The Days of Multi<芹香編>第一部第4章 投稿者:DOM
The Days of Multi <芹香編>
第1部 Days with Hiroyuki
☆第4章 マルチと浩之 (マルチ生後5ヶ月〜10才)



 ぶうううううん…

(…?)

 私の頭にもやがかかっている。
 それがだんだん晴れていく。
 だれかが目の前に立っている。
 だれだろう?

 …あっ、お父さん!?

「おはよう、マルチ。
 目が覚めたかい?」

 お父さん−−長瀬主任が微笑んでいる。

「マルチ、よかったな!
 また、一緒だ!」

 スタッフの木原さんだ。

「マルチィ、会いたかったぜぇ!」

 それに内田さん。

「マルチちゃん、気分はどう?」

「どうしたマルチ?
 何とか言えよ。」

 口々に声をかけるスタッフの皆さん。

「み、皆さん… 私は、一体?」

 確か、データを取られた後は、いつまでも眠り続けるはずだったんじゃ…?

「会長の特別なおはからいでね、
 マルチには、この研究所で働いてもらうことになったんだよ。」

 お父さんが言った。

「ほ…本当ですか!?
 それじゃ、私…
 皆さんとずっと一緒にいられるんですか!?」

 まるで夢のようだ。

「そうともマルチ!
 これからおまえは、俺たちとずっと一緒だ!」

 木原さんが嬉しそうに言う。

「よ…よかった。
 う、嬉しい、ですぅ…」

「あらあら、マルチちゃんは相変わらず泣き虫ねぇ…」

 皆さんの笑顔に囲まれて、私は嬉し泣きに泣き続けた…



 瞬く間に数日が過ぎた。
 明日は土曜日で、研究所も休日だ。

「あのぉ… お父さん?」

 その日の仕事が一段落ついたとき、マルチはおずおずと切り出した。

「ん? 何だい?」

「ええと…
 今日のお仕事は終わったんですけどぉ…」

「おお、そうか。ご苦労さん。
 もう休んでもいいよ。」

「それが… あのぉ…」

 マルチはもじもじしている。

「どうしたんだい?
 …外出許可でもほしいのかい?」

「え? …は、はい!
 そうなんですぅ!」

「彼のところか?
 ほら、例の…藤田君だっけ?」

「え!? あ、あの、いえ、それは、その…」

 うろたえるマルチ。

「ははは。無理しなさんな。
 …そうだね、夜9時までには帰っておいで。」

「は、はい!
 ありがとうございます!」

 マルチの目が輝く。

「…ただし、今日は外泊は駄目だよ?」

 念を押されて真っ赤になるマルチであった…



 とてててててて…

 マルチは懸命に走る。
 何度も転びそうになりながら走る。
 道を間違えそうになりながら走る、走る、走る…
 懐かしい「ご主人様」の家を目指して…

「はぁ、はぁ、はぁ…
 え、えーと… 確かこのあたりに…
 あ、ここ、ここですぅ!」

 息を切らせながら、とある家の前で立ち止まる。
 長瀬によると、マルチが眠っていたのは2ヶ月ほどだという。
 今は6月下旬だった。

 ご主人様… ご主人様に、また会える…
 震える指で玄関のブザーを押す。

 ピンポーン

 マルチの緊張も知らぬ気に、やや間伸びした音がする。

「はーい。」

 ガチャッ…

 玄関があいて、顔を出したのは、「?」という顔をした女の子だった。

「あ… 確か、あかりさん、でしたよね?」

「え? あ、あれ?
 …あなたは確か… メイドロボの…」

「はい! マルチですぅ!」

「そう、マルチちゃん、だったよね。
 …でも、どうして今ごろ、ここに?」

 運用試験は終わったはずなのに、とあかりが首をかしげる。

「私、お許しをいただいて、
 ご主人様にお会いしに来たんですぅ!」

「『ご主人様』???」

 あかりは、ますますわけがわからない、といった顔になる。

「あかり、だれだ?」

 家の中から声がして、浩之が玄関に現われる。

「あ… マル…チ…?」

「あっ!」

 マルチの両目から、見る見る涙があふれてくる。

「…ご、ご主人様ぁ!」

 マルチは夢中で浩之に抱きついた。

「あ…会えた、また、会えましたぁ!」

 あかりが呆気に取られている。

「わ…私… もう会えないものだと思ってましたぁ!
 …うう… ご、ご主人様ぁ!
 うわああああああああああああああん!!」

 感極まったマルチは大声で泣き出した。
 あかりは呆然自失の状態だ。
 そして、浩之は…
 しがみついたマルチの肩に手をやると、ぐっと押した。
 マルチの体が浩之から離れる。

