないからね!」

 そう言うと、ぱっと背を向けて歩き出した。
 並みいる警備員たちを睨みつけて、道を開かせる。
 その間を通って綾香が立ち去って行くのを見ながら、生涯最大の危機を何とか乗り越えることがで
きた翁は、そっと額の汗を拭うのであった。



 因みにその後、綾香は自分がした約束を忠実に実行した。
 翁とは絶対に口を聞かない。
 家族で寛いでいるところへ翁が顔を出すと、綾香は無言で立ち上がり、自室に入ってしまう。
 芹香の方はさすがにそこまで露骨ではないが、翁がいくら話しかけても返事をしない。
 業を煮やした翁が小言を言うと、今度はいとも悲しそうな目をして翁をじっと見つめる。
 これには翁の方が、精神的に参ってしまうのだった。
 姉妹がなぜ怒っているのか知らない両親は、何度もふたりをたしなめたが、一向に改まらない。

 こういう状態が、かなり長く続いたのだそうだ。


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