「うう、ぐすっ…?
 …ご、ご主人様?」

「マルチ。何しに来たんだ?」

 浩之の声は、別人かと思われるほど、低く冷たい。

「え? …は、はい、ご主人様に会いに来たんですぅ!」

「研究所で、ずっと眠っているはずじゃなかったのか?」

「はい、あの後二ヶ月ほど眠っていたんですけどぉ、
 来栖川の会長さんの特別なおはからいとかで、
 また目を覚ますことができたんですぅ。」

「会長の…特別なはからい…」

 浩之の顔に歪んだ笑みが浮かぶ。

「そうか…
 なるほど、俺たちが親しくなったので、
 もう一度引き裂こうというわけだな?」

「はい?」

 マルチはきょとんとした顔をする。

「二度も同じ手を使うなんて、芸がないな。」

「? ? ?」

「もうその手は食わないぞ。
 俺と先輩の仲は、誰にも邪魔させないからな。」

「な、何のことですかぁ?」

 マルチにはわけがわからない。

「浩之ちゃん…
 先輩って… 来栖川先輩のこと?
 ふたりは、どういう仲なの?」

 「先輩」という言葉を聞いた途端、フリーズ状態から回復したあかりが聞いてくる。

「あかりは黙っててくれ。
 …マルチ、帰れ。
 帰って会長に伝えろ。
 俺は先輩を諦めない、ってな。」

「え? え?」

「ここはおまえのいる所じゃない。
 帰れ。もう二度と俺の前に顔を見せるんじゃない。」

 冷たく言い放つ浩之。
 マルチは自分の耳を疑った。

「そんな顔をしても、だまされないぞ。
 さんざん俺をこけにしやがって。
 …帰れ! 出てけ!
 おまえの顔なんか見たくもない!!」

 浩之はマルチを突き飛ばした。
 マルチは、開け放たれたドアから外に転がり出す。

「きゃっ!?」

 敷居につまずいて後向きに倒れたマルチの目の前で、ばたんとドアが閉められた。



「ひ、浩之ちゃん、いくら何でもかわいそうだよ。」

「いいんだよ。
 どうせあいつは、心のない機械に過ぎないんだ。
 人からどう扱われようと、痛くも痒くも、悲しくもない、ただの人形なんだ!」

 吐き捨てるように言う声が、ドア越しに聞こえる。

(心のない機械…? ただの人形…?
 ち、違う!
 私には…私には心が…人間と同じような心があるって…)

 そう言ってくれたのは、ほかならぬ浩之ではなかったか。

 マルチはよろよろと立ち上がると、ドアをあけようとした…が、それはロックされていた。

「ご、ご主人様ぁ…
 マルチが何かご機嫌を損ねるようなことをしたのなら、謝りますぅ。
 ですから、ここをあけてくださぁい。
 お願いですから、何を怒っておられるのか、教えてくださぁい…」

 マルチはドアに顔を押しつけて、泣きながらそう言い続けた。



 …………

 どれくらいの時間が経ったろう?
 マルチはその場に座り込んで、額をドアに押し当てたまま、泣いていた。
 と。

 ガチャッ…

 ドアがわずかに動いた。
 マルチは慌てて身を起こすと、ドアの邪魔にならないよう、脇へよけた。
 あかりが出て来る。

「あ、あかりさん!?
 …ご主人様のご機嫌は直りましたか?」

 あかりは首を横に振る。

「私にも家に帰れって…
 マルチちゃん、こんなときは、浩之ちゃんに何を言っても無駄だよ。
 出直した方がいいと思うよ。」

「で、でも…」

 せっかく会えたのに…

「よかったら、私の家に寄って行かない?
 聞きたいこともあるし…ね?」

 しきりに勧めるあかりに腕を引かれ、まだべそをかいているマルチは歩き出した…



「ひ…浩之ちゃんと… そ、そんなことを!?」

 あかりが目を丸くする。
 頬は真っ赤に染まっている。

「はい。優しくしていただきました。」

 マルチは、浩之に拒まれたショックからか、あかりに問われるままに、ふだんなら恥ずかしくて言
えないようなことまで話している。
 浩之との出会いから始まって、ゲーセンで遊んだこと、胸を触られたこと、果ては別れの夜の睦言
まで…

(ひ、浩之ちゃん、ひどいよ…
 そりゃ、私だって、子どもっぽい体つきだけど…
 マルチちゃんって、どう見ても中学生…
 ううん、むしろ小学生なのに、そんなことするなんて…)

 あかりは動揺を隠せない。

「なのに、今日は…
 何を怒っておられるのか、さっぱりわけがわからないんですぅ。」

 マルチは再びべそをかく。
 あかりの様子にまで気がつくゆとりはないようだ。

「あ、ああ…
 そのことなら、私も詳しいことはわからないんだけど、
 確か、マルチちゃんが、来栖川の会長さんの差し金で、
 来栖川先輩と浩之ちゃんの仲を引き裂くようにプログラムされている、
 とか言ってたみたい…」

「そ、そんな…
 私、芹香さんとご主人様を引き裂こうなんて、思ったこともありません。
 第一、ご主人様は、私のことを好きだって…
 ずっと一緒にいたいって、そうおっしゃって…」

 ずきん

 あかりの胸が痛む。

「そ、そう?
 …それじゃ、浩之ちゃんの誤解かも知れないけど…
 誤解を解くにしても、今日は話を聞いてくれそうにないから、
 一度帰った方がいいよ。」

「…あの…」

「え?」

「ご主人様は…芹香さんと…
 仲良くしておられるんですか?」

 ずきん

「…え、ええ。そうみたいね。」

「…芹香さんは…ご主人様の…恋人、なんですか?」

 ずきんずきん

「ど、どうかしら…?
 そこまではわからないけど?」

「そうですか…」

 マルチはよろよろと立ち上がる。

「どうもご迷惑をおかけ致しました。
 そろそろ失礼します。」

「あ、だ、大丈夫?
 何だか、ふらふらしているみたいだけど?」

「大丈夫です…」

 マルチがあかりの家を出て行くと、あかりはほーっとため息をついた。

(来栖川先輩だけでも大変なのに… マルチちゃんまで…)



 ガチャッ

 開発部のドアがあく。
 残業で残っていた、長瀬と数名のスタッフが振り向く。
 そこにはマルチが立っていた。

「おお、マルチ、お帰り。
 どうだ…った…?」

 長瀬は、マルチの様子がおかしいのに気がついた。
 大きな瞳は潤んで、両頬に涙の筋をつくっている。
 何度も転んだらしく、服のところどころが汚れている。

「マ、マルチ!? どうしたんだ!?」

 ほかのスタッフたちも、驚いて尋ねる。

「…お父さん…」

 マルチはふらふらと部屋に入って来た。
 長瀬が思わず駆け寄る。

「お、お父さん…お父さああああん!!
 う、うわああああああああああああああああああああん!!」

 マルチは、長瀬の胸にすがって泣き出した。



「…そうか。
 マルチ、安心しなさい。
 それは、浩之君の単純な勘違いだ。」

「ぐす… そうでしょうか…?
 でも、私、ご主人様に嫌われたようで…」

「大丈夫。
 藤田君は、マルチを嫌いになったわけじゃない。
 間違いだとわかれば、きっとまた、もとの優しいご主人様に戻ってくれるよ。」

「ほ、本当ですか?」

 涙に濡れたマルチの瞳が輝く。

「本当だとも。
 …さ、今日はもう遅いから、充電の支度をしなさい。
 ぐっすり眠って、疲れをとるんだよ。
 寝不足で腫れぼったい顔をしていたら、それこそ彼に嫌われるぞ。」

 メイドロボも腫れぼったい顔になるのだろうか?

「は、はい。
 …ありがとう、お父さん。」

 マルチはようやく笑顔を見せた。



 翌日。
 下校前に、芹香が浩之の教室に来る。ほぼ日課のようなものだ。
 執事が迎えに来るまで、中庭の芝生にふたりで腰を下ろしておしゃべりをする。

「…昨日、マルチが家に来たよ。」

 浩之がぽつりと言う。

「…………!」

 芹香が驚く。

「追い返してやった。
 二度と来るなと言ってやったよ。
 もうだまされない。
 俺が好きなのは、先輩だ。
 誰にも、俺たちのことを邪魔させないからね。」

「…………」
 芹香は頬を染めて、ありがとうございます、と言った。



「…………」

「違います、お嬢様!
 このセバスチャン、決してあの小僧のことを、
 大旦那様に言いつけたりはしておりません!」

 マルチが再び現われたのを、執事の告げ口がもとと考えた芹香は、迎えに来たセバスチャンをなじ
るのだった…



 ピンポーン

「はーい。どなた?」

 浩之が家の中から声をかける。
 返事がない。
 用心しながらドアをあけると、そこには…マルチが立っていた。
 浩之は驚いたが、すぐに無言でドアを閉めようとする。
 マルチは必死にドアの隙間に体をはさんで、叫んだ。

「ま、待ってくださぁい!
 誤解です、誤解なんですぅ!」

「誤解? 何のことだ?」

「こ、これに書いてありますぅ。」

 マルチは一通の手紙を差し出した。

「これは…?」

「お父さんからの手紙ですぅ。」

「お父さん?」

「はい。…私をつくってくださった、主任のことですぅ。」

「…………」

 浩之はドアから手を放し、手紙を受け取って封を切った。
 マルチはようやく玄関に入ることができた。
 そのまま、浩之が手紙を読み終えるまで、神妙に控えている。
 手紙を読み進むうちに、浩之の顔色が次第に青ざめていった…

「…ご主人様?」

 とうに読み終わったはずの手紙を持ったまま、蒼白な顔で立ちつくしている浩之が心配になって、
マルチはおそるおそる声をかけた。

「…そ、そんな…」

 浩之は、喉から絞り出すような声で呻いた。
 長瀬からの手紙には、マルチについての真実が記されていたのである。

 長瀬は結局会長命令に従わなかったが、会長は自分の指示通り行なわれたと信じていること。
 マルチは自分自身の心を持っており、自分から浩之を好きになったこと。
 性交機能は、より人間に近いメイドロボを生み出したいというスタッフの願いにより、最初から搭
載されていたこと…

「それじゃ、マルチ…
 おまえにはやっぱり、心があるんだな?」

「はい。」

「おまえは、誰に言われたのでもなく、
 自分自身の心で、俺のことを好きになってくれたんだな?」

「はい!」

 マルチは力強く答える。

「マ、マルチ…
 すまなかった、赦してくれ!
 この通りだ!」

 浩之が頭を深々と下げる。
 マルチは慌ててそれをやめさせようとする。

「ご、ご主人様! やめてください!
 …いいんです、誤解なんですから。
 わかっていただければ、それでいいんですぅ!」

 浩之にしがみつくマルチ。
 マルチをぎゅっと抱きしめる浩之。
 目を閉じて、涙を流しながらも、幸せそうな顔で抱かれている少女の可憐な顔を見下ろしながら、
浩之は思った。

(マルチ… 先輩… 俺、俺…
 俺は一体どうすればいいんだ?)



 マルチは、あの別れの夜のごとく、食事の準備をしたり、掃除をしたり、風呂をわかしたりして、
いそいそと働き続けた。
 浩之は、何もしなくていいからゆっくりしてくれと言ったのだが、

「私、ご主人様の傍で働けるのが、とっても幸せなんですぅ。
 まるで夢のようですぅ。」

 と笑顔で押し切られてしまった。
 マルチは根っからのメイドロボなのだ。

 …因みに、食事はミートスパゲティに再挑戦。
 結果は… まあ、ミートせんべいにはならなかったとだけ言っておこう。



 そうこうするうちに夜もふける。

「マルチ、今夜は何時までいられるんだ?」

 すると、マルチは、急に潤んだ瞳になった。

「はい… あの、外泊許可をいただいてきました。」

 浩之は狼狽する。
 外泊ということは…

「ご主人様…」

 切なげな声で、マルチが浩之に近づく。

「ご主人様…」

 浩之にしがみつく。

「マルチ…」

 浩之は、いつになく悩ましげなマルチの姿に、はっきりとそそられていた。しかし…

「マルチ…
 俺、俺な…
 おまえがいなくなってから…」

「…何も言わないでください。」

「え?」

「お願いですから、何も…」

「…………」

「私、ロボットですから…
 ご主人様のお傍にいられたら、それだけで幸せなんです。
 …お嫁さんになろうなんて、思ったこともありません。」

「!」

 浩之は驚きを顔に出した。マルチはもしかして…

「芹香さんのこと、聞きました。
 きっとご主人様にはお似合いだと思います。」

「…………」

「ですから、気になさらないでください。
 …もう何も言わないで…」

 健気なマルチ。
 可愛いマルチ。
 浩之はたまらなくなって、マルチを抱きしめた…



 浩之の隣に、マルチの愛らしい寝顔がある。
 安心したように、ぐっすりと眠っている。
 …あの後、浩之はマルチを抱いた。あまりのいとおしさに我慢できなくなって。
 それから、ふたりはあれこれとりとめもない話をし…
 そのうち、マルチが眠り込んでしまったのだ。

(マルチ… おまえ、本当にそれでいいのか?
 それに、先輩は… この事を知ったら、何て思うだろう?)

 浩之は、もうひとつ割り切れなかった。



 翌日、日曜日。
 マルチは名残を惜しみながら、帰って行った。

「きっとまた、お許しをいただいて来ますからぁ。」

 別れ際にそう言って。



 月曜日。
 あかりが迎えに来る。
 志保にからまれる。
 いつもの登校風景だ。

 …昼休み。
 中庭に出て行くと、いつもの通りぼんやりとベンチに腰を下ろしている芹香を見つけた。

「先輩。」

 浩之さん、と芹香が嬉しそうに−−浩之にしかわからないのだが−−言った。

「話があるんだ…」

 浩之は、マルチの真実を話し始めた。
 話さないではいられなかった。

 芹香の目が驚きに見開かれた…



 *  *  *  *  *



 10年後の藤田家。

「お、奥様。
 ご主人様はまだ目を覚まされませんか?
 早くしないと、会社に遅刻…」

 マルチが、部屋の外から心配そうに声をかける。

「……………」

「え? さっきからずっと呼んでいますが、一向に目を覚ましません、ですか?
 …奥様、ちょっと失礼致します。」

 マルチは夫婦の寝室へ入る。
 ベッドの上では、浩之が気持ちよさそうに眠っている。
 芹香がその隣で、浩之の名を呼んでいるのだが…芹香の声の大きさでは、目を覚ましそうもない。
 マルチは案の定という顔をしながら、浩之の体を思いきり揺すった。

「ご主人様ーっ! 朝ですよーっ!」



 …浩之と芹香はその後も交際を続け、二年前に結婚にこぎつけた。
 来栖川会長から猛反対があったのだが…芹香の妹の綾香が「直談判」をして、会長を「沈黙」させ
たという。
 その代わり、芹香は勘当同然で来栖川の家を出たのである。
 マルチは、例の再会以来、ほぼ週に一度の通い妻のような状態が続いた。
 芹香もマルチも、お互いを認め合い、芹香が浩之と結婚すると同時に、マルチも自分の所有権を移
転してもらって、正式に浩之の所有となったのである…



「うう… マルチィ…」

 ぎゅっ

「きゃっ!?」

 寝ぼけた浩之は、マルチの手をつかむと、ベッドに引き込んだ。

「ご、ご主人様…!?」

「へへ… マルチはいつも可愛いなあ…」

 寝ぼけたまま、頬ずりなどしている。

「ふにゃあ…」

 マルチもつい、とろけた顔になる。が、

「…は!? ご、ご主人様、いけません!
 遅刻しますよ!」

 慌てて、傍にあった時計を浩之の目の前につきつける。

「…へ? …うわっ!? もうこんな時間!?」

 寝ぼけ眼の浩之は、時計の数字を確認すると、やっと目を覚ましたらしい。
 同時に、自分が思いきりマルチを抱きしめていることに気がついた。
 おそるおそるベッドの隣を見ると…
 半身を起こした芹香が、無表情な顔で浩之を見ている。
 確かに、「無」表情なのだが…何事かを雄弁に物語っているような気がする…

「い、いけね!
 急いで支度しなくちゃ…」

 わざとらしく慌て始める浩之。

「お食事の用意はできてますぅ。
 どうぞ洗面を…」

 マルチが言い終わる前に、浩之は寝室を飛び出していた。
 そのとき、メイドロボの耳に、かすかなため息をつく音が聞こえたような気がした。

 平和な藤田家の一日が始まる…


<芹香編> 完


−−−−−−−−−−−−

本当はもっと、真相を知った芹香さんとマルチの葛藤を描きたかったんですが、
それをやり出すとこちらが本編になりそうなので、やめました。
もともと思いつきの分岐ですし…

しかし、本編でもセリオ編でも、芹香さんが結構重要な役割を果たしていますね。
校正しながら、今になって気がつきました。


